春の眠りは永遠に続く 10

 井川さんの最後の痕跡は、一通のメールだった。宛先は小森さん。空メールだった。

 杏奈さんは、どうしてこのことを早く伝えてくれなかったのか、と電話越しに話していた。警察との通話を切る。

「それって、重要なことなんですか?」

「ええ。事件の数時間前に送られていたというのに」

 小森さんのスマートフォンは落下の衝撃で壊れてしまっており、井川さんのメールサーバーからメールは削除されていたため事件当初は分かっていなかったこと、空メールだったため後回しにされていたことが原因らしい。それが小森さんと井川さんとの間に起きた事故が分かった今、そのメールにも何か事件解決の手掛かりがあると判断されたらしい。

「既読状態になっていたそうですから、少なくとも小森さんはそのメールを見た後に亡くなっています」

「ということは小森さんの死にはメールが関係している」

「おそらく」

「でも空メールだったんですよね」

「ええ。ここからわかるのは、井川さんがメールを送信した時間までは生きていたということだけです。何しろ件名もなかったそうですから」

 こんな話をしながら歩いていると、青海大学に帰ってきていた。もうすぐ5限が終わる。

「あそこから、小森さんは落ちたんですよね」

 僕は正門から見える20号館5階を見上げた。

「ええ」

 杏奈さんも見上げた。

「久仁さん」

 杏奈さんは20号館を見上げながら尋ねる。

「はい」

「あの窓からはここはどんな風に見えるのでしょうか」

 それは、と口ごもっていると、杏奈さんは駆け出した。僕も必死で追いかける。

 僕たちは、20号館の中へ入り、階段を駆け上がった。5階まで来ると、きょろきょろとドアを見回す。

「ここです」

 そう呟いて少しだけ奥へ行った。杏奈さんが探していたのは、葉山教授の研究室だった。杏奈さんは奥の方のドアノブを下ろす。ドアノブにはテンキーがついていた。外からではロックがかかり、やはり開けられない。

 中でざわめくのが聞こえる。バタバタと足音が聞こえたと思うと、葉山教授の研究室の方から背の高い、顔に皺の酔った男性が現れた。

「一体何ですか」

 その男性がドアを開けるとともに、杏奈さんは隙間からするりと忍び込む。

「ちょっと、君!」

 彼が杏奈さんを追いかけて行ってしまったので、僕も中に侵入する。杏奈さんは、さらに隣の部屋への侵入に成功していた。

「ここが、学生研究室、ですね」

 杏奈さんが中にいた学生に確認する。

 その部屋は5畳ほどの広さだった。真ん中にある大きな机を仕切った6人分の席があり、そのうち1つは顔を伏せていた学生がむっくり起き上がっていた。壁にはぎっしりと本で埋め尽くされた本棚が2つある。部屋の隅にはコーヒーメーカーやポット、電子レンジ、炊飯器などの調理器具、小さな流しがあった。

 南側のみに引き戸式のシンプルな窓が2面あるのみ。杏奈さんはその左側の窓に立って景色を眺めた。

「ここからは正門も、自転車置き場も、図書館も、池も眺めることができるんですね」

 杏奈さんに話しかけられた学生は言葉を失って、ただ首を横に振っていた。

「何だね、君たちは」

 ドアを開けてくれた男性は顔から湯気が出そうなほどに赤らめていた。

「申し遅れました、オオモジジャーナルのミヤマと申します。こちらはカメラマンのサトウ。

 押しかけたところは無礼申し上げます」

 杏奈さんはさっと名刺を渡す。僕の手にはカメラが握られている。

「オオモジジャーナル? 聞いたこともないな」

「さて、この研究室にいらっしゃったKさんですが、とある風俗店で働いていたようですね」

 反応したのは学生の方だった。

「まさか、さやか? うそでしょう?」

「そう、だよな……」

「実は確かな情報でしてね。実はそこで働くきっかけになったのは、その店の常連である男性客で、近くの大学で教鞭をとっていらっしゃるとか」

「よからぬ教授もいるようでしょうな」

「そのよからぬ教授はあろうことか金欠で困っている自分の研究室の学生に、アルバイト先としてその店を紹介したとか」

「それはどこから――」

 教授のうろたえぶりに、杏奈さんは話を進める。

「私としても、その件は水に流しましょう」

「わかった、わかったから帰れ!」

 教授が今度は氷水でも浴びたかのように青くなって叫ぶ。学生2人は僕たちや教授と目を合わせまいとしていた。

 無事研究室から追い出され、僕たちは20号棟を出た。

「久仁さん、撮れましたか」

「ええ。ばっちり」

 杏奈さんがまくし立てている間に撮った、小森さんが最後に見た風景。杏奈さんが言ったとおり、正門も、自転車置き場も、図書館も、池も眺めることができる。急にカメラマンにされたときには不安しかなかったが、どうやらその役目はまっとうできたらしい。

 杏奈さんのスマホには着信が入る。杏奈さんはすぐに受け答えをした。

「警察からです。明日、学内のパソコンの調査が決まりました。これで、ほとんど犯人が決まったようなものです」

 杏奈さんは僕に耳打ちした。

 僕はその内容を受け入れることができそうにない。

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