春の眠りは永遠に続く 9
雑居ビルが立ち並ぶ道路を僕ら2人は無言で歩いていく。杏奈さんは調査のため始終キョロキョロしていたが、時々思い出したように僕に道案内をしてくれた。アパートやビル、コンビニ、個人経営の店、僕はウインドウショッピングをしているような気分でそのまま杏奈さんと歩いていく。僕は大学から駅までしか歩いたことがないので駅と反対方向に向かう道を歩くのはそれなりに新鮮だった。賑やかな駅周辺とは打って変わって落ち着いた雰囲気の街だと今さらながら知った。しかし井川さんは自転車で通った道だけあって、スーパーまで辿り着くには20分もかかった。
「杏奈さん、どうですか」
「やはり清掃が行き届いているのもあって痕跡はなさそうですね」
僕もそれは思った。今までの道にはゴミ1つ落ちていない。ましてや自転車で走った痕跡など全く見つからない。見つからないのが無駄足だったとは思わないけれど、成果がなかったことからかどっと疲れが出てきた。
財布の中身を思い出す。少しなら出費してもいいか。
「せっかくですから何か買っていきますか?」
「そうですね。飲み物くらいは」
2人で店内に入り、飲料のコーナーを探す。飲料のコーナーは入り口から割合近いところにあった。缶コーヒーを手に取る。杏奈さんはデザートのコーナーを一瞥すると、飲料コーナーに戻ってきた。
「デザート、買いますか?」
この時間なら小腹もすくだろう。実際、僕も疲れからか空腹を感じていた。
「いえ。久仁さんと会う前に友人とプリンを頂いたので」
杏奈さんはデザートコーナーを伺ってから言う。プリンと言っても給食のデザートに出てくるくらいの小さいものだってある。それでは満足できなかったのだろう。ダイエットだろうか、金銭面の心配だろうか、はたまた僕がいるからだろうか。実際は食べたいのだろうけれど、デザートを買うのを我慢しているようにしか見えなかった。
「……僕のことなら遠慮なさらずに」
「いえ、とんでもない。ただおやつは1日1つまで、ですから」
「はあ」
どうやら独自のルールがあるようなので、誘惑しないように僕も買い食いは諦めることにした。2人してできるだけ他のものを見ないようにしながらレジへ向かい、僕は缶コーヒーを、杏奈さんはアップルジュースを買った。あまり行儀はよろしくないが2人揃って駐車場で飲み物を飲む。イートインスペースもないので仕方ないだろう。
「ところで、何を探しているんですか」
半分ほどコーヒーを飲んだところで、ストローで中身を吸っている杏奈さんに聞いた。
「井川さんと小森さんが変わった原因が井川さんの自転車が壊れた日にあるのではないかと考えています。実は、小森さんの様子がおかしくなったのも、井川さんが借金をするようになったのも井川さんの自転車が壊れてからなんです」
「え?」
井川さんが借金を始めただけでなく、被害者の小森さんもおかしくなった?
「話を聞いてみると、小森さんは研究室に入ってからよく転ぶようになったりぼーっとすることが多くなったそうです。また、あまり親しくしていなかった井川さんと話しているところを見かけるようになったと聞きました。井川さんが最初にお金を友人から借りたのも4月の頭からでした」
そういえば御簾さんも後輩に借金をして回ることを恐れていた。借金をするようになったのは最近になってからということだろう。
「ただ1つ気になることがありまして」
「何ですか?」
「小森さんは実家から通っていますし、サークルも去年の秋に引退したようなのでのでこちらに来る用事はないはずなんです。友人の家に泊まったわけでもないようですし。もしこれからの道中に何かあるとしたら、どうしてこんなところにいたのでしょうか。井川さんのシフトから考えて10時を過ぎるはずなんです」
確かにそうだ。女子大学生が夜に歩くのにこの近辺だって安全とは言えないだろう。用事もないのになぜこんなところにいたのか。
「小森さんの親御さんは心配しないんですか」
「レポート作成などの理由で友達の家に泊まることはよくあることだったそうです」
杏奈さんはストローをジュースのパックの中に押し込むと、すたすたと歩きだした。僕も缶を握りしめたまま慌ててついて行く。
スーパーからの道中ではあまりのポイ捨ての多さが気になった。
たばこの吸い殻は2,3歩歩けば見つかるし、道路の端には派手なお菓子の袋が目に付く。右の方にビニール袋が泥水の中に沈んでいるのを見れば左には紙のカップに蟻がたかっている。
「ゴミが多いですね。さっきの道路はゴミ1つなかったのに」
「多少はどの道路にもゴミは落ちていますが、ここまでとなると多いですね。今私たちがゴミを持っているせいもあるのでしょうけれど」
スーパーで買った缶や紙パックも中身がなければゴミだ。缶や紙パックが欲しくて買ったわけではないが、用済みだからと言ってそれを道端に捨てていいというわけではない。
「大丈夫なんでしょうか、この街は」
「治安が悪いとかマナーが悪いとは一概に言えませんが、近所付き合いが希薄でゴミ拾い等も行っていないのでしょう」
路上にゴミを捨てるのは住民とは限らない。それは分かっている。住宅街ではあるが居酒屋やバーも点々と構えているところを見ると、住人以外の人が歩いていることがうかがえる。
「もう少しで井川さんの家についてしまいます」
杏奈さんがぽつりと言った。僕は目的をすっかり忘れていた。僕たちが辿り着くのは必然的に井川さんの家だ。「何もありませんでしたね」と声をかけようとした時だった。杏奈さんが道端にしゃがみ込む。
「どうしたんですか」
声をかけるも、杏奈さんは白い手袋を嵌めて土を払う。コードが引きちぎられたピンクのイヤホンが現れた。杏奈さんはビニール袋を取り出しイヤホンをしまう。
「まさか持ち主が何かの犯罪に巻き込まれたということですか」
「まず何かの事故または事件が起こったとみて間違いないでしょう。ただ場所が気になります」
「場所?」
あたりを見回しても信号機すらない丁字路。近くには黒い暖簾を掲げた居酒屋しかない。
「どういうことですか」
「久仁さんも気付いているとは思いますが、このデザインのイヤホンは主に若い女性が使っているものだと思われます。井川さんの場合はこの道を行くのが最短距離、そうでないと大回りになってしまうからこの道を通ることは考えられます。しかし、この辺りは防犯を気にするならば夜は避けるのではないかと思うんです。街灯が少なく、逃げ込める店もほとんどない。唯一といっていいこのキャバクラも駆け込み寺になるとは思えません」
確かに酔っぱらいの中に飛び込めるかというと分からない、が。
「キャバクラ?」
「キャバクラ嬢と呼ばれる女性が隣で――」
「いえ、そういうことではなく。この店ってキャバクラなんですか?」
「行政上は飲食店ということになっていると思いますが、実態としてはどうなのでしょうね」
確かに飲食店として届ければお客さんに食べ物か飲み物を頼んでもらうことで別の業種、例えばライブハウスを営むこともできるとは聞いたことがある。しかし建物も地味で貧相だからまさかキャバクラだとは思いもしなかった。
隣を見ると、杏奈さんがスマートフォンで誰かと通話をしていた。数秒で通話を終えると、杏奈さんはドアを開けて中に入っていく。
「待ってください!」
手持ちはないが女性一人で行かせられない。僕もドアを開けてみると、中にはでっぷりとおなかに脂肪のついたマダムがいた。
「お客だったとしてもまだ開店前だ。出ていきな」
「正直に答えた方が身のためだと思いますよ」
マダムは眉を吊り上げる。
「何だってんだい」
「今から警察が来ます」
杏奈さんにそう言われてマダムは口をつぐんだ。
「どういうことですか」と僕は杏奈さんに耳打ちした。警察が来るのは事故あるいは事件の件だというのに。
「もう一度聞きます。この中にこの店で働いていた人はいますか」
杏奈さんは写真を見せつける。マダムの体はガタガタと震え、1枚の写真を指さした。
「この子は働いていたよ」
杏奈さんは素早く写真をしまうと、「どうもありがとうございます」と言って颯爽と店から出て行った。僕も慌てて杏奈さんを追いかけていく。
マダムが指さしたのは紛れもなく小森さんだった。
「なぜ彼女がこの店で働いていたと?」
「住んでいるわけではない、知り合いの家もない、とすると若い女性が夜にこの辺りにいた理由としてはアルバイトでしょう。そしてわざわざこの辺りに来ているとすればこの店で働いていると考えたのです」
「つまり、小森さんはあそこで働いていることを知られることが怖かった?」
「ええ。そしてたまたま自転車に乗った井川さんが彼女と衝突した。音楽を聴きながらの運転ですから井川さんもこのことは黙っててもらいたい。警察や救急を呼ぶことはしなかった。ただその判断は誤りだったんですよ」
僕は唾を呑み込んだ。
「それはそうでしょう。事故に遭ったら警察に届けなければ」
「もちろんです。しかし、後の祭りですが、この事故では救急車を呼ぶ、少なくとも小森さんは病院に行っておくべきでした。事故に遭った直後はあまり痛みを感じません。そのまま自宅まで帰ることができたのかもしれません。しかし、被害は目に見えるとは限りませんし、時間が経ってやっとわかる症状もあります。おそらく小森さんは事故の衝撃でどこか、おそらく脳をやられてしまったのではないでしょうか。そこで井川さんに賠償金を支払わせていた。そのお金が井川さんが知人に借金をして回っていた理由です」
そういえば杏奈さんは生協で見た時にお菓子を陳列した山にぶつかって崩してしまった、と言っていた。
「まさか、小森さんは窓から転落した?」
「小森さんは結局その可能性が高いかもしれませんね」
だが、事件は終わっていない。
「井川さんは今どこへ? まさかあの店に閉じ込められているのですか?」
「どうでしょうか。少なくとも知っていればマダムは指を指したでしょうけれど」
警察の捜査では風営法違反で逮捕することはできた。しかし、井川さんのことは何1つ知らないようだ。取り調べに当たった刑事がそう話していたらしい。
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