春の眠りは永遠に続く 8
杏奈さんと待ち合わせたのは理学部のベンチ付近。再び液体窒素を汲んできたらしい向後さんを見かけるも挨拶する間もなく、杏奈さんは時間ぴったりに来た。
「それでは行きましょうか」
そう言って杏奈さんは歩き出す。僕もひょこひょことついて行った。
「さっきの方はお知合いですか」
さっきの方、ああ、向後先輩のことか。杏奈さんも僕の視線の方向が気になったようだ。
「ええ。サークルの先輩です」
「彼の学部はどこなのですか?」
「理学部です」
「そうなんですか。もしかして研究室で研究をしているんですかね」
「そんなこと言ってましたけど」
杏奈さんは向後さんのことが気になったらしい。
「それにしても随分多量の液体窒素を使うんですね」
「え?」
僕はまたしても生意気な口を利いた。
「確かお昼にお2人でお話をされていた方ですよね? その時も液体窒素の瓶を運んでいませんでしたか」
「そうですが、それが何か?」
「あの瓶には10Lの液体窒素が入ります。今も汲みに行っているということは、4時間しか経っていないというのに液体窒素を使い切ってしまい、それでもまだ必要ということでしょうか」
確かに10Lは多いかもしれない。
「液体窒素を切らしたら実験に影響が出るのかもしれませんね」
そうとしか答えられなかった。向後さんの研究分野に関しては僕はど素人である。
「それより、これからどこへ行くのですか?」
そう聞くと、杏奈さんは立ち止まった。
「そうですね。キャンパスを出る前に話した方がいいかもしれません」
通行の邪魔にならないよう、正門前の池を眺める形で話を聞くことになった。
「これから歩いて井川さんのアルバイト先のスーパーまで向かいます。そんなに遠くはありません」
「アルバイト先で何か聞きたいことでも?」
「いえ。確認したいのは大学からアルバイト先、そして自宅までの道中です」
僕が首をかしげるのが見えたのか、杏奈さんは説明を続けた。
「井川さんは自転車が壊れてしまったので田口さんから自転車を借りていました。 ところで井川さんの自転車はどうして壊れてしまったんでしょうか?」
「転んでしまった、とか?」
そう言えば井川さんの自転車はそんなに古い自転車に乗っていなかった気がする。ボロボロの自転車と形容するほど壊れてしまったというのか。
「その程度ならかすり傷でしょう。タイヤがパンクしたとか、部品を盗られたとか、そういったことは考えられます。しかし……」
「……大学まで乗って来ることができたんですよね」
田口さんの言う通りなら、ボロボロではあるが自転車として機能はしていたということだ。ベルなどの付属品が壊れた程度ならすぐに買い求めることはできる。
「井川さんの自転車に被害届は出ていないようです。これでイタズラされた可能性も低いと考えられます。残る可能性は、井川さんが最後に自転車に乗ったと考えられる日の道中で何かが起きた」
「これからその日井川さんが通った道を調べるんですね」
「はい」
そう言って杏奈さんは自分のスマートフォンを僕に見せた。大学周辺の地図が映し出されている。
「田口さんが自転車を貸した日の前日に、井川さんは大学に来ていたことが判明しました。友人の話では正門付近で別れたということです。また、その日は夜のシフトが入っていたことも確認済みです。ここから考えると、井川さんは正門から出た後にまっすぐ南下し、アルバイト先のスーパーに行ったと考えられます。そしてアルバイトを終え、西口の方から駐車場を出て、自宅まで道形に自転車を走らせたと考えられます」
大学からアルバイト先、アルバイト先から自宅までそれぞれ曲がらなくていいのか。迷わなくていいな、と少し羨ましくなった。逆に言えば迷子になりにくいという理由でアルバイト先を選んだ可能性もあるけれど。
「では行きましょうか」
「すみません、人の波が途切れたらにしてもらえませんか」
ちらりと信号を見ると、青信号になってから渡ってきた人の波が押し寄せる。その中の大半の人間は、ワンダーフォーリッジのメンバーだった。ゲームセンターから帰ってきたのだろう。部室に人が入りきらないときにはゲームセンターやカラオケボックスに行くメンバーも結構多い。とにかく顔を見られたくなかった。
「久仁さん、ロープが切れています。池に落ちないようにしてくださいね」
杏奈さんに言われて一歩遠のく。確かに僕が立っていた付近に張ってあった柵の代わりにしていたらしいロープが切れていた。池もあまりきれいな水とは言えない。落ちたら大惨事だ。
「危ないですね」
「このロープもそんなに脆い代物ではないと思うのですが……」
「春だからという可能性もありますよ」
「もしかして暖かくなったせいでプランクトンが大量発生するから、ですか」
「主な原因はそうです。湖沼の水質汚染の原因はプランクトンの大量発生ですし。プランクトンが活動的になるという理由もありますが、気温が上がるにしたがって起こる表面の水温の上昇が大きく関わってきます。冬に4℃未満だった水面付近の水は、春になって4℃になると比重が大きくなって底の方に向かいます。一方で比重の軽い中間あたりから底の方の水が水面付近まで移動し池全体で対流が起こります。その時に底の土壌が舞い上げられることによって土壌の栄養も巻き上げられるので、久仁さんの言うようにプランクトンの大量発生にも繋がります」
そうか、水の密度が最も大きくなるのが4℃だから春に対流が起こるのか。
「夏になればきれいになるんですかね」
「夏は水温が高いのでプランクトンの生育には好ましい条件ですね……。秋も同じように対流は起きますし、池の水が一番きれいなのは秋の対流が終わった直後でしょうね」
要するに有害物質が多量に含まれているわけでなければ、プランクトンの数が水のきれいさにつながるということか。しかしプランクトンは池に棲む生き物のエサとなるからそれだけ生き物が棲みやすいとも言えなくはないのだろう。
「ではそろそろ行きましょうか」
杏奈さんに連れられて僕はキャンパスから出た。
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