春の眠りは永遠に続く 7
今日はワンダーフォーリッジに行く気分にはなれなかった。
昨日の会議が間の悪いことに予算関係だった。新入生に会費の説明をし、延納している人に注意を呼び掛けたのだ。僕のことをチラチラ伺う御簾さんの視線に耐えられなかった。とりあえず途中退出せずに参加したものの、会議が終わると僕は逃げるように部室を出た。今日も御簾さんは部室にいるだろう。御簾さんはワンダーフォーリッジのサークル長だ。少なくとも会議は来ないわけにはいかない。
昼休みの今もきっと部室で怯えているのかもしれない、僕はそう思いながらキャンパスのベンチに座り込んでいた。
目の前の建物は何の施設だかよく分からない。しかし厳重に柵で覆っているのを見ると、危険なものを取り扱っているということは分かる。ふと目をやると、その柵の中に入っていく人物がいるのが分かった。その人物はすぐにこちらに気付いた。僕は慌ててお辞儀をした。向後さんだった。向後さんはタンクを載せた台車を運んでいた。向後さんは足で台車を押さえながら柵の前で何かをしている。僕は慌てて向後さんに駆け寄った。ワンダーフォーリッジの人に会いたくないという気持ちも確かだが、それでも困っている先輩を放っておける人間ではなかったようだ。
「向後さん!」
僕は彼の近くまで来る。
「佐伯?」
「手伝いましょうか?」
向後さんはぶんぶん首を振った。
「これ液体窒素のだからあまり人に手伝わせたくはないが……」
向後さんは自分の状況を見て観念したのか、僕に台車を持っているよう指示した。向後さんはすぐに鍵を開けることができた。
「悪いな、佐伯。今ちょうど誰もいなかったから」
そう言って向後さんは台車を押して中に入る。どうやらこの建物の中に液体窒素があって、それを取りに来たらしい。
鍵を閉めるのもままならなそうなので、僕は向後さんが出てくるまで待った。台車を押して出てきた向後さんは、「すまない」と頭を下げた。そして僕に台車を持たせると向後さんは鍵を閉めた。
「最後まで悪いな。昼休みは行かなくていいのか?」
「まあ、今日はちょっと」
成り行きで一緒に歩き出す僕たちは、当てもない会話をしていた。
「その液体窒素何に使うんですか?」
「卒業論文の研究」
向後さんはそれから液体窒素の入っているタンクを見つめた。向後さんは理学部だ。研究には液体窒素が必要な時もあるだろうと考えた。
「佐伯、昨日はどうしたんだ?」
「へ?」
痛い所を聞かれて、僕は声が上ずった。
「何か探偵が来てたんじゃなかったのか?」
「ああ、そうですね」
僕は杏奈さんが訪ねてきてすぐに部室の外に行ってしまったことを思い出した。向後さんにはよくわからない訪問に見えただろう。井川さんの元恋人なら話を聞いた方がいいかもしれない。御簾さんの件には触れないように話すことにした。井川さんの行方はまだわからない。警察では井川さんは小森さんを殺害したことに耐えかねて失踪したとみて調べており、警察は井川さんの捜索に舵を切っていった。すべて杏奈さんから聞いた話だが、捜査が思わしくない方向に動いているのは事実だと言える。向後さんは僕の話を聞き終えると「そうか」とため息をついた。
「沙綾の捜索の方に力を入れているのか」
気持ちは分かる。井川さんが生きているとは限らない、そう言っているも同然なのだから。
意外と時間は早く経つもので、もう理学部の敷地に来てしまった。
「佐伯、ありがとな」
「ここから先はいいんですか?」
「ああ。関係者以外は入らない方がいいだろう」
そう言って向後さんは建物の中に入っていく。
「あら、久仁さんではないですか」
僕は素っ頓狂な声を上げた。今まさに話題の人物から声をかけられたからだ。杏奈さんはちょうどお昼ご飯を食べていたのか、手にはカップラーメンの容器が握られている。
「事件の方は、何か進展はありましたか?」
僕はそれとなく杏奈さんに聞いてみた。
「はい。田口さんの自転車がキャンパス内で発見されました」
「田口さんの自転車が、ですか?」
「はい。図書館の裏側の駐輪スペースに放置されていました。田口さんに確認をとったところ、彼のもので間違いないそうです。しかし、鍵がかかっているため鍵の捜索は続いています」
研究室に行くのに20号館付近の自転車置き場が混雑していたから図書館の駐輪スペースに自転車を停めていたのかもしれない。
「しかし不自然です。自転車の方が早くその場を立ち去ることができます。どこかへ逃げることを考えた場合、自転車はかなり有用な代物のはずです」
「井川さんは借りパクなんてできませんよ」
「もし井川さんが犯人なら鍵を持ったまま自転車を置いて逃げたっていうことですね。確かに図書館まで行くにも人目に付きます。確かに筋は通っています。
しかし、一番の謎は、どうやって井川さんは20号館から出たのかってことです。目撃証言1つないのですから」
「それって、建物の中にいた人も井川さんのことを見ていないということですか」
「ええ。彼女は授業に出ないことが多いとはいえ、ある程度顔は知られています。彼女たちも一切見ていないどころか、あの事件があった日の1週間くらい前から姿を見ていないそうなんです」
「1週間も前から?」
「ええ。しかも借りたお金も返さずに。アルバイトもそのくらいから無断欠勤しているようです」
事件の日以降はともかく、その1週間はどこにいたのだろう。
「……最後に会った人って誰なんですか」
「メールのやり取りとなると田口さんですが、直接会った人となると今の時点ではお金を貸した友人の1人のようです。もちろん用件はお金を返してもらうことで、アルバイト先まで押し掛けたと証言しています。ただ、井川さんのスマホが壊れていたために連絡が取れなかったようです」
「もしかして借金の内訳はスマホの修理代ですか?」
「ところがそうでもないようです。1ヶ月も前から壊れていたのにケータイショップには足を運んでいないようですし、スマホが壊れたことすら隠していたようなんです」
道理で誰とも連絡が取れないわけだ。……いや、田口さんにメールが送られたのは確か2週間前だ。
「田口さんとはどうやって連絡を取ったんですか」
「それは簡単です。パソコンから自分のメールアカウントにログインしたんです。ただ、なぜかこのメールだけは学内共有のパソコンからログインしています。井川さんは自前のパソコンは持っているのに」
「学内のパソコンだと何か気になる点があるんですか」
「セキュリティを考えると、学内のパソコンから大学とは関係のない個人のアカウントに接続するのは良いとは言えません。どこから見られているか分かりませんから」
そういう問題があるのか。いや、そこまで捜査情報を探偵が知っているものなのだろうか。
「ところでどうしてそこまでの情報を知っているのですか?」
僕は恐る恐る聞いた。
「……半分くらいは自分で調べましたが?」
……警察よりよっぽど腕が立つのではないだろうか。
「信じられないというなら、少し調べたいことがあるので、一緒に来てみますか?」
よっぽど信じられないという表情を露わにしていたのか、杏奈さんが聞いた。
「いいんですか?」
「ええ」
「いつが空いていますか?」
「今日の4限以降は空いています」
杏奈さんは「いいですよ」と答えた。
ワンダーフォーリッジのことはすっかり忘れていた。
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