第285話 面白さの追求

面白いって、すごく主観的な言葉だと思う。


何が面白いと思うかは個人個人違うし、重きの置き方も違う


どうすれば面白くなるのかとか、ジャンルの方向性に会うようになるのかっていうのは編集者と作家のいつも重要課題になる。


じゃあ、編集者が作家が書いたものに手を加えるかというと、良い編集者はあまりせずに、「これがこうなるとこう矛盾が発生するが、これでいいのか?」とか「このキャラクターはこのままでは非常に○○な人格になるが、お話の筋的にそれでいいのか」とか、そういう部分の指摘をしてくれる。


書いてるときは気がつかないブレや矛盾や人格形成なんかやっぱり出てきてしまうもんなんだ。そういうのは本当に他人が読まないとわからない。


良い編集者が入れば、悪い編集者もいる。


「この話はこういうふうな話にするといいと思うのでそうしなさい」


そんなこと言われて素直に治すと実は話全体に歪みが生じて、それを矯正するのに大変だということがあった。

要するに話の筋自体に手を加えてくる編集者は、作家を殺すんだよ。


なぜなら、そうやって書き直した作品の責任は、全部作家が被るわけだから。


それで潰された作家は少なくないはずだよ。


わたしも一度あって、すごく困ったことがあるし。キャラクターの人格や立ち位置を勝手に変えられてその通りに話を作り変えさせられたときは本当に困った。


結局、読み手はそんなキャラクターの存在などより、主人公や脇役に魅力を感じてすっ飛ばしてくれたんだけどね。


わたしも手直し最低限で済むような書き方しかしなかったし、最初からキャラ設定にそういうキャラじゃないことは書いてあったわけだから、イラストレーターと編集者だけでノリで決めたその設定には怒りを覚えたものだよ。せめてわたしの意見聞いてから決めてよって。


話が随分ずれた。


面白さって、感覚的なもので、センスなんだと思う。それは努力では培えないけど、テンプレと呼ばれるものにはめて書くことは可能だと思うよ。

そのテンプレも超えて面白くするのは作家の力量だと思うけど。センスね。


個人個人読み手が全て面白いと思う話って実はないんだよ。面白くないと思う人もいるわけ。その話が肌に合わないんだと思う。後は脳内補完が非常に優れていて、情報が溢れてきて話自体が楽しめなくなるタイプ。こういうタイプは非常に得してる反面損もしてる。


日常場面が多くないとこういうタイプは情報で脳が破裂するんだ。


ジャンルによるけど、日常場面に終始する作品でいい場合とそうでない場合があるんだ。

それを間違えると場違いなものになってしまうことがあって、大失敗をやらかして、書き直しになることもある。


だから面白いものというのはセンスとジャンルの見極めが大事じゃないかなと思うんだ。

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