第3話「短気は損気」

ディレクターっていっても、


日頃の作業は一人。




心静かに、


自分の作業を淡々とこなすだけです。







けど、うちの会社って、


周りと会話しながら、ワイワイ作業することが好きな人が多い。




だから、


その「輪」の中に入ることが、とても重要な意味をもつ。



仲間として受け入れられるって感じかな。





その輪に入ることを推奨してくる人もいるし、


入らない=心配されたりもするけど、





私としては、


最低限聞かなきゃいけない事は聞いてるし


一人で解決できる事は一人でやってるし、



それだけ(笑)



それ以下も、それ以上もない。







コミュニケーションは大切だと思う。



けど、職場において、


本音を隠して、周囲にニコニコ合わせるような「慣れ合いゴッコ」が少し苦手なのです。



けど、それをいって「一切周囲に合わせない」っていうのは、また違う。


単なる、自分のわがままになっちゃうよね。







だから最小限でいい。



自分に無理してまで過剰にコミュニケーションをとることはしない。


後々疲れている理由を他人のせいにしてしまいそうな種は、最初からもたない、


そうゆう、スタンスなのです。





これは、


別に仕事上に限った話ではない。





「こうすればあなたは満足なんでしょ」


とか


「こう言えばいいだろう」


とか、



こういった他人との関わり方は危険なのだ。






「状況」と、「相手」を見極めた上で、やる分には問題ない。





だって世の中には、



仕事上仕方ない状況だってあるし、


あまりにも酷い問題児がいて、そう対処せざる終えない状況だってある。





けど、人って、そんなに強くない。



「慣れ」という言葉がある。



いつしか、「状況」も「相手」も関係なく、そうすることが「普通」になってくると、やっかいである。







「心」を軽視しすぎたコミュニケーションは、


いつしか、自分の心に多大なる負担としてのしかかってくるし、


常に「人に合わせている」ということから、


まるで、自分のことを「被害者」だと思いこんでいくことになる。






そもそも、


「こういっとけばいい」


と考えている時点で、



実は相手がどうゆう気持ちでその言葉を述べたかという部分を全く理解しようとしてないことや、



自分が他人を少なからず「下にみている」という事実にすら、気づけなくなってくるのだ。




また、



「こう勘違いされたら嫌だな」


「こう思われたくない」


「誤解されたくない」


という不安の感情がいきすぎるのも危険。



常日ごろから、過剰にそうゆうことを気にして、計算しながらする「お付き合い」は、何より自分自身が疲れるのだ。



相手への「思いやり」が根源にあるなら良いが、相手の「反応」を気にし過ぎての行動は、他人にとっても自分によっても、ゆがんだコミュニケーションへの第一歩になってしまう。








今日も心静かにもくもくと作業してたんだけど、


ふと、考えてみた。





社内の人は、職場であっても、ガチガチの輪の中で大変なんだろうなって。





私は、職場においては「仕事」に取り組むことが何より大事で、



「お客さんにとって良いものってなんだろう?」


「今日は効率よく作業して早く帰ろう」


「この進め方だと、周囲は大変かな?」



極端にいうと、そうゆう視点しか持っていない。



良いのか、悪いかは別にして、凄くシンプルに生きてるなって思ったんだ。







だからこそ、



自分の見ている世界に「存在しないもの」には気づかない。





普通に職場にいる人間なら、


誰もが見ているであろう<日常の風景>に、あまり気づいてなかったみたい。







職場だって、コミュニティの一つなんだから、


その中では、人間の色々な「感情」が渦巻いている。


誰だって、自分のことは認めてほしい。


自分の居場所を確保することは大変なことだ。



現実世界では、そういったやりとり(心理戦)が、毎日アチラコチラで繰り広げられていたようである。






少し前の私だったら、こうゆうことにも敏感で、過剰なほど認識していた。



自分に関係ない話だとしても、他人の色々な感情を受け取りすぎちゃって、疲れやすかった。



そして、他人の一挙一動に対してもイチイチ腹を立て、悩み、苦しみ、まるで自分が言われているような気持ちになることもあったし、だからこそ他人の身勝手さに憤ることも多かった。



受けとりすぎた感情の行き場がなく、それによって自分がコントロールできなくなるほどだ。








だけど、最近は、


本人もつゆ知らぬところで、


いつの間にか、シンプルな生き方にシフトしていたようだ。





さっきも言ったけど、


良いか悪いかは分からない。




けど、自分にとっては良い事だったので、もうちょっと詳しく、自分の心境の変化をお伝えしたいなって思う。






まずは、



「こうあるべきだ」


っていう固定概念(鋭い視線)で物事を見なくなってきた結果、



自分に対しても、他人に対しても、あれやこれやと不満に思う事が少なくなった。





ちょっと他人に関わるだけで、



「あの人今、私のことこう思ったはず!キッ」


とか


「きっと遠まわしに、こうゆうことを言わせたいんだ!クワッ」


とか



そうゆう感情の波にイチイチ振り回わされてた訳なんだけど、



これって、他人だけではなく、自分自身にも原因があるよね。







だって、それはさ。



裏を返すと、




私自身の深層心理の中に、



「周りにこう思われたい!」


「私はこうゆう人間のはずだ」


「そんな風に私を見ないでよ」


「こうゆうふうに扱われたい」



という願望(プライド)があるから思うこと。







だからこそ、



他人の言動に敏感になり、


傷つけられることを極端に嫌がるあまり、


常に「敵」の中に身をおかれているような感覚になっていた。





相手を「敵」として見ている時点で、


むやみやたらに人を「加害者」にしていたということです。




ネチネチ思考をめぐらしてるくせに、


自分のことを、「綺麗な存在」だと思いすぎだよね(笑)






そもそも、この時点では、



自分の存在価値が「他人の視点」で、


すぐにゆらいでしまうような「弱さ」「あやうさ」があったのだと思う。







けど、


こうゆう「傷つけあう」連鎖にも、ほとほと疲れた。




維持張ったり、勘違いしたり、思いこもうとしたり、人より自分が優れてるって思ったり…。






とにかくだ。もう沢山である。



そうゆう様々な感情や心のすれ違いで、



自分や他人を過剰に傷つけあう連鎖から、



本当の意味で、「抜けだしたい」って願った。





なんのことはない。



今まで避けていた「自分自身」と「本音の対話」をしていこうと決意したのだ。






それが、


どんなに辛かろうが、苦しかろうが、


現代の「ガチガチな輪」にずっといることの方が苦しい。





だから、私は本当の意味での「大ボス」である、「私自身」と向き合うことにしたのだ。









自分自身を知っていくと、自分の「程度」がよく分かるようになる。



また、そこを素直に認めていく強さを身につけることで、自分に対する誤解も色々とけてきた。






「自分」の1番の理解者に「自分」がなること。


良い部分も、悪い部分も、自分できちんと把握する。認める。





「自分」を主観でも、客観でも見れるようになること。


自分の能力を、自分が身誤ったらいけない。自分のできていること、できていないことを、自分自身が深く理解すること。素直になること。ついでにいうと、「社会」と「プライベート」はそもそも身を置く土台が違うのだから、そこでは、「やって良いこと」と「悪いこと」は、当然変わってくるということをちゃんと認識していないと、ぐちゃぐちゃになってしまうから要注意だ。





「自分」を過剰に庇護しないこと。


何かがおきた場合は、深く掘り下げてみること。そこで見えてくるものがある。浅い認識の段階で、過剰に相手を攻撃したり、自分を悲劇のヒロインにしないこと。相手の「八つ当たり」だった場合は、そうゆうこともあると気にしないこと。さらに、人からキツいことを言われた場合は、その人は「その事柄」について述べたのであって、私自身の「人格全て」を批判しようとした訳ではないという意識をもつこと。自分が楽になり、相手の忠告にも耳を傾ける余裕が少し生まれる。本当に自分のことを想って言ってくれた言葉には、最低限しっかり向き合うこと。





「自分」を大切にすること。


精神的な部分で、他人の奴隷にならない。ダメなところをしっかり認められる強さと、自分の良いところを見れるようになると、自分に自信がつく。


他人に対しても、自分に対しても、「わからないことはこれから学べばいい」という心の余裕が、今の自分を「大切」にすることに繋がっていく。


取り越し苦労はしないこと。





これらのことを少し気をつけたり、ちょっと意識するだけで、


他人に対する変な解釈や誤解が生まれることも少なくなっていったようだ。







他人が放った言動に対して、



例え、悪意があって言われた場合は、



「はいはい」


「別にどう思われてもいいや」



って聞き流せる余裕ができた。



だから、無駄に多かった「意地の張り合い」や「傷つけあう」連鎖から少しだけ抜け出せた気がして、なにより自分自身が生きやすくなったことを実感している。






悪意がないけど、有難迷惑の場合は、


自分が嫌なのであれば、ちゃんと「断ること」。


だけど、その人なり「優しさ」であったことは理解してあげること。


人を「傷つける」物言いは、最低限つつしむこと。





色々書いてきたけど、私はこれらのことが「100%」出来ている訳ではない。



それでいいのだ。



ちょっと自覚すること、


ちょっと意識すること、



それだけで、今の自分には十分成長できたということなのだから。



欲張らず、頑張りすぎず、


ちょっとずつでいい。






「今」の自分を認め、「未来」の自分に向って、



これからも、


自分との対話を続けていく。





また、自分の気付きから、他人の「気持ち」に気づいていけば、


自分が知らなかった世界がまた見えてくるんじゃないかな。





今、無理してて、その無理によって、自分が壊れそうな位大変な人がいたら、ちょっと考えてみて。





あなたがそもそも、「こうしなきゃいけない」って考えている事柄を疑ってみて欲しい。





「ほんとうに、そうしなきゃいけないことなのか?」





それだけで、違う答えが出てくるかもしれない。




自分が「楽」になることを恐れないで。

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