4.懸血

「献血にご協力お願いしまーす」


 法学部棟の講義室へ向かう途中にある、大きく拓けた広場から、女性の声が聞こえてきた。見るとそこには一台の献血車が停まっていて、そのそばで呼びかけていた人は看護師のようだった。

 年は三十代かな。男の奥深くに根付く、どうしようもない性が勝手に働く。


「お、今日もやってるんだ。梁島くん、行ってくれば」

 隣を歩いていた女が、俺に向かってそう言った。加藤といって、めちゃくちゃ仲が良いわけではないが、同じ法学部で授業が被っているから、たまたま一緒に歩いていた。


「今から刑法の講義だろう。何を言ってるんだ」


「そうだよねぇ。献血で公欠が認められるなら、喜んで血ぐらい差し上げるんだけどねぇ……。あ、献血で公欠って、なんか面白いね」

 無邪気に笑う加藤を、「どこがだ」と冷たく一蹴する。何事もテキトーな奴なのだ。


「俺は……それでも行かないな。わざわざ自分から、痛い思いをする意味がわからない」


「痛い思いって……注射のこと言ってるの?」

 加藤はバカにするような目だ。俺は目を細めて、「悪いか?」と返した。


「悪くないけど、梁島くん、警察目指してるんでしょ。注射針なんかにビビッてていいの?」


「誰がビビッてると言った。俺はただ痛い思いはしたくないと言ったんだ」

 きっぱりと訂正する俺に、加藤は、はいはいと呆れた顔をして、「あ、そういえば」と続けた。


「梁島くんさ、十年前の立てこもり事件覚えてる?」


「十年前? 立てこもり事件なんてあったか?」

 俺は記憶を辿ってみるが、いかんせん、まだ十一歳の時だ。世間のことなど、そもそも関心がなかった気がして、思い出すのをやめた。


「あたしね、面白い話知ってるんだ。きっと、注射が嫌いな梁島くんでも興味がでるよ」

 べつに、注射に興味など湧かなくていいんだが……。まぁ、聞くだけなら構わないか。次の講義までちょっとだけ時間はあるし。

 俺は短く、「ああ」とだけ答えた。


 それを聞いて、嬉しそうに笑みを浮かべた加藤は、「注射を愛した男の、哀しい話だ」と、なぜか男みたいな、重々しい口調に声色を変えて、奇妙な事件のことを語り始めた――。


***


 男が初めてそれに惹かれたのは、小学六年生の時だった。

 授業の一環として受けることを義務付けられていた、健康診断の一項目だ。

 それまでにも、すでに何回か受けたことはあったが、なぜかその時突然に、男は目覚めたのである。


 古びた小さな保健室の前に並び、子どもたちが順番に健診されていく。

 そしてとうとう、その男の番が回ってきた。

 

 白髪混じりの頭をした医者の前に座り、その隣にいる看護師から腕を出すよう指示されて、男は恐る恐る従う。看護師は彼の腕を掴むと、慣れた手つきでゴムの管を巻いた。するとそれを確認した医師が、どこからか注射器を取り出す。

 一ミリもないほどの細い針が、腕の皮膚をぷつりと破って入ってくる。痛かった。

 けれど、皮膚の内側に感じる針の異物感に、初めて感じたその奇妙な感覚に、男はたちまちに惹かれてしまった。

 さらにその注射器から血液が吸われていくのを感じ、男は不安と共に、何か、ある種の快感を覚えたのであった。

 

 その日を境に男は変わり、苦悶の日々が始まった。中学、高校と、健康診断のある日がとても楽しみになったが、なにせ健康診断だ。年に数回しかなく、男の中で、欲求を発散できないストレスが溜まっていった。

 注射器など簡単には手に入らないし、注射など、理由もなくさせてもらえるわけがない。

 たまらなくなった男は、がんばって病気にかかろうとした。寒空の下に、Tシャツと短パンで出てみたり。丑の刻に、近くの神社に行って、自分で自分を呪ってみたり。

 だが男の努力も空しく、その身体は健康そのものだった。病は気から、というが、そんなものは男には当てはまらなかった。いや、いうなれば男のそれは、学校を休みたくて風邪にかかろうとする子どもに、似たものであったからだろう。

 

 そうして、男は欲求の爆弾を抱えたまま、サラリーマンとなった。

 もはや、病気にかかって注射を打ってもらおうという浅はかな考えは捨てて、男はほかの何かで、この欲求を満たせないかと考えるようになった。

 まず思いついたのは、SMクラブだ。サディズムを持つ女にぶたれれば、献血と酷似した快感が得られるのではないかと考えたのだ。

 しかしその希望も、淡く儚い水泡のようで……。

 それは、ただ痛いだけであった。

 まだ、画鋲などを使って自分の腕を刺したほうが、似たような快感を得られた。

 けれどそれも、血を吸われるという行為が満たされないため、男の虚無感は増していく一方だった。

 悲しいことに、男の珍妙で異様な趣味は、ほかの何かで代替できるものではなかったのである。

 

 それから数日が過ぎた、ある日のこと。

 年に一度ある会社の健康診断を待つしかないのかと、絶望に打ちひしがれている時、ついに男はそれと出会った。通勤に使っている地下鉄駅、いつもは見向きもしなかった一枚のポスターが目に入る。

「みんな、献血をしましょう!」

アイドルだか女優だかわからないが、若い可愛い女性が、看護師姿でそう言っているポスターだった。

 これだ! 

 男は、その場で跳びあがりたい気持ちになった。なんで今まで気づかなかったのかと、ふと不思議に思ったが、そんな疑問も数秒後には消え失せていた。

 それからというもの、男は医者に止められない限り、規定の許す限り、献血に通い続けた。会社の近くの大学に来る献血車である。自分が学生でないことなど、そんなことはどうでもいいことだった。

 男にとって、これまでにない幸福な日々が訪れた。


 しかしそれも、長くは続かなかった。

 人間の持つ、慣れるという機能は恐ろしいもので、次第に男は、増えた注射の回数でさえも、物足りないと感じてしまうようになっていった。

 だが回数を増やすなど、そんな許可が医者から下りるわけもない。


 そこで男は、考えを変えてみることにした。一度に感じられる注射の時間を、延ばしてみようと思ったのだ。

 いつものように献血を終えた時。

 おそらく二十代であろう、まだ若い看護師に、男はお願いしてみた。

 もう少し、もう少しだけでいいから、血を抜いてくれないか、と。

 しかし当然、男の願いは受け入れてもらえなかった。

 実を言うと、そこにいた看護師も医者も、皆が男に対して警戒心と不快感を抱いていた。定期的に、常連のように、献血しに来る男だ。ありがたい存在ではあったが、それ以上に気味が悪かったのである。

 

 やむなく、その日は諦めて家へと帰った男だったが、心の内ではまだ諦めていなかった。むしろ、より一層、注射への想いが強まっていた。

 夕食のために、野菜を切っている時、男は手に持つ刃物を改めて認識すると、頭の中で恐ろしい、それでいてなんとも魅力的な考えが、ふつふつと浮かんできた。

 ついに、欲求の爆弾は破裂する。


 男は決めた。死んでもいいと。命を懸けようと。


 六月の晴れた日のことだった。

 その日はいつもと変わらない、平凡な水曜日の午後で、最後の講義を終えた学生たちが、呪縛から解放されたような軽い足取りで、各々の家に帰っていた。献血車に待機していた医者や看護師も、今日はもう誰も来ないだろうと、引き揚げようとした時である。

 男が飛び込むように、車の中へと押し入った。


 なんだなんだと、戸惑う医者や看護師たちに対し、男はすぐに懐に入れていた包丁を向けて、「看護師一人だけを残して、それ以外は全員出てくれ」とお願いした。

 男の希望は叶った。

 献血車の中には、男と一人の看護師だけとなったのだ。


 おそらく数十分後には、警察がこの車を取り囲むだろう。

 男は急いで、注射の準備に取り掛かった。

 まずはゴムを巻いて、血管を浮き上がらせる。自分で注射するのは初めてだったが、男には必ずできるという自信があった。昨晩、裁縫用の針を散々腕に刺して、練習したのだ。

 集中して、ゆっくりと針を腕に刺す。

 見事に成功した。

 そして注射器が血でいっぱいになると、上の筒の部分だけを取り換えて、注射を続けた。いらなくなった、赤色の筒は、乱雑にそこらに投げ捨てた。その度に車内に響く割れる音も、その度に上がる看護師の声も、男の耳には入らなかった。


 細い針が、自身の中へと無理矢理に入ってくる瞬間。

 鋭い小さな痛み。

 まるで生気でも吸われているような、血液を採られる感覚に、男の意識はとらわれていく。


 そして男は、これまでにない、生まれて初めての体験をする。

 自分の中の血がなくなるにつれて、身体がフワリと浮き上がった。男はただ、押し引き繰り返す波に任せるように、快楽の渦の中へと巻き込まれていった。

 意識が、さらにその奥深くへと沈んでいく――。


 男が献血車に立てこもってから一時間後、人質にされていた看護師が、逃げるように一人で外へ出てきた。

 その人を見て、警官たちは皆うろたえた。本来白いはずの看護師の服が、真っ赤に染まっていたからだ。

 看護師に外傷がないのを確認すると、警官たちは慌てて献血車へ突入した。

 出入り口のすぐそばに、男はいた。ゴムチューブを両腕に巻いて、献血用のデスクに突っ伏していた。

 続けて、車の中へと目を向けた警官たちは、愕然とする。


 そこは凄惨な殺人現場のように、赤い血の海と化していたのであった――。


***


「ね、献血したくなってきたでしょ?」

 加藤がニヤリと口角を上げて、こっちを見る。

「なるか!」と、俺は冷たく否定した。


「ただの気色悪い変態の話じゃないか」


「えぇー。あたしが初めてこの話聞いた時は、思わず注射されてみたくなったんだけどなぁ」

 お前も誰かから聞いたのかよ。


「確認だが……ホントの話なのか?」


「さぁ、わかんない。全部ウソかもしんないし、一部だけウソかもしんない。全部ホントだったら、献血しに行く?」

 ニコッと笑う加藤に、俺は呆れてため息を吐いた。


「つくづくテキトーだな。まぁ、仮にホントの話でも、献血はしないが」


「献血で公欠になっても?」


「献血で公欠になってもだ」

 加藤はその言葉が気に入っているのか、楽しそうに笑った。


 ふと、俺は後ろを振り向いた。とっくに通り過ぎた白い献血車に、自然と目がいく。


 注射が気持ちいい……か。久々に受けてみても――。

 途端に、自分が恐ろしくなった。俺は頭に湧いた邪念を払いのけるように、首を左右に振った。

 まるで悪魔の声だ。


 言いようのない不安と恐怖を感じていると、看護師の女性が俺のほうを向いて、にっこりと笑顔を見せた。


「献血にご協力お願いしまーす」

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