5.憂世
「どうして私の言うことが聞けないの!」
母さんが右手を振り上げた、その直後。
僕の左頬に刺すような痛みが走った。バチィンと音が鳴って、正座していた僕は床に倒れこんだ。すぐさま母さんは、僕の髪を鷲掴みにして――。
そのあとも、僕は繰り返し、何度も何度も叩かれた。
ごめん、ごめんなさい。
涙を浮かべて何回も謝ったけど、結局許してはもらえなかった。
僕は引きずられて、ベランダへと放り出される。
鍵をかけられた窓の向こうでカーテンも閉じられ、中の様子が一切わからなくなった。
最近はいつものことだけど……今は冬だから、外はすごく寒い。母さんに叩かれた頬が、冷たい風に当たってヒリヒリする。
あぁ、今日もご飯食べられないのか……。
微かに聞こえるテレビからは、男の人が今年の流行語を予想していた。
深夜の二時ぐらいになってようやく、母さんは僕のことを思い出したらしく、窓の鍵をそっとあけると、すぐにまた背中を見せて、すたすたとベッドに向かった。
***
目覚まし時計の容赦ない騒音に、僕は瞼を開ける。起き上がりながら、思わず左頬をさすった。昨日の夜、母さんに叩かれた頬が、まだジンジンしていた。
リビングからテレビの音が聞こえてくる。
朝六時の報道番組。
僕が生きてきてこれまで、もうたくさんの人がテレビの中で死んでる。
今だってそう、ミサイルがどこかの、僕が知らない国に打ち上げられたって。
キャスターの重たい声も、最早お経みたいだ。
あ、そんなことよりも早く学校に行かないと。
また母さんに怒られちゃう。
ランドセルに教材を入れて、あまり音を立てないように玄関に向かう。テレビの中のキャスターの声は、さっきまでと打って変わって明るい調子で、動物園で生まれたパンダの赤ん坊を紹介していた。
僕はこそこそと、家から逃げるように学校へ走った。
母さんは、なんでいつも僕を叩くんだろう……。僕は、なんで許されないんだろう……。
***
日の光が、カーテンの隙間から教室に入り込む。
がやがやと生徒同士が喋っている中、先生は淡々と、黒板に文字を書いて授業を進めていく。
自分の声が届いていないことも、黒板の文字が見られていないことも、わかっているはずなのに。
きっと先生にとって、生徒たちはテレビの中にいる人たちと一緒なのだろう。いや、逆もまた然りだ。生徒たちにとっても、僕にとっても。
この世界で生きていて、年を一つ取る度に、違和感を覚えることが増えていくのは、たぶん気のせいじゃない。
それがなんなのか、判然としないまま、僕は生きていく。
いつか、この違和感の理由がわかる日が、来るのだろうか。
あぁ、お腹減った。早く給食の時間にならないかなぁ……。
***
日が沈んでいく夕焼け空。
学校が終わって帰路についていた僕は、大勢の人が往来する雑踏の中を歩く。
すれ違う人々は、皆一様に眉間にしわを寄せ、早歩きで自分たちの家へと帰っていた。
ちょうど学校と家の真ん中ぐらいに、寂れた公園がある。遊具はブランコがあるだけの、小さな公園だ。そしてその隣には川が流れている。ドブ川だ。
この近くに住んでいる人たちは汚いというけれど……茶色に濁ったその川を見ても、僕はなんとも思わなかった。
それに、なぜか救われた。きっと、あの部屋が窮屈で荒廃的だと感じているからだ。何も思わないこの場所のほうが、居心地がいいんだ。
あの人から君は生まれたんだって言われるよりも、この川から君は生まれたんだって言われたほうがいい。そっちのほうが、まだ気が楽になるから。
「お、瀬尾じゃん」
後ろから声をかけられて振り返ると、同じクラスの飯田くんたち三人組だった。
「ちょうどいいや。遊ぼうぜ」
飯田くんは後ろの二人、杉野くんと加茂くんに言った。
いつものことだ。わかってる。一緒に、じゃない。こいつで、だ。
飯田くんが、僕の肩を力強く押した。危うく転びそうになったけど、僕は踏ん張って耐えた。けれど転ばないように足元を気にしていたせいで、僕は背負っていたランドセルを呆気なくひったくられた。
それから飯田くんたちは、僕のランドセルで遊んだ。三人が順番に投げて、それが落ちた所まで足を進める。双六でいうサイコロの役目が、僕のランドセルというわけだ。
「なんで笑ってんだよ。気持ちワリィな」
飯田くんにそう言われて初めて、自分でも笑っていることに気がついた。
なんで? なんでだろう……。
ランドセルがサイコロになったからかな。
笑っていたら、気持ちが少し楽になるからかな。
テレビでも言っていたんだ。つらい時こそ笑っていれば、そのあとに良いことがあるって。
「やめろよ飯田」
突然背後から声がした。見ると、同じクラスの男子だった。あまり話したことはない。確か……大川くんだ。
「なんだよ大川。今いいとこなんだから、邪魔すんなよ」
三回目の、飯田くんの投げる順番が回ってきた。僕のランドセルを持って、より遠くへ飛ばすために構える。すると大川くんが素早い動きで、その手からランドセルを奪った。
「なんでこんなことするんだよ。瀬尾がかわいそうだろ」
「うるせぇな。楽しいからだよ」
「ウソつけ。オレ知ってるんだぞ。お前、昨日また成績のことで先生に呼び出されてたよな。クラスで一番アタマが悪いからって瀬尾に――」
見たこともない形相で、飯田くんが大川くんの胸ぐらを掴んだ。今にも喧嘩が始まるんじゃないかとハラハラしたけど、二人はいっとき睨み合うと、飯田くんがその手を離した。
「ちっ、つまんねぇ……。行こうぜ。杉野、加茂」
足早に去っていく飯田くんのあとを、二人は駆け足で追っていった。
「おい、またあいつらになんかされたら、オレに言えよな」
大川くんが僕にランドセルを渡しながらそう言った。僕はうんと頷いて、ありがとうと付け加えた。
「悪いな。嫌がらせ受けてたの、ずっと知ってたのに」
別れ際に、大川くんが口にした言葉。僕はなんで謝られたのか、その意味がわからなかった。
なんで今日は助けてくれたんだろう……。
家までの道のりを、わざと遅い足取りで進む。大川くんが謝ってきた意味を考えていると、縁石の端に咲く黄色いタンポポを見つけた。綺麗だと思った。
あぁ……そうか。大川くんを僕を見てくれていたんだ。でも僕は大川くんのことを……。
飛行機が通り過ぎる時のような轟音がして、空を見上げる。僕の頭の上、青い空の中を、白くて細いものが飛んでいた。まるで、チョークが煙を吐き出しているようだった。
それは次第に大きくなっていって、学校のほうへと向かった。
その直後、身体中に一瞬痛みを感じて、僕は光に包まれた。
後悔も幸福も、世界への期待も違和感も、母さんもテレビの中で亡くなった人たちも、先生も飯田くんも大川くんも、何かを、誰かを想うヒマもなく、僕は消えた。
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