2.溺心
ブクブク。
シュノーケルから出た空気が、まるでそれを求めるように、水面へと上がっていく。
俺はそれを
短い鎖によって、足に繋がれた鉄球を、ずるずると引きずりながら海底を進む。
周りに目を向けると、自分と同様に、魚介類を探す者達が何人もいた。皆、ピッタリと身体にフィットした服に、酸素ボンベを背負っている。当然だが、足には鉄球も付いている。
早く見つけないと。
その思いで、ただただ夢中で魚介類を探す。
俺が食べる為ではない。クジラに献上する為だ。
そして程なくして、ようやく一匹の大きな蟹を見つけた。小さな岩の陰に隠れている。いや、覗きこむようなこともせずに見つけたのだから、実際には隠れきれていないのだが。
すぐに右手で蟹を捕まえると、腰に付けていた網の袋を左手で広げる。素早く蟹を入れようとしたところで、頭上が急に暗くなった。
自分や周りのもの全てを、巨大な影が覆ったのだ。
とてつもなく大きなクジラが、上を通り過ぎる。
時間か……。最悪だな、一匹しか渡せない。
クジラは、俺の後方にある、ドーム型の建物へと泳いでいく。建物は白い珊瑚で作られていて、空気小屋と呼んでいる。
周りの者達もクジラを確認したようで、その方向へと歩きだす。
俺はため息を吐いて、何も入っていない袋に蟹を入れると、その集団に続いた。
ちょうど空気小屋の目の前に、クジラはその身体を下ろした。
俺が着くと、既に多くの人がクジラを中心に、渦を巻くような形で列を作っていた。重たい身体を動かして、そそくさと列の後ろに並ぶ。
クジラは一日に一度、ここの人達に酸素をくれる。酸素の入った卵を渡してくれるのだ。
その代償として、魚介類を献上している。特に好むのが海老や蟹で、貝や魚は食べない。というより、魚はその気になれば自分で食べられるし、貝は堅いのだ。ここら辺の貝はとても堅く、クジラでさえ噛み砕けない。だから逆に、手先が器用な俺達の主食になっているのだが、まぁそんなことは、今はどうでもいい。
それより、海老や蟹を与えても、それがクジラの舌に合わない場合が、たまにある。そのときは、与えられる卵の中の酸素が減らされてしまうのだが、そういう日は本当に最悪だ。一日、苦しみに耐えなければならない。
この世界において、何よりも空気と魚介類が大事であり、価値があるのは空気と魚介類だけなのだ。
前にいる人達が、どんどんと海老や蟹をクジラに食べさせていく。皆も、あまり獲れなかったのか、早くも俺の番が来た。クジラの真正面に立ち、その大きく開けている口に蟹を投げた。バリバリと食べるクジラの表情を、両手を合わせて見守る。
頼む。不味くはない筈だ。吐かないでくれ。
祈りが届いたのか、クジラは吐き出すことはなかった。美味しそうに食べている様子でもないが、とりあえずほっとする。
クジラの口が一度閉じ、また開く。えずくわけでもなく、静かに卵を出してくれた。俺はそれを受け取って、さっきまで蟹がいた袋に入れる。
そしてせっせと、列の集団から離れた。
「ほえぇ。クジラって、やっぱり大きいなぁ」
突然声がして、身体がビクッとなった。無駄に酸素が口から排出される。
慌てて辺りを見渡すと、一匹の
質問しようと思ったが、ふと気づく。
人同士のコミュニケーションは手で行うが、それが海月に伝わるとは思えない。
少し考えて、俺は思いきってシュノーケルを外した。
「……なんだお前は?」
「やぁ、こんにちは。ボクを見るのは初めて? 海月って言うんだ」
「……そうじゃない。なんで海月が喋っているんだ?」
俺はもう一度、口を開いた。少し息が苦しくなる。
「うーん、なんでだろう……。段々と進化していったんじゃないかな」
「進化? それでいきなり喋れるようになるのか?」
「そんなのわかんないよ。進化の過程にある生物が、『あ、今進化してる』なんて感じないだろ? 気づいたら喋れるようになってたのさ」
「そういうものなのか? 俺達はもう何年もここにいるが、いつまで経っても魚のようなエラはできないぞ」
俺がそう言うと、海月はポポポポと変な笑い声をあげた。
「そりゃそうだよ。だって君、人だろ? まだ二十年ぐらいしか生きてないんじゃないか? ボクはもう何百年も生きてるからね。不老なんだ」
「不老? そうか、何百年も生きないと、進化は訪れてないのか」
「さぁね。進化のことなんてわからないよ。ところでさ、君は外の世界を知ってる?」
「外の世界?」
ゴボゴボと出し続けて、とうとう肺の酸素が無くなった。シュノーケルを再びつけ、俺は酸素を補給する。海月はそんな俺に構わず、話を続けた。
「この、海底じゃない世界さ。そんな酸素ボンベなんて必要ない世界だよ。この海の上には、酸素に満ちた果てしない空が広がっているんだ」
俺は目を見開く。酸素ボンベを手放していい世界など、ありえない。そんなことをすれば、たちまちに死んでしまうだろう。
充分に酸素の補給を終えると、俺はまたシュノーケルを外した。
「空? なんだそれは?」
「なんだって聞かれても……。自分の目で確認してみなよ。眩しく光る太陽や、ふわふわしてそうな雲だってあるし。そういうのも全部含めて、空って言うんだから、説明できないよ」
「そうなのか……。じゃあそれは無理だな。この通り、片足に鉄球が付いている。上には行けない」
足を指差して、海月に見せる。自分も早々に諦めがついた。
「壊せばいいじゃないか」
楽勝だろうとでも言わんばかりに、海月は簡単に言う。そんなことは考えたことがなかった。
確かにその気になれば、壊すことはできるだろう。だが、壊したところでなんの意味もないことも、俺はわかっている。
「俺達は、常にクジラに見られている。そんなのがバレたら、問答無用で食べられるだろう」
「じゃあ、クジラを壊せばいいじゃないか」
酸素を吹き出す。水泡が顔を包んだ。
この海月は一体何を言いだすんだ? 俺をどうしたいんだ?
訝しげに、海月を見る。
良くないな。絶対に駄目だ。こいつに従うと、明らかに破滅の道を辿るだろう。
「まぁ、どうするかは君次第さ。ボクはこの通り、海月だからね。何もできないし、何もしてやれない。けど君は、その気になればなんでもできるんじゃないかい?」
俺の心でも読んだように、海月は言うと、もう何も言葉を発しなくなった。
話しかけても反応がなく、うんともすんとも言わない。ただ海水の流れに身を任せている。
ずっとここにいても酸素が減るだけだ。
俺は、空気小屋に向かった。
『自分で確認してみなよ』
ふいに、海月の言葉が脳裏をよぎる。
なぜだか急に、足に付いている鉄球が、自分を包む海水が、うざったく感じた。
珊瑚の建物、空気小屋は、海底から少し浮いている。
俺達はいつも、小屋の床にある入り口から、
だがそれにしても、今日はいつも以上に鉄球が重たく感じる。
五分ほどかけて、なんとか梯子を上がると、俺はすぐにシュノーケルを外した。小屋の中は酸素がある。と言っても、身体の半分は水に浸かっているのだが。
中には誰もいなかった。おそらく、俺が海月と話している間に、皆もう補充を済ませ、また魚介類を獲りに出かけたのだろう。
俺は袋から卵を取り出す。続けて、シュノーケルからホースを外し、それを卵に突き刺した。
酸素を送りこんでいる卵を見つめていると、また海月の言葉が蘇る。
『じゃあクジラを壊せばいい。その気になれば、なんでもできるんじゃないかい?』
馬鹿馬鹿しい。海月ごときの言葉に惑わされるなんて……。
空になった卵をそのままに、俺はシュノーケルを装着して空気小屋を出た。魚介類を獲りに行く。今度は自分の食料としてだ。
「くそ、腹が減ったな」
ここ最近、魚介類が全く獲れない。クジラに渡す分も、自分が食べる分も。昨日は結局、海藻と貝しか食べていない。今日クジラに渡す魚介類も、未だ獲れていない。もうそろそろで訪れるのにだ。
「大変だね。このままだと空気減らされるちゃうよ」
いつの間にか、あの海月が足元にいた。自分でも重々承知のことを指摘され、少し苛つく。
「それにしても、この世界は安全だね。クジラの意のままに従えば、ちゃんと生かされるんだから。安全で退屈な世界だ」
褒めてるのか
それに、
「さっき自分で言ったこと忘れたのか? 俺はこのままいくと、餓死か窒息死するんだが」
思わず返事をしてしまい、ため息を吐く。また海月が答えてしまう。
「じゃあそうならないように、クジラを壊さないと」
「はぁ……そうだな。わかったから、ちょっとどっか行っててくれ」
会話するのがめんどくさい。こっちは魚介類の捕獲に集中したいのだ。
「しょうがないなぁ。じゃあ一つだけ、教えてあげるよ。あそこに岩があるだろ? あの岩に引っ付いてる磯巾着を、クジラに食べさせてみなよ」
別に何も頼んでないだろ。心の中でつっこみをいれる。口に出さないのは、これ以上話を続けない為だ。
それに、その磯巾着のことも知っている。自給自足の生活をしているのだ。俺達は毒持ちと呼んでいる磯巾着だ。
まぁ、クジラに食べさせるという発想はなかったが。
俺は、食材探しに意識を戻す。だが自然と、その毒持ちの引っ付いてる岩の方へ、近づいていった。
そして次の日、気づくと俺は、クジラの口へ海老と一緒に毒持ちを送っていた。
そう、これは海月のせいだ。
その日、いつもと同じように、渦の列を作っている人々の一番後ろに、俺は並んだ。卵を受け取って、散っていく皆を見送ってから、俺は決行した。
海老と一緒に毒持ちを噛んだクジラは、吐き出す暇もなく、苦しみだした。
悶え、円を描くように、上へと泳いでいく。いや、必死で尾ひれをばたつかせているその姿は、泳いでいるというより、溺れているといった方が正しいだろう。
クジラは、ついには毒持ちと共に血へどを吐いて、果てた。
仰向けになり、動かなくなったその巨大な塊を眺め、俺は立ち尽くす。
してはいけないことをした、その罪悪感に襲われる。しかしすぐに、なんともいえない高揚感が、全身を巡った。
やった。やってしまった。俺は……。いや、全てこのクジラが悪いんだ。俺達に鉄球を繋ぎ、自分の贅沢な食事の為に飼い慣らしていた、こいつが悪い。縛られた、この溺れた街の中では、俺達は慣れることしかできない。毎日を、ただ生かされることしかできない。変化を起こさなければ、空は見れないんだ。
その想いが身体の底から込み上げてくる。
叫ぼう。シュノーケルを外して。水を飲んでも構わない。ただこの想いを、外へ吐き出したい。
俺はシュノーケルに手をかけた。その時だった。心に直接語りかけてくるように、気持ち悪い声が聞こえた。
『今しがた、我を殺害しようとした者がいる。皆で捜し、捕らえよ。食事として、我に献上するのだ』
咄嗟に、その場から逃げる。あてなどないが、ただ恐怖が身体を突き動かしていた。
クジラは死んでいなかった。不死身なのかもしれない。不老の海月がいるんだ。いてもおかしくないだろう。
「いやぁ、不死身なんかじゃないと思うよ」
海月が、またまたいつの間にやら、足元にいた。
なんでわかる。そう訊きたかったが、シュノーケルを外してる余裕も暇も、今の俺にはない。
「一匹壊れたところで、代わりはいくらでもいるみたい。怖いねぇ」
余裕を含んでいるその声に、俺は
水の抵抗を受けながらも、海底を駆ける。
鉄球を繋がれている、足首の痛みに耐えながらも、俺は走る。これ程走ったのは人生初だ。まるで穴でも開いているかのように、ボンベの中の酸素がみるみる減っていく。
俺はすぐに、走れなくなった。
両手を膝に付いて、呼吸を整える。もう吸っているのが、酸素なのか二酸化炭素なのかさえわからない。一向に、肺が落ち着いてくれない。
ここまでか……。
「……限界みたいだねぇ。君はここで、終わるの?」
煽るように言ってくる海月に、怒りが湧いてくる。俺は、担いでいる酸素ボンベを下ろし、シュノーケルを外して、
「黙れ」
近くにあった岩場に駆け寄る。ボンベから解放されたおかげか、身体が少し楽だ。急いで、岩の周辺を探して、それを見つけた。
「ああ、それを使うんだね。良い案だ」
感心する海月を
手はかなり痛かったが、それも、二十回も叩けば終わりを迎えた。
鎖が破壊されたのだ。それと同時に、身体がゆっくりと、底を離れていく。
これで海面に上がれる。
そう安堵して、途端に息が苦しくなった。ずっと、無我夢中で鎖を壊していたようだ。安心して、我に帰ってしまった。身体は既に、限界を越えていたのだ。
瞬時に、肺を水が満たしていく。
朦朧としていく意識の中で、俺は空を仰いだ。
微かに射し込む光。何の光なのかはわからない。もしかしたら、あれが海月の言っていた、空にある太陽なのかもしれない。
今までこうやって、上を見上げたことなどなかった。
ふと、足元に目を向ける。海月はもう、どこにもいない。また、どこかを漂っているのだろう。
ふっと笑って、急に意識が戻り始めた。むせるように、ゴボゴボと泡を吐く。
苦しい。世界はこんなにも窮屈で、息苦しいものだったのか。
溺れ、もがきながらも、俺はただ求める。
早く、海面に。
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