第8話「生きた証」

私が小学生の頃。


祖父母は、地域の親交会のメンバーと共に、沖縄旅行に行きました。


昔から、沖縄に行くことが夢だったそうです。




沖縄には、その地で亡くなった人々の名前が書かれた石碑があります。


どうやら知り合いが沖縄戦で亡くなったらしく、生きている内にどうしても訪れたかったのだと、後ほど母から聞きました。




大勢の犠牲者名簿の中から、祖父母は一つ一つ丹念に名前を探しました。


ようやく名前を見つけると、この地で無念の死をとげた知り合いの事を胸に想い、祖母は涙を流したそうです。



日本最北端の「利尻島」に生まれながら、沖縄戦で亡くなった方が居たなんて、不思議な気持ちです。




祖父>

「あの時代は多くの人が血を流した。今日生き残ったからといって、明日も無事でいれる確証はない。皆、必死に生きていた。そんな時代だったな。」










祖父の言葉は重い。



それは、実際にあの時代を生き抜いてきた人の言葉だから。




祖父は、あの時代の中でも、「人とは」「正義とは」「平和とは」という疑問を持ち続けて生きてきました。







1945年8月15日。




ポツダム宣言をもって、


日本の第二次世界大戦は確かに終わりました。






多くの命を奪った戦争から70年目を迎えた現在。




もはや「過去」のこととして、私達は新しい時代に生きています。




歴史とは、「人が生きた証」です。



昔から思ってきたことですが、過去の出来事を知ってこそ、「今この瞬間を精一杯生きる」ことができるのではないでしょうか。




この時代を生きる私達は、まさに「命のリレー」を受け取った選手です。



私は、その「命」だけを受け継ぐのではなく、その命の繋がりの中で積み重ねされた当時の人の「想い」も一緒に受け止め、自分の人生の教訓とし、次の世代に伝えていきたいと思います。



そして、いつしか時代は巡り、私のこの「想い」も歴史の一部になるのでしょう。




もし万が一、



後の世に、



私の「想い」を胸に止め、私の「経験」を生かし、今を懸命に生きてくれる人が現れたなら、私はきっと嬉しいと思います。




歴史を知る、亡くなった人を想うというのは、こうゆうことなのではないでしょうか。






目には見えないけど、確かにある。


死んだら終わりという訳ではない。




できることならば、「こんな人もいたんだよ」と次の時代に想いを繋げられるような生き方を心掛け、自分の人生を全うしていけたらと願うばかりです。






祖父はきっと、



その「想い」を、「記憶」を、



生きている内に私に託してくれたのでしょう。










第二次世界大戦は、日本にとっても世界にとって、多くの悲劇をもたらしました。




ですが、今私達がこの地に生まれたということは、自分たちの祖父母があの戦争を生き抜いたということです。




今、生きていくのが辛い、頑張り切れないと悩んでいる方がいたら、


多くの人が届けてくれた、その命の「重さ」に想いを馳せてみてください。




もしかしたら、自分の中で「もう少し頑張ってみよう」という気持ちが、ほんの少しでも、生まれるかもしれません。




その「ほんの少し」を積み上げていくことが、きっとあの時代を生きた人々の「想い」が、現代に届いているということではないでしょうか。




死んだら終わりではないのです。






最後に、


あの戦争で亡くなった多くの犠牲者及び、そのご家族の方に心から追悼の意を表し、平和を祈ります。


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