声を聴け

2050年 5月30日 サンフランシスコ ドール地下実験場


 政姫は独居房となった倉庫の扉の前で立ち尽くしていた。

 政姫は腹部を摩る。心的ストレスで胃腸がキリキリと痛むのだ。


「政姫、入るわよ」

 隣に立つアベリィが倉庫のロックを解除した。電子音の軽い音と共に扉が横にスライドする。


 倉庫内部は整然と、軟禁者を閉じ込める前と変わらずに整理整頓されている。

 ただ、何かが擦れる音がした。


 紙をめくる音だ。


 二人は倉庫の奥に入っていく。薄暗な倉庫は軟禁者の異物感と相まって、この世ではない異空間の様相を呈している。

「ご機嫌ようW。分かるかしら」

 Wと呼称される軟禁者がアベリィの声に反応して紙をめくる手を止めた。


「理解出来ます。複数の人間が出会った時や別れの時に使われる挨拶の言葉、という認識は合っていますか?」

 まるで辞書をそのまま読み上げてるような、人工知能と話しをしているような。やはりこの空間だけは人間の認知と乖離していると政姫は思った。

「ええ、W。政姫よりも賢いんじゃないかしら」

 アベリィがそう笑うと、Wは表情を転がせて笑顔に変わった。

「やめてください」


「ほんとうに、そっくりねあなた達」

「何から何までそっくりですから」

 そう。何から何まで。外見はもちろん。バイタルデータの殆どが政姫に限り無く近いのだ。唯一、体重ばかりは政姫の方が軽い。


「お母さん、井伊政姫さん」

 Wが政姫を指してそう言った。

「やめてください特異個体W」

 政姫は確固たる溝を掘る。精神上の塹壕だ。やや説明的口調もその表れである。

 なぜ、と病的に白く、赤い瞳をした自分が聞き返してくる。

 それがどれほど異常な光景だろうか。きっと自分のクローンを見たのは政姫が初めてだろうから、アベリィから共感など得られるはずもない。


「あなたは人間じゃない。それなのにお母さんなんて、おかしいです」

 政姫の言葉にWは閃いたという顔をして、急に足元で散らかった書籍群を漁り始め、一冊の本のあるページを開いて政姫に見せた。

「カッコウは卵をカッコウではない鳥に世話をさせます。でも、生まれたカッコウはその世話をしてくれた鳥を親だと思ってしまうはずです」

「だから、私があなたの親だと?」

 Wは首肯した。


「私はあなたを模倣することで人間という生命体を模倣しました。私があなたと別種であっても私という自我を生んだのはあなただ、井伊政姫さん」

 会話が出来る分だけ腹立たしさが募る。知性があり、自分の言葉で話すとなれば、第6研究セクションはその義務を全うしなければならないからだ。

 イジンを研究し対抗できるだけの技術を発見するという重大な義務を。

 Wは彼女ら科学者にとっては宝箱のようなものだろう。イジンの可能性を示した未知の煌めき。政姫にとってのパンドラの箱だ。


「私は井伊政姫さんには絶対に危害を加えません。私を研究したいという方々にもです。対価を貰っていますからね」

 そう言うと、Wは散らかった書物の山に目線をやった。

「私はこの世の知識を喰らい尽くしたい。博士達は私達について知り尽くしたい。これは対等な取引の為の契約です」

 政姫はアベリィを睨んだ。

 アベリィは大袈裟に肩を竦めて見せた。

「それで人類を救えるなら、安いものだわ」


「Wは特異個体とは言えイジンなんでしょう!? 霊牙だって変貌してしまった!」

 政姫はとうとうこらえ切れずに大声を上げた。

「良い研究題材だわ。神塚博士の残したアルファ鉱石はまだまだ謎が多いんだもの。彼女からはきっと沢山のデータが取れる」

「データ、データって…」

「政姫、私達には時間が無いの。Wの件から言っても、連中の進化は人間と対等以上に会話が出来る知性まで発現させている。分かるかしら。まだ特異個体が特異な時に対策を確立しなければならないわ。今のあなたは駄々をこねる子供よ。企業とは利益追求団体。第6研究セクションはナーサリースクールじゃないわ」

 子供の相手をしているほど暇ではない、とアベリィは続けた。

 その言葉は政姫に水を被せるようで、政姫は二の句を紡げなかった。


「私じゃなきゃアーマーローグは動かせない…そうじゃないんですか」

「答えはNoよ。政姫以外にも候補者はいるわ。タイラントに生体ロック機能は無いしワイルドハントだって例外が生まれた。降りるというなら誰も止めないわ」

「………」

 冷徹な組織人としては理解できる。集団に埋没し自分を抑え込むのは防衛軍時代で培った技術でもある。だが、それを超越してしまうほど、政姫はWを許容できない。

 常識の範囲に無い存在を一体どんな人間が即応できるだろうか。

 第6研究セクションのスタッフとの間には厳然とした意識の隔たりがあった。

 誰も政姫を理解できるはずがない。


 急に立っていた足場を外されたような、底無しの穴に落ちていくような感覚を政姫は感じていた。このまま闇の中に落ちて行ってしまいそうだった。孤独という独りぼっちの暗闇へ。

 脳内を悔恨が這いずる、徘徊の思考。生傷を舐める気持ちの悪さを無限に繰り返すのだ。


「W、手を出してちょうだい」

「説明を要求しても?」

「あなたがどれだけ言っても、そこの馬鹿みたいに信じようとしない人間は結構いるのよ。だから予防策として筋弛緩薬を投与するの人間用のね。大丈夫、本を読める程度には動けるはずだから」

「なら、問題ありませんね。どうぞ」

 Wは白い腕をアベリィに差し出す。アベリィは筋弛緩薬の入った注射器をWの腕に刺して、中身を投与した。

 Wはふぅん、と零し、手を開いたり閉じたりと動作を確認する。

「ふわふわします」

「そう。それじゃ私達は失礼するわ。政姫、行くわよ」

 アベリィの言葉を待たず、政姫は倉庫を飛び出した。

「頭を冷やしてくるといいわ」

 政姫の背中に「また会いましょう政姫さん」と別れの挨拶がコンクリートの壁越しに投げかけられた。







 特異個体Wは脳であり心臓、とは彼女の言。

 肉体としてのワイルドハント、精神としてのWと絶対的に線引きが為されたのだという。


 契約通り、Wはすらすらとこちらに情報を開示する。

 三ヵ月前の太平洋の戦闘の時に霊牙の装甲に取り付いたのだという。

 あの時に、と政姫が気付いた所でもはや遅い。良くも悪くもWは第6研究セクションの舌を巻かせてくれた。

 ギアインターフェース上にあるログを遡ってWは霊牙の中で知識を獲得し、成長いや変異の方が正しい表現だろう。突然変異を繰り返していたのだという。

 自我があることを自覚しているソレをアベリィが対等に扱っているのも分からない話ではなかった。

 かくしてギアインターフェースや霊牙のコンピュータ系を支配下に置いたWは残されていた人体データ、政姫の各種バイタルデータを元に人間サイズの肉体ユニットを複製したという訳らしい。


 包み隠さずに話すWに困惑しているようだが質問者も質問を続ける。


 勝手にワイルドハントは動かないのかという質問にWは笑って「私を怒らせなければ」とそう答えた。


 なぜ、そのようにしたのか。そう尋ねると表情を一転させWは質問者に対して少し照れたように「お母さんと同じが良かった」と答えていた。


 どうしてそんな表情をするの。

 政姫は画面越しに問いかける。

 イジンなんでしょ、人じゃないんでしょ。恐ろしい。ああ、恐ろしい。

 自分と瓜二つの存在。双子と考えればいい、なんて気休めにもならなかった。

 病的な白い肌。血を思わせる赤い双眸。Wを構成する何もかもが政姫の敏感なヒステリックを触発させる。

 質問はまだ続く。敵対の意思はあるか。Wは無いと即答した。人類は自分という個体にとっては生きていた方が有益であるから敵対する気は無い、と。

「分かってる…利用すべきなのは分かってる。でも、どうやっても受け入れられない事ってあるじゃない………」

 政姫はつまるところ軍人としては失格なのだということを再認識させられた。究極的には感情を優先させてしまう人間。組織に於いては邪魔な要素。だから排斥された。一度経験したことじゃあないか。

 今、まさに繰り返そうとしている。

 政姫の心に募るのは解決すべきという焦燥と排他されるという恐怖の感情だ。

 自然と呼吸は浅くなって、口の中が渇いて行く。

「うッ………!」

 胃がくっと締め付けられて限界を迎える。

 慌てて手で口許を覆ってトイレに駆け込んだ。


 便器に溜ったものを水で洗い流して、政姫は 手で口を拭う。舌の上の酸味が口内の残留感を訴えてくる。

「最悪な気分………」

 イジンは人類を脅かす天敵で、なのにWは自分の姿をして人間と友好的な関係を築こうとしている。

 アレが莫大なメリットを齎すことは目に見えてる。なら自分は何を嫌悪しているのだろう。


 政姫はよろよろと立ち上がりつつ考える。

「私ってばガキね………」

 全てが全て、子供の理屈で気に入らなければ出来ないと。受け入れられなければやらないと。

 いい加減大人にならねばならない時が来ているのだと政姫は自分に言い聞かせる。

 出来るはずだ。曲がりなりにも元職業軍人なのだから。血肉になった技術まで自ら陥れる愚行はもう止めだ。

 流れの止まったベルトコンベアをもう一度動かせるようにスイッチを押すのだ。硬直した見方を無理矢理押し流す。


「普通に人と話すように………アベリィ博士みたいに………」

 政姫は目を閉じる。

 繰り返し、繰り返し。馴染むように、刷り込むように。

「私は大丈夫のはずだろ」

 カチリ、とスイッチが切り替わった。政姫はゆっくりと目を見開く。

 最後に深く息を吸い込む。肺の隅々まで酸素が行き渡るのをイメージすると、不快な吐き気は驚くほど綺麗さっぱり治ってしまった。

 軽く伸びをして、他に不調が無いかを確認するも特にこれといったものはなく、政姫はさっきまでとは打って変わった晴れやかと呼んでもいいような気分でトイレの個室の扉を開いた。







2050年 5月31日


「アンタ、本当に井伊政姫? 昨日とは別人物じゃないかしら………」

 アベリィの定時問診に付き纏って、政姫は一日振りに独居房になった倉庫の前にいた。


「いい加減、大人にならなきゃって思ったんですよ。というか、朝からそればっかりじゃないですか」

「だってそうじゃない。昨日まであんなに毛嫌いしてたのに朝一番にこれなんだから。気持ち悪過ぎよアンタ」


 アベリィが軽めに言って二、三歩分の距離を取っているのは政姫にとって甚だ遺憾ではあるが、政姫は気持ちを切り替える。緊張感の高まりを感じて、政姫は深く息を吸う。


「ま、面倒くさくなってきたからそれでいいわよ。ほら、開けるわ」

 解除コードを知るのはアベリィだけだ。そのたった一人しか知らない八桁の数字を入力し終えるとようやく扉が開かれる。


 待ちわびたと思うと同時に少しの物怖じ。それを押し込んで政姫は倉庫に踏みこんだ。

 不思議な匂いがした。図書館にいるような、古い本の頁と頁の間から漂う埃の匂いと言えば近いだろう。そんな匂いが充満していた。


「おか…、政姫さん?」

 本に埋もれた牙城の玉座に鎮座する自分はきょとんと政姫に視線を注ぐ。

「お、おはよう…W」

 なんでそんな顔をするの。

 心臓がドクンと跳ね上がった。


「昨日はごめんなさい。あなたが他のイジンとは違うって理解したつもりだから………」

 どうにもばつが悪い。

 だが逃げては二度とこの居場所にはいられなくなる。

 政姫は腰を下ろして、手を添えた。肌色をした手をWの白い頬へと。

「暖かいです」

「………」

 沈黙が漂う。

「いきなりの事で正直戸惑ってるの。だから、答えて欲しい。あなたは私の味方なの?」

 ここが分水嶺なのかもしれないし、とうに追い越していたのかもしれない。時を遡りでもしない限り、真実は神の見えざる手で隠されたままだ。

 神塚教授が何を思って、そして彼は一体何を呼び起こしてしまったのだろうか。

 答えは見つけられねばならない。その為の契約なのだから。

 人の情を越えて利己的な行動を誰もが取るというのなら、政姫もまたエゴという舵を切る。


「私は、私達とあなたの利害関係を信じてみようと思う」

 よろしく、と政姫は改まって右手を差し出す。Wは間もなく左手でそれを握った。


 おかしな話だ。

 三ヵ月前に殺し合った化け物と、固く握手をしているのだから。

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