暗い海底に白鯨は居る

2050年 2月7日 未明 メガフロート甲板上


 ドールCEO矢木栄蔵を乗せたプライベートジェットは慌ただしく甲板を走り抜け、空に上がった。

 見送る者も見送られる者も、どちらも沈鬱な表情を浮かべるだけで言葉を発しようとしなかった。


 理由は衛星放送を通じてメガフロートに知らされた大規模襲撃事件の報。事態の確認の為に矢木社長はアメリカ本土に戻らねばならなくなったのだ。


 グレート・レイクス・パニックと銘打たれたこの事件は本土から遠く離れたメガフロートにも大きな衝撃を与えた。

 現在に至るまで襲撃犯からの声明は一切無くドールの工場を集中的に狙ったことから、アーマーギアの強奪が目的であると見なされていた。


「我々第6研究セクションは事態の収拾の目処が立つまではメガフロートにて実験を継続することにします」

 矢木社長の乗るプライベートジェットが見えなくなると、エメリンは全員にそう言った。

「それって……」

「事件が解決するまでサンフランシスコには帰れないってこと……?」

 スタッフの間の不安げなやり取りが漏れる。

「メガフロートは言わば絶海の孤島。何が目的かはさておき、ここまで来る可能性は考えずらい、と矢木社長と話し合った結果です。ワイルドハントの喪失は忌避しなければなりませんからね。………全員、自分が出来ることをやりなさい。その方が不安も紛れるでしょう」

 エメリンはそう締めくくると、エメリンの言葉に促され多くのスタッフ達が船内に入るスロープを下って見えなくなっていった。


「政姫、対テロ作戦って経験ある?」

「無い…けど、演習ならやった。爆破テロのやつ」

 不安に駆られるスタッフを尻目に、元軍人の政姫とカミーユだけは異様に落ち着いていた。


「やっぱり日本は治安が良いわね。私がフランス陸軍に居た頃、ネオナチに乗せられた右翼集団がパリのブルボン宮殿を爆破しようとしたのよ。どうにか、全員を拘束出来たけれど。でも、それ以来、考えが違うってだけで平気で他人を否定する人間が許せなくなった」

「…………」

 カミーユは目を瞑り、そしてウンザリしたような表情を浮かべる。ぬるい風が政姫とカミーユの頬を撫でた。


「今回のこと、襲撃のやり口はどう考えたって私達と同類。世界の警察のお膝元で逃げ果せて見せるってことは、相当の鉄火場を潜っているわ。それに見合うだけの、無謀と思える計画を実行するだけの肝も据わってる。そんな人間が何の因果でこんなことをやったのか……」

 カミーユは目を開くと、政姫に向かって「ただのテロリストとはどうしても思えないの……」と本音を零した。

 カミーユはため息を吐くと、声音をわざと高く、明るく作り変えた。

「まぁ…考えたって分かるものでもないか……。政姫、あなたお酒はいける口? このままは寝覚めが最悪だわ。娯楽室の隣にバーがあったでしょ? 寝酒に付き合いなさいな」

 政姫にもカミーユの気持ちが理解出来た。形容しにくい感情が政姫の中で燻っている。それを酒で流してしまってもいいかな、と政姫は思った。


「お付き合いします、カミーユ」

 カミーユは満足気に頷いた。


「お酒と言ったらワイン。ワインと言ったらフランス! ワインの無い食事は太陽の出ない1日ってね! 飲むわ、朝まで飲むわ! どうせ明日まで仕事なんて無いんだから!」

「ははは…まぁ、程々に……。あれ…何この音?」

 潮騒に混じって微かな異音が政姫の鼓膜を撫でた。

「どうかしたの? 音なんて別に…波の音以外にはおかしなものなんて…」

 その音は地鳴りのように低い振動だ。政姫の耳にはしっかり聞こえているのだが、どうやらカミーユには聞こえていないようだった。


「気のせいかも?」

 首を傾げつつも、政姫はそう口に出した。

「そう。なら、早く飲みましょ」

 カミーユは先に歩き出してしまう。

「あ、待ってよ~!」

 政姫もカミーユの後を追う。だが、未だ鳴りやまないこの音が何を示していたのか、政姫の中では正直なところ、テロリスト云々よりもそちらの疑問の方が比重が重くなっていった。







2050年 2月8日 メガフロート 第1格納庫


 スタッフ達の声に合わせて、クレーンの先端が縦横無尽に動き回る。人間を通り越して、象すら釣れそうな巨大な鈎針には霊牙から外された纏帯装甲の装甲版が吊るされていた。

 霊牙の隣にはスフールが鎮座している。2機はオーバーホール作業を受けているのだ。

 霊牙は初めての戦闘だったのだ。スタッフには関節部の消耗具合を確認して、真っ白なレポートを黒く染めてしまうほどのデータ収集の命が課せられているという。


 政姫はそんな彼女らを上からぼんやりと見下ろしていた。格納庫は2つの階層をぶち抜いて、高さを確保した構造をしている。政姫はその二階に相当する高さの、通路のフェンスに手を掛けて、アリとキリギリスのキリギリスの気分を味わっていた。


 スタッフ達はグレート・レイクス・パニックの不安を紛らわせようと、いつもよりも真面目に働いている。政姫も遊んでいるつもりは無いが、昨日は酒を飲んだだけで1日を終わらせてしまっていた。二日酔いで目を覚ましたのは大学生時代以来だった。ちなみにカミーユは酷い二日酔いでベッドから起きられないでいた。


 自分だけ何もしていないという罪悪感からか、政姫の足は勝手にこの格納庫に向かってしまっていた。


「井伊…政姫さん?」

「はい…?」

 霊牙を見つめていた政姫の後ろ姿に声が掛けられた。日本語だった。このメガフロートで日本語を話せるのは政姫、裕香子、エメリンの3人だけだ。だが、聞き覚えの無い声だな、と思いつつ政姫は振り返った。


「良かった。会ってたみたいだな…。私はキサラギの技術士団の代表で来た如月梓と言う。以後お見知りおきを」

「あ、霊牙の専任パイロットの井伊政姫です」

 政姫は差し出された梓の手を握り返した。梓は凛としていた表情を緩ませて微笑んだ。

「相席、いいだろうか?」

「構いませんが…」

 梓は「ありがとう」と言って政姫の隣に着いた。


「あのアーマーローグ…霊牙の作られた理由を、貴女は聞き及んでいるだろうか?」

「アーマーローグ計画に於ける新技術実証機、と。そして……イジンを殺す為、と」

 政姫がそう答えると梓は目線を落とした。


「その答えは正解だが、間違ってもいる」

「え?」

 政姫は聞き返した。梓は笑う。その笑みには他人を笑ったという気がしなかった。まるで自らを嗤ったようだった。


「私には妹…のようなのがいるんだ。名前は美央。神塚美央」

「神塚って……」

 神塚という単語でフラッシュバックされたのは灰白色の化け物。ソレの発生を促した元凶の名を政姫は以前、資料から読み取っていた。


神塚喬彦かみづかたかひこ教授の近縁の方、ですか」

 人類の天敵になり得るイジンを目覚めさせてしまったマッド・サイエンティスト。そしてその娘であるという神塚美央。梓が今から何を自分に語ろうとしているのか、政姫は怖いもの見たさで聞き入ってしまう。


「私は、まぁ…育ての姉、みたいな立ち位置だよ。でも、二人は共通の血が流れている」

「それで? その美央って娘が霊牙と何の関係があるって言うんですか」

 梓は瞼を落とし、そして政姫の目を正面に捉えるよう向き直った。


「あの娘はイジンを憎んでいる。そして神塚教授を恨んでいる。美央は破壊的なまでの報復を望んでいる。イジンに、父である神塚教授に。そして私は美央にその手段を与えようとしている」

「霊牙は、復讐の為の手段だと?」

 ようするにそういうことなんでしょ、と政姫は心の中で吐き捨てた。霊牙に機械以上の思い入れをしている政姫には梓が語る真実が認められなかった。


「キサラギは第6研究セクションに多大な資金提供をしている。アーマーローグ計画の為、と大手を振って言えないのは恥ずかしい限りだが。しかし、人類を救う為ではある。あの娘がイジンを地球上から駆逐すれば、それは両方の目的を達成することだ」

「そんな話を私にして、なんだって言うんですか?」

 ムッとした表情で政姫は梓に言い返した。

「気を悪くしてしまったなら謝罪する。君や霊牙を悪く言うつもりは無いよ」

「とんだマッチポンプですね。目覚めさせた父親と火消しをしようとする娘、ですか」

 政姫はいつになく、とげとげしい口調でそう言った。霊牙を復讐の為に利用している、と言われたことに無意識のうちに腹を立てているのだ。

 梓は、そう言われても仕方無いな、という顔で政姫の言葉を受け止める。その上で更なる言葉を紡いだ。


「すでに計画に深く加担している貴女に頼みたい事があるんだ。模擬戦闘を見させてもらって、貴女ならと思った」

 梓が何かを言い掛けた時、昨日聞いた地鳴りのようなノイズが再び聞こえ始めた。しかも、今度のは前の時よりも大きい。いや、だんだんと大きくなっているようだった。


「それは、貴女に美央の―――、」

 言葉を続けようとした梓が壁に叩きつけられた。政姫もだ。下にいるスタッフ達も床に転がってしまった。


「何が起こったの!?」

 腐っても軍人。すぐに立ち上がった政姫は辺りを見回す。


 艦内放送のスピーカーに音が入った。

「メガフロート左舷に何かが衝突した模様。艦内のスタッフは原因が分かるまで、安全な場所まで退避してください」

「衝突…? 氷山…なんて、ここは太平洋のど真ん中。だとすると、他の艦船が追突したのか? 目の前にこんな馬鹿でかい建造物があれば回避すると思うんだが…」

「違う…」

 梓が考え得る原因を上げるなか、政姫はメガフロート内のどの人間よりも先にこの衝撃の原因が理解出来た。出来てしまった。


『ゴオオオオオオオォォォォォォォ…………!』

 なぜなら耳鳴りはすでに生物の唸り声に変わっているのだから。

「如月さん! 今からエメリン所長やアベリィ博士のところに言って貰えますか!」

「どうした? 何か分かったのか!?」


「伝えて欲しいんですよ! 海底から、イジンが襲い掛かって来たんだって!」







 霊牙のコックピット内。着の身着のままでリニアシートに座る政姫にはもう頭痛も何も関係無かった。


「管制! 左舷ウェルドッグから出ます! 運搬用リフト動かして!」

「は、はい! 格納庫ハッチ開きます。左舷ウェルドッグに向かうのは3番リフトです」

 霊牙を固定ハンガーから外すと、左の運搬用リフトに霊牙を乗せる。

 霊牙を乗せたリフトはゆっくりと下るように船内を進んでいく。


「井伊、ワイルドハントの整備完了率は65%よ。お世辞でも充分な機動が出来るとは言えない。あんたの言う通りイジンがメガフロートをどついているとしたら、すぐに戦闘になるわ。不測の事態で初めての水中戦闘。気を付けて。そして――、」

 通信でアベリィの声が聞こえた。

「ワイルドハントを壊さず帰ってこい、ですか」

「それもだけど、井伊も無事で帰ってきなさい」

 そんな言葉をアベリィに掛けられるなんて意外だった。誰が想像するだろうか。

 こんな状況で、政姫はアベリィとの仲も少しは良くなったんだな、と感じた。

「難しい注文をするなぁ博士は。霊牙は何が何でも戻して見せますよ!」

 政姫は息巻いた。

 どんどんと下降して、行き着いたのは無人のウェルドッグだ。


「政姫さん。イジンの頭部を狙いなさい。イジンの神経系が集中する頭部以外はすぐに回復されてしまうわ」

「分かりました」

 エメリンの指示が聞こえた。頭部を狙う、頭部を狙う、と政姫は繰り返す。

 そして深呼吸をする。


「ウェルドッグのハッチを開けてください! 井伊政姫、出ます!」


 政姫の合図で、ウェルドッグのハッチがゆっくりと開かれる。

 外は曇っているらしい。白い曇天が見えた。

 

 途端、ハッチが歪んだ。


「違う…。イジンっ!?」

 政姫の全天周囲モニターが灰白色に包まれた。そして、もの凄い力が霊牙の四肢を掴んだ。


「きゃっ!?」

 霊牙が海中に引きずり込まれる。


「しまっ…! このっ、離せ! 離せ!」

 霊牙が纏わりつくイジンを引き剥がそうとするが、出力が足りていない。機体から灰白色の触手を剥がせないまま、どんどんと海底に引きずりこまれる。


 霊牙は自らを縛るイジンを睨む。その姿はまるで鯨だ。白き鯨。口周りには髭のように触手が乱立している。

 サンフランシスコで見たイジンとは姿が違った。あの時はもっと小さかった。だが、目の前のイジンは霊牙よりも遥かに大きい。


「これが自己進化……!」


 おそらく、海中を彷徨っている間に鯨を真似て進化を進めたのだろう。他にも多様な海洋生物をその道筋に取り込んだ末の姿がこの白鯨なのだ。


「自分から離れたくないなら、ずっと掴んでいなよ…! 纏帯装甲内蔵ジェネレーター起動! 帯電モードに移行!」

 霊牙が纏う純白の鎧が黄金の光を纏う。だが、依然として白鯨は霊牙を離さなかった。


「落雷と同じ200万ボルト! 1000万アンペアの高圧電流を受けてみなさい!」

 装甲を伝って、電流が白鯨の触手を黒く焦がした。堪らなくなって白鯨は霊牙を掴んでいた触手を離した。


 纏帯装甲のジェットノズルで機体を押し出し、白鯨に肉薄する。

 電磁投射ハープーンを打ち込み、イジンの体表に突き刺さったハープーンを足で蹴り込んで更に喰い込ませた。

 イジンにも痛覚があるのか、苦痛でのたうち回るかの如く、白鯨はその巨体を捩じらせた。


「もういっちょおおぉぉ!!」

 電磁鋭爪が暗い海中の中で爛々と輝きを放つ。黄金が灯った五つ又の槍がイジンの体表を貫き体内へ直接電流を流し込んだ。


『ゴォォォオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアァァァァッッ!!?』


 白鯨は更に激しく身体をくねらせる。白鯨の痛恨の叫びが太平洋に轟いた。

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