第13話 願いは一つ、蒼い海

「ぐお――ぉおぉおぉおッ!」


 水流ジェットの噴射と、浮力を頼りに。「救済の超水龍」は自身の数十倍のサイズを誇るジャンボ機を突き上げていた。

 両手だけではなく、顔面や胸も機体に押し付け、体全体の力で押し上げて行く。全力噴射の勢いと重々しい機体との間で板挟みとなり、凪は呼吸困難に陥っていた。

 だが、それでも手の力が緩むことはない。まるで、進んで自分の首を絞めるかのように――彼はますます、ジェット噴射を強めて行く。


「海原……!」


 ろくに息もできず。上と下に挟まれながら、全身の力を、ただひたすら上方に捧げる。いつ終わるかもわからない、苦しみの中で。

 見ているだけで伝わるほどの壮絶さを前に、和士は息を飲む。――自分が「救済の超水龍」だったなら、三十秒も持たず力を緩め、ジャンボ機の圧力に押し負けていた。

 そんな過酷な戦いを、彼はもう五十分以上も続けて居た。常人には、堪えるどころか想像することすら遠く及ばない次元である。


(――ちくしょう! まだか、救助隊はまだなのか! このままじゃ海原が!)


 レーダーは、数多の「異物」が大挙してこの場を目指し、押し寄せていることを示していた。だが、海上に上がって辺りを見渡しても、影一つ見えてこない。

 この太平洋の大海原は、忌々しいほどに広いのだ。


 ――そして、その広さは残酷なまでに凪を追い詰めて行く。


「……く、ぐっ……」


 水流ジェットの残りエネルギーも、凪自身の余力も少ない。すでに彼の両腕は筋肉が悲鳴を上げたように痙攣し、背中から引っ切り無しに吹き出し続けていたジェット水流も、その勢いが弱まりつつあった。

 ――このままでは、間違いなく共倒れだ。


「凪! もういい脱出しろ! そんなところでエネルギー切れにでもなったら、ジャンボ機に押されてお前まで……!」

『でぇ、じょうぶ……まだ、行けるだよ』

「大丈夫なわけがあるか! 逃げろ、逃げろよ! 逃げてくれぇッ!」


 せめて凪だけは救いたい。矜恃も誇りも全て投げ捨て、最後に残った友情だけを頼りに、和士は泣き叫ぶ。

 だが、凪はそれでも引き下がらない。スーツから警告音が響き、視界が赤く明滅しても――その手が機体から離れる気配はなかった。


 救助隊は、目と鼻の先。海の上から辺りを見渡せば――ほんのわずかだが、ヘリや救助艇の影が窺える。

 しかし――海の中からジャンボ機を引き上げられるような装備は、彼らにはない。救助隊が用意しているものはすべて、海の上に浮かぶ要救助者に対応しているものだ。


 今まさに沈もうとしている、巨大な棺桶に囚われている人々など、想定に入っていない。


(――くそッ! これじゃ助けにならないじゃないか!)


 救助隊の詰めの甘さ。自分の非力さ。そこに向かう憎しみをぶつけるように、和士は両手の拳を機材に叩きつける。だが、それで状況が好転するわけではない。


 そして――ついに。


「キャアァアア! み、水、水がぁあぁあ!」

「出してくれ! 助けてくれぇえ! 出してぇえぇえッ!」


 水圧によりひしゃげた部分から、海水が容赦無く機内に流れ込んでくる。その濁流に慄く人々の悲鳴が、波長となって凪達に轟いた。


(父さん、母さん……お兄ちゃんっ……和士っ!)


 声にならない、麗の叫びも添えて。


「……ッ!」


 その阿鼻叫喚の嵐を聞いた彼の胸中に――ある記憶が蘇る。

 波に飲まれ、消えゆく人々。その中にいた、彼の――


「――ぐぁぉあぁあぉあぁあぁあッ!」


 そこからの彼は、もはや人ではなく。獰猛な獣の眼で、立ちはだかる苦難を射抜いていた。慟哭のような叫びと共に――水流ジェットが唸りを上げる。


 ――それはまるで、断末魔のように。


 後先のことなど、まるで考えない水流ジェットの全力噴射。自分が離脱するための残量さえ無視した、その一点集中の加速は――闇の中に消えゆくはずだった五百三十人の運命に、転機を齎した。


「わぁあぁあ! な、なんだよぉ! どうなってんだ!」

「お母さぁあん! 死にたくないよぉおぉお!」


 浸水により腰まで浸され、迫る溺死の運命に誰もが慄いていた時。突如機内が激しく揺れ、上方に向かって突き進んでいく。

 その物理法則に抗った現象と衝撃により、人々のパニックはさらに加速していった。騒ぎ立てることなく、静かに祈りを捧げていた麗も、思わず顔を上げる。


「え……!」


 その時には、もう。


 目に映る景色は、闇の中ではなくなっていた。


「へ、へへ……おっとう、おら、やっと……」


 三二一便の海面浮上。その瞬間を見届けた少年は、バイザーの向こうに広がる水飛沫と波紋を見つめ――穏やかな笑みを浮かべ、瞼を閉じた。


『三二一便発見! 機内に多数の生存者を発見!』

『機内はかなり浸水されているようだ……急げ!』


 一方。

 天を衝く水飛沫を上げ、海面まで突き上げられた三二一便の乗員乗客を出迎えたのは――眩い証明で自分達を照らす、無数の救助艇とヘリ部隊だった。

 彼らは三二一便の機影を発見するや否や、怒涛の勢いでこの場に駆けつけ、迅速な救助活動を開始したのだ。ようやく助けが来たのだと理解した人々は、歓喜の涙をその頬に伝わせ、泣き崩れていく。


「おい! 警視総監の御息女がおられたぞ!」

「麗お嬢様、よくぞご無事で!」


 救助隊にはすでに麗の情報が伝わっていたらしく――水浸しになった彼女の姿を発見した救助隊員達は、優先的に彼女の側に駆けつける。

 だが――麗はそこから動くことなく。割れた窓から、暗い海面を静かに覗き込んでいた。


「お嬢様……? いかがされましたか?」

「ここも危険です、お急ぎください!」


 その様子を見やる救助隊員達に急かされても、彼女はまるで足に根が生えたかのように、その場に留まり続けていた。

 ――まるで。何か大切なものを、忘れてきたかのように。








 その頃。


 現場から、遠く離れた海面に。「超水龍の方舟」の船体が、静かに漂っている。その上部ハッチの上に立ち、夜空を仰いで佇む少年が一人。


「……海原……」


 三二一便と引き離されて行くように、水底へと消えていった親友の名を、静かに呟いていた。弱々しく、消え入りそうなその声には――耐え難い悲しみと苦しみの色が滲んでいる。


 ――あの時。水流ジェットの推力を使い果たし、沈みゆく「救済の超水龍」を救助すべく、和士は「超水龍の方舟」を急発進させた。

 しかし、「潜行形態」の総重量は二百キロをゆうに超える。そのスーツが沈む速さも尋常ではない上、三二一便の機体が急速に海面まで押し上げられたことで発生した波が、和士の意に反するように方舟の行く手を遮ったのだ。


 結果、波が収まり方舟がその機動性を取り戻した頃には――すでに「救済の超水龍」は、レーダーの反応から消失していたのだった。


 それでも探そうとあがき続けた結果、帰りの燃料も失った彼は――結局こうして、親友を見つけられないまま、海の上へ浮上することになったのである。


 この約一年、いつも隣にいて当然だったはずの彼を失って――少年は、この事件が始まる少し前にあった出来事を思い出す。


 今にして思えばくだらない理由で、あの少女の純粋な想いを踏みにじってしまった――と。


(……会わせてやれば良かった……! 常識的な振る舞いがどうとかなんて、どうでもいいのに!)


 そうして、身動き一つ取れないまま海上に漂う彼の目に、数多のライトに照らされた三二一便が映る。その輝きに包まれながら、救助船に乗り込んで行く乗客達の中には――麗の姿もあった。


(麗……すまない、俺は、俺は……!)


 大切なものを守れる、強く優しいレスキューヒーロー。そうなってほしい、そうであってほしいと自分に願っていた彼女を、大きく裏切る結末だった。


 伊葉和士は、海原凪を――見殺しにしたのだから。


「海原っ……海原ぁっ……!」


 その罪の重さに潰れ、吐き出すかのように。蒼い船体に両手をついた彼は、泣縋るような表情で月を見上げる。


「……凪ぅぅぅうぅッ!」


 ――まるで。

 その向こうへと旅立つ彼に、行くなと訴えているかのように。







『……ったくよぉ。帰りのことなんてまるで考えねぇ無茶苦茶ばっかりしやがってよ。よくやるぜ』


「……!?」


 その時。聞きなれない声を通信で拾い、和士は涙を拭うことも忘れて顔を上げる。そんな彼の前に――月光を背に浴びる、もう一人の青きヒーローが現れた。

 自分が今乗っているものと同じ形状を持つ、二つ目の「超水龍の方舟」に乗るその人物は――傷だらけの「同胞」の肩を抱き、ぶっきらぼうな声を上げている。


 男のような喋り方ではあるが――その声色は紛れもなく、女性のものだった。


『……ふふ。けど確かに久水会長の仰る通り、あのお方によく似ておられますね? フラヴィ』

『悪いとこまで似てちゃ、こっちはたまったもんじゃねぇよジュリア。アメリカ側からこっちが探しに来てなけりゃ、この坊主は今頃――』


 ダイバーシステム試作一号機のテストパイロット「フラヴィ・デュボワ」と「ジュリア・メイ・ビリンガム」。

 目の前に現れたもう一人の「救済の超水龍」と「超水龍の方舟」の実態を、彼の脳が理解した時。


 彼女達の肩に抱かれている、ボロボロの「救助の超水龍」は――破片を零しながら、ぐったりしていた首を、「親友」に向けた。


「――ただいま、和士くん」


「――!」


 刹那。


 仮面に隠れてもわかる、「親友」の笑顔を感じて――独りになったと疑わなかった少年は。涙を拭うことも忘れ、声にならない歓喜を叫び。


 方舟から方舟へと飛び移り――その胸へと、飛び込んで行くのだった。

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