第4話 海原凪の真価

「でな、でな! 今ぐれぇの季節だと、海もあったかくなっていく時期に入るから、そりゃもういっぱい魚が増えててな!」

「……」


 ――アカデミーに向け、都会の道を歩む和士と凪。だが、二人の間に会話らしい会話はない。

 人懐こい笑みを浮かべ、一方的に故郷の村の事を語る凪に対し、和士は素っ気ない態度で聞き流し続けていた。

 こんなふざけた男が、自分より上の首席合格者だなんて理解できないし、したくない。そう、言わんばかりに。

 だが、そんな彼の露骨な態度など意に介さず、凪は楽しげに話し続けていた。


(……だが、曲がりなりにもこいつは首席。こう見えて、凄まじい素養を秘めているのかも――)


 和士は脳天気な隣の男に、品定めするような視線を送る。一見すればただのバカだが、実は力を隠しているのかも知れない――と。

 しかし。


「あー……。お腹空いただなぁ。でも魚は兄ちゃんのお土産だし、うーん……」

(――いや、どうにも考えられん。首席合格もまぐれだったんじゃないか……?)


 早速、豪快に腹の虫を鳴らしている少年。その間抜けな面持ちを見ていると、どうしてもその線で考えることができずにいた。

 再び和士の胸中に、彼が首席合格者であることへの疑問だけが残る。こんな男のまぐれが通るほど、入学試験自体が杜撰だったのか――と、勘繰ってしまうほどに。


(……まぁ、いいさ。この分じゃ、入った先でも長くは続くまい。そうなればテストパイロットの座が俺に渡り、元の鞘に収まるだけだ)


 完全に凪を見下す姿勢になった和士は、冷ややかな目つきで長身の彼を見上げ、興味を失ったように視線を正面に戻す。もうこんな奴は放っておこう――と、態度で露骨に示しながら。


「あ、おーい兄ちゃん。歩くの早いだよー……」

「はぁ……」


 ――凪の方は、そこまで邪険にされていることにすら気づいていないようだったが。


「だっ、誰か! 助けてください、誰かぁ!」


 その時だった。

 川沿いの道同士を繋ぐ橋に来た二人に――橋の中心で叫び声を上げる女性の姿が飛び込んでくる。


「……なんだべ?」

「あれは……!」


 三十代半ばと思しきその女性は、橋の下に度々視線を送りながら、周囲に助けを求めていた。――彼女の視界には、川の中でもがく幼い子供と、高校生ほどの歳の少女の姿が映されている。


「溺れてるのか!?」


 天候はさらに悪化しており、雨が降り始めるのは時間の問題。このままでは川はさらに勢いを増し――子供と少女の危険も高まって行く。

 一刻を争う事態に突如直面し、和士は切迫した面持ちでその場に駆け付けた。現れた白い制服の少年に、女性は悲しみに暮れた表情で縋りつく。


「そ、その制服……ヒルフェン・アカデミーの生徒さんですよね!? お願いします、助けてください! うちの子ばかりか、助けようとしてくださったお嬢さんまで……!」

「あ、ああ……」


 窮地に陥った市民。それを救うヒーロー。父の汚名を払拭し、名誉を勝ち取るまたとない機会。その千載一遇のチャンスが、和士の前に現れる。

 だが――我が子を想い、泣き縋る女性から目を逸らす彼は、沈痛な面持ちで事態を見つめていた。やがて彼はその表情のまま、空を仰いだ。

 とうとう――雨が降り出した。


 この状況から子供も少女も助けるなら、ロープか何かで体を固定しながら川に入るのが定石。だが入学式に向かう道中で、そんなものを持ち合わせているはずもない。

 レスキューヒーローを呼ぶ手もあるが、今にも子供達は流されようとしている。通報したところで、到底間に合うとは思えない。

 小さな子供を胸に抱き、少女は懸命に橋の支柱にしがみついている。だが、女子供の力で抗えるほど、水の力は生易しくはない。すぐに振りほどかれ、流されてしまうだろう。


(どうする、どうする! どうしたら!)


 彼の脳内に、自分が飛び込むという選択肢は初めから用意されていない。そんなことをしたところで、少女の二の舞になることは目に見えているからだ。

 勇敢と無謀は違う。エリートとして教養を積んできた彼は、それを前提として物事を判断している。


 だからこそ。

 驚愕したのだ。


「――兄ちゃん、ちょっと頼むだ」

「え、あっ……おい!?」


 寸分の迷いもなく、急流に飛び込む凪の姿。今までとは別人のような、凛々しさを帯びた、その真剣な横顔に。


「無茶な! 死ぬぞッ!」


 背負っていた魚入り木箱を和士に託し、流れるように橋から飛び込んで行った凪。その背に向け、動けないままでいた少年は悲痛な声色で叫ぶ。

 この急流に体一つで飛び込んで、ただで済むはずがない。間違いなく、川に流される。


 一瞬のうちに、雨水で濁った川の中へと消えた凪。その様子を目撃してしまった和士は、見ていられないと言わんばかりに目を伏せた。

 川の流れは、雨を浴びてさらに激しさを増して行く。やがて――その勢いは高波となり、子供達に覆い被さっていった。


「ぼうやぁあぁあ!」

「ち、ちくしょうッ……!」


 消えていく命。轟く慟哭。それを見ていることしかできない自分を嘆き、和士は拳を握りしめる。その中から、鮮血が滲むほどまでに。


 ――だが。その瞬間は、子供達の最期にはならなかった。


「……ッ!?」

「う、うそ……ぼうや、ぼうや!?」


 子供達が捕まっていた支柱から、数十メートル離れた桟橋。荒波の中からそこに現れた凪は――自らの両腕に、子供達をまとめて抱えていた。


(バ、バカな! あいつ、あの一瞬で……!?)


 信じがたい光景であった。この急流から身一つで子供達を救って見せたことだけではない。

 彼は激しい流れの中で、数十メートルの距離を、人二人を抱えて泳ぎ切ったのだ。それも、一分も経たないうちに。


 その常軌を逸した凪の行動に、和士は言葉を失い――両膝をつく。完膚なきまでに打ちのめされた敗北感と、子供達が無事なことへの安堵が、同時に降りかかったのだ。


「あ、あぁあ……よかった、よかった……!」

「……」


 隣で号泣している女性を一瞥し、和士は子供達を桟橋に上げている凪に視線を移す。少しも息を切らしていない彼は、子供達の無事を確認すると、元通りの無邪気な笑みを浮かべていた。


(なんて、無茶なヤツだ。こんな急流に飛び込むなんて――)


 そんな彼を見やる和士は、そこまで考えたところで首を横に振る。


(――いや、違う。あいつはあんなにも余裕そうに、あの子達を救って見せた。少なくともあいつにとっては……無茶じゃなかったんだ)


 勇気と、無謀は違う。その言葉が意味するものを振り返り、和士は凪が見せた、あの凛々しい素顔を思い返した。


(……俺がぐだぐだと悩んでいる間に、あいつは……何もかも解決してしまった。迅速な救出活動。レスキューヒーローに何より必要なそれを、あいつは持っていて……俺には、それがなかった)


 そして――子供達を背負って歩いてくる凪を、和士は……ため息混じりの笑顔で出迎えた。


(だから、あいつが首席で――俺が、次席だったんだ……)


「ああ、ありがとうございます! ありがとうございますっ! なんとお礼を申し上げれば……!」

「いんや、気にすることねぇべ。それよりこの子達、かなり水さ飲んでるだ。早く病院に連れてかねぇと」

「あっ……そ、そうですね、わかりました!」


 意識はあるものの、子供も少女もかなり激しく咳き込んでいる。病院に連れて行かなくては、どうなるかわからない。

 女性は言うが早いか、携帯を取り出して通報していた。


「さてと。おら達も、もう行かねぇと。急がなきゃ遅刻だべ」

「……ああ、そうだな」

「あっ! せっかくの制服が泥塗れになっちまっただ! 参っただなぁ、今日は新入生代表の挨拶もあんのに……」

「……」


 淀んだ急流に飛び込んだ凪の白い制服は、泥水に塗れて灰色に変色してしまっている。新入生代表として挨拶することになっている彼が、こんな格好で式に出れば間違いなくアカデミーの評価に響くことになるだろう。

 彼は後進の模範となる一期生代表の、首席なのだから。


 それを懸念した和士は、狼狽える凪を暫し静かに見つめ、目を伏せた後――意を決したように顔を上げた。


「……向こうに着いたら、俺の制服と交換するぞ。お前にはちょっとキツいかも知れないが、我慢しろ」

「え、えぇ!? そったらこと……兄ちゃんの方が泥んこになっちまうべ!?」

「今日の式で壇上に上がるのは、首席のお前だけだ。席に座ってる奴に泥塗れの奴が混じるのと、首席が泥塗れで挨拶するのとじゃ、全然違う」

「で、でも兄ちゃん……」

「……和士だ」

「え?」

「俺は、伊葉和士。好きなように呼べ、海原」


 和士は捨て台詞のように、そう言い切ると「さ、急がないと遅刻だぞ」と足早にその場を立ち去って行く。彼の言葉を受け、暫し呆気にとられていた凪は、我に返ると――にへら、とだらしない笑みを浮かべて、その後を追った。


「和士くん、かぁ。へへへ、いい名前だべ。おらのことも、凪って呼んでいいだよ」

「そ、それは別にいい」

「あー、照れてるべ? うへへ、めんこいなぁ」

「うるさい! 頭を撫でるなッ!」


 騒がしく言葉を交わし、アカデミーを目指す二人。そんな彼らの頭上では、暗雲を晴らした青空に――七色の虹がかかっていた。

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