第233話 救芽井樋稟の想い

 その頃――東京都千代田区にある、救芽井エレクトロニクス日本支社。

 日本国内における着鎧甲冑の製造、配備、管理全てを取り仕切るその一大企業を、一人の若き女社長が率いていた。


「社長、コーヒーが入りました」

「ありがとう」


 年中無休で舞い込んでくるスケジュールを淡々とこなしつつ、ほとんどの仕事を社長室のパソコン通信だけで終えている彼女。その隣には、常に怜悧な美貌を湛えた秘書が控えていた。

 壮絶な仕事量とは裏腹な静けさに包まれた社長室に、穏やかな美声が響く。その声とともに机上に置かれた一杯のコーヒーに、白く艶やかな手が伸びた。


「早いものね。あれから、もう三年になるわ」

「ええ、本当に。……一煉寺様なら、大丈夫ですわ。心配なさらなくてもきっと――」

「――心配なんて、してないわ。彼は約束を破るような人じゃないもの」

「……そうでしたね」

「いつだって、あの人は帰ってきてくれた。あの時だって……」


 音を立てることなくコーヒーを嗜み、彼女――救芽井樋稟は、過去の記憶に思いを馳せる。

 その景色にはいつも、ある少年との思い出が息づいていた。


(剣一さんと戦った時も、瀧上凱樹と戦った時も。ラドロイバーと戦った時も……あの人は、必ず生きて帰ってきた。どんなに苦しい戦いが続いても、最後には必ず、笑顔を見せてくれた……)


 しかし。それは彼女にとってかけがえのない記憶であると同時に――辛い記憶でもあった。


(……いつか私も、彼を好きじゃなくなるのかな……この気持ちも、いつか……)


 いっそ忘れてしまえるなら、どれほど楽になっただろう。忘れてしまおうと思えば思うほどに、その少年との思い出は強く彼女に焼き付いていた。


「社長?」

「え、あ……な、なんでもないわ」


 秘書――ジュリア・メイ・ビリンガムに声を掛けられるまで我を忘れていたほどに、その思いは根深い。

 その過去を振り切ろうとするかのように、彼女は再びパソコンに向かい始める。


 今の自分に課せられた使命を全うすることこそが、自分の生きる意味であると――己に訴えかけるように。


(……せめて、彼が帰って来たら……笑顔で迎えてあげよう。それくらいなら、許してくれるよね? 賀織)


 ――ラドロイバーの一件から三年。救芽井エレクトロニクスと久水財閥の共同事業により、着鎧甲冑のシェアはさらに拡大しつつあった。

 さらにG型の装備として制式採用されたテイザーライフルは、FBIや各国の警察組織を中心に配備されるようになり――二段着鎧を出発点とする着鎧甲冑用飛行ユニットは、人工知能による自動化を実現させ、R型の新装備とするべく研究が始まっている。

 そして二◯三四年現在、着鎧甲冑の生産総数は二千台以上に登っていた。


 久水茂はそのスポンサーとして、久水財閥を纏め上げ――妹の久水梢も、その秘書として多忙な日々を送っている。

 彼らは、あの死闘を乗り越えてからも……休むことなく戦い続けているのだ。


 彼らだけではない。

 かつては平和になった松霧町で穏やかに暮らしていた四郷姉妹も、現在では救芽井エレクトロニクスの専属研究員として、着鎧甲冑の研究開発に心血を注いでいた。


「そういえば、フラヴィさんはどうしているかしら。能力的には非常に優秀だから、教官職は適任だと思ったのだけど……」

「確かに、優れた後進を多数輩出しておりますし、社長の采配は適切でしたわ。ただ……どうも噂では、教え子達にアレをばら撒いているようで……」

「……来週の会議の議題になるかも知れないわね、彼女は」


 一方、救芽井エレクトロニクス直属の精鋭部隊「レスキューカッツェ」の隊長を務めていたフラヴィ・デュボワは、部下の西条夏にポストを託す形で隊を去り――現在ではアメリカの本社で教鞭を執る立場となっている。

 本社を率いている救芽井甲侍郎が太鼓判を押すほどの実績を上げている彼女だが、三十路手前でありながら未婚である現状を憂いてか、訓練生達に婚姻届を教材ごと配るという問題行動を繰り返す常習犯でもあった。

 現地の生徒曰く、講義を終えた彼女は飢えた野獣の眼をしていたという……。


「……ところで社長。そろそろ面会のお時間では?」

「そうね。――行きましょう」


 その時。ジュリアが指し示した時刻を見遣った樋稟は、目の色を変えて立ち上がる。

 ジュリアもまた、神妙な面持ちでその背中を見守っていた。


 救芽井樋稟が社長室を出て、直々に外へ出向く。それが並々ならぬ案件であるということは、彼女を知る者達にとっては常識であった。

 海外の大企業との商談か。他国の政府との交渉か。大勢のボディガードに囲われながら、社内を歩くその姿に、道行く社員達の誰もが注目していた。


 そして、参列した社員達の中央を進み――彼女は、専用のリムジンに乗り込んで行く。

 その後、秘書のジュリアやボディガード達が続いて行き――黒一色に塗装された厳かな高級車は、静かに目的地へ走り始めた。


 ……だが、彼女がこれから向かう「面会」には政府も企業も絡んではいない。いわば、完全な彼女の「私用」であった。

 しかし、彼女の背景を深く知る一部の人間に、その行いを咎める者はいない。

 例え私用であろうと、彼女が会わねばならない人物が――そこに居るのだから。


「――来たか」


 東京橋正管区、府中刑務所。

 その牢の中に生きる、一人の男が顔を上げる。


 男の名は――伊葉和雅。

 かつて、総理大臣と称されたことのある男だった。

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