エピローグ

第232話 矢村賀織の願い

 二◯三四年、七月。

 エルナ・ラドロイバーとの死闘から四年の月日が経った頃。


「さて、と。んじゃ、行ってくるで!」

「あいよ。気を付けておいで」

「車に気をつけてな」


 小麦色に焼けた肌と、黒いセミロングをなびかせて。一人の少女――否、女性が一軒家の玄関から現れる。

 ベージュのスーツを纏い、皮の鞄を肩にかけたその姿は、絵に描いたような「新人女教師」の雰囲気を漂わせている。

 その一方で、何処と無くあどけない少女の面影も残しているその女性は、両親との短い言葉を交わし――住み慣れた町並みを照らす空を見上げた。


「三年……かぁ」


 彼女は懐かしむようにそう呟くと……鞄から取り出した一枚の写真に、優しく口付けをする。

 それには、生涯の伴侶となる男性、一煉寺龍太の笑顔が映されていた。


「……へへ。もうすぐやな、龍太」


 直後、彼女は自身を見下ろす太陽に劣らぬほどの、満面の笑みを浮かべ――軽やかな足取りで駆け出して行く。

 そこには曇りなど、微塵も感じさせない「希望」が滲んでいた。その男性への、信頼が成せる技なのだろう。


 ――女性の名は矢村賀織。短大卒を経て教員免許を取得したばかりの、松霧高校新任教師である。


「賀織ちゃん、おはよう! 今日はやけに元気だねぇ、何かいいことあったかい?」

「へへ〜、内緒! ていうか、アタシはいつでも元気やろっ!」

「おう、賀織ちゃんかい。朝から精が出るのう。あとで採れたての大根サービスするから、帰りに寄りな!」

「うん! おっちゃん、ありがと!」


 ……とはいえ、彼女は学生時代から地域との深い繋がりの中で生活してきた身だ。今も昔も、馴染みの深い人々との関係には変化がない。

 商店街の顔馴染みとの付き合いも、少女だった頃から何一つ変わってはいなかった。


「おっ、賀織ちゃんおはよう! これから学校かぁ!」

「あ、お疲れ様です! そうそう、今日は定期考査なんですよ〜。ウチのクラス、だらしない子ばっかりだから大変で」

「はっはは! そりゃあ大変だね。でも、あの賀織ちゃんが今は立派な先生だなんて、時が経つのは早いもんなんだねぇ。いつか本官も息子と一緒に、賀織先生の授業を受けてみたいものですなぁ!」

「……あ〜、じゃあ早速今日から参加しちゃいます? 数学と英語ですよ〜」

「……おっと、ヤブヘビだったね。てなわけで本官はパトロールに戻ります! さいなら〜!」


 それは、長く付き合ってきた警察官の前でも変わらない。ただ、最近結婚して子供が出来たという彼の話を聞くたびに、心のどこかに寂しさを覚えることもあった。


(もうすぐ会える……もうすぐ、一緒になれる。そうやろ、龍太)


 だが、もう暗い気持ちにはならない。警察官と別れて学校に向かう彼女の目には、不安を塗り潰す期待の色が滲んでいた。


「おや、賀織君。おはよう」

「お義父さん、おはようございます!」

「ふふ、まだそう呼んでもらうには早い気もするが……まぁいい。今日は試験だろう、しっかり生徒達を見てあげなさい」

「了解しましたっ!」


 その明るさは、本人も知らぬうちに、周囲の人々に影響を与えているのだろうか。一煉寺宅の玄関から現れた大柄な男性……一煉寺龍拳も、彼女の笑顔に釣られるように穏やかな笑みを浮かべていた。


「さっきの賀織ちゃんか? ……ていうか親父ぃ、早く行かねぇと遅刻するぜ」

「あなたもでしょ、龍亮。ほらあなた、早くしないと」

「……ああ、そうだな」


 そうして走り去っていく彼女を見送る彼の後ろから、朝食を摂っていた妻と長男が現れた。その手には、トーストや目玉焼きを乗せた皿がある。


(……あんなにも純粋に、龍太の帰りを待てるとは……強い子だな。さて、あいつがちゃんと応えてやれればいいんだが……)


 一方。龍拳の胸中には、義理の娘と次男への想いが渦巻いていた。

 異国に身を投じた息子が、無事でいるか。彼女の愛に応えられるのか。父として、それを案じずにはいられなかったのである。


(彼女の愛情より守らねばならぬ正義は、ないと思え……龍太よ)


 どのような立場と責任を負おうとも、忘れてはならない愛情がある。息子が、それを理解しているのか――龍拳の気がかりは、そこにあるのだった。


 ――そして、少しばかりの時を経て。

 松霧高校を舞台にした「定期考査」という名の死闘に、幕が下ろされた。


「はい、そこまで!」

「ちょっともー! 賀織ちゃん手加減なさすぎィ!」

「出題範囲が意地悪すぎんよー! 賀織ちゃん!」

「出来とる奴はおるんやから、言い訳ナシ! 赤点は夏休み返上で先生と補習やから、覚悟しとき!」

「ゲェーッ! 賀織ちゃん怒りの夏期講習キタコレ!」


 生徒達から「賀織ちゃん」の愛称で親しまれている彼女に向けて、成績不良の男子達からの悲鳴があがる。

 鬼教師と巷で有名な賀織にとっては、実に見慣れた光景であった。


 その後、職員室での事務作業を終え――彼女は自身にとってはかけがえのない場所だった、ある部屋に足を運ぶ。

 そこは――白い塗装で清潔に管理された、部室棟の中にある一室。「着鎧甲冑部」の部室であった。

 定期考査の期間中ゆえ、部室は完全な無人であり――そこに佇む賀織は、静かな空間の中で物思いに耽っている。


「変わらんなぁ……ここは」


 白い壁に手を這わせ、賀織は懐かしむように微笑みを浮かべた。


 ――龍太達が卒業したのち、着鎧甲冑部は「ヒーローを養成する部活」から「ヒーローについて研究する部活」へとシフトしていった。

 着鎧甲冑の資格試験を受けられるような逸材が、頻繁に出るような環境でもない以上、こうなるのも当然の流れだろう。

 現在では、養護教諭を退職して救芽井エレクトロニクスの専属研究員となった四郷鮎美に代わり、賀織が顧問を務めている。


 ――あの時に学び取ったことを、違う形になろうとも伝えていきたい。そう願った彼女の想いが、今の彼女自身を作り上げたのだろう。


「……」


 ふと、彼女の目に一つの写真立てが留まる。そこには、当時の着鎧甲冑部が全員で撮った集合写真が飾られていた。

 当時の自分。四郷鮎子。四郷鮎美。久水梢。救芽井樋稟。そして――


「――龍太」


 その名が、自然と零れてしまう。

 ……次いで、彼女の願いが――何より叶えたい願いが、漏れ出してしまった。


「早う、会いたいな。龍太……」


 信じている。絶対に帰って来ると、信じている。

 ――それでも少しだけ、ほんのちょっぴり。


 矢村賀織は、寂しさを覚えていた。

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