第234話 伊葉和雅の償い

 無機質な灰色で彩られた面会室。

 俗世間から隔絶された咎人と外界の人間を繋ぐ、その閉鎖された空間の中で――二人の男女が相対していた。


「……そうか。私の知らぬ間に、君達は大人になっていたのだな」

「あなたから見れば、私達はまだ子供です」

「子供なら、自分のことをそのようには言わんよ」


 透明な壁一枚に隔たれた、明と暗の世界。

 その双方に居座る伊葉和雅と救芽井樋稟は今、同じ目線で言葉を交わしている。


 樋稟はこの場で自分達の三年間を、自らの言葉で語っていた。

 おおよその世情は刑務所内に届けられる新聞でもわかるが、それに書かれることのない情報まで手に入れる術はない。

 それを憂いた彼女は、自分達の知りうる限りの状況を事細かに、和雅に伝えていたのだ。


「……早いものだ。もう、あれから三年になるのか。そろそろ、一煉寺君が宣言していた頃になるが――」

「――彼はまだ、帰ってきてはいません。ですが、いつか必ず帰ってくる。私はそう信じます」

「そうか……そうだな。彼ならば必ず、ダスカリアンに巣食う奴らを阻止してくれると、私も信じたい」


 無精髭を生やし、前にも増して痩せこけた和雅は、樋稟の真摯な瞳を見遣り――祈るように瞼を閉じる。

 加齢による体力の低下もあってか、その声は風前の灯のように掠れかけていた。


「伊葉さん……」

「……ふふ、私も少しばかり歳を取った。生きてダスカリアンの繁栄を見届けることは叶わぬであろうが……君達に託せたならば、それを望む必要もなかろう」


 しかし、その佇まいに生への執着や焦燥の色はない。あるのは、次の世代に希望を見出した者が見せる、安堵。

 かつてダスカリアンへの償いのために身を粉にしていた老人は、それまでにない穏やかさを表情に浮かべ、樋稟の言葉に耳を傾けていた。


 ――そうして彼を安心させた、という意味では、樋稟の行動は正しかった言える。だが、彼女の用件はそれだけではなかった。


 彼女は逡巡するように視線を泳がせ……やがて、意を決して顔を上げる。


「……伊葉さん。私は、着鎧甲冑と救芽井エレクトロニクスは人々を救うためにあるべきだと……そのために力を尽くすべきだと、幼い頃から信じ続けてきました。いえ、その信念は今でも続いています」

「そうか」

「……ですが、私達は……その信念のために、あなたを犠牲にした。その上、龍太君を死地に追いやるようなことまで……」

「……」

「人々を助けるために誰かを犠牲にする。そのために尽くした人を生贄に差し出す。……そうして掴んだ平和に、本当の正義はあるのでしょうか」


 聞くべきではなかったかも知れない。それでも、聞かずにはいられなかった。

 その想いだけが、彼女の口唇を動かしている。


 彼女の言う「犠牲」の張本人である和雅は、迷いながらも答えを探そうとする彼女の眼を静かに見据え――


「君には、私が犠牲者に見えるかね」


 ――静かに、諭すように……呟いた。


「え……」

「いや、少なくとも君にはそう見えたのだろう。しかし、私は犠牲になるつもりで生きてきたつもりはない。一煉寺君だって、そうだったろう」

「……」

「人はそれが正しいと信じる道にしか、本気で生きることは出来ん。自分自身ですら信じられぬ生き方に、誰が命を懸けられようか。誰が、人生を捧げられようか」


 和雅はあくまで穏やかに、彼女に自身の胸中を語り続けていく。子供をあやす、親のように。


「私も彼も。自分にとってはそれこそが真実の正義であると信じて、その道を選んだのだ。その理想のための戦いに身を投じて行くことが、犠牲になることだとは私には思えんよ」

「……そう、でしょうか」

「君も君が信じる正義のために、命を懸けているだろう。それは決して、君にとっての犠牲ではなかろう。それと同じだ」

「……」


 樋稟はそれでも葛藤を乗り切れず、陰鬱な表情を覗かせる。そんな彼女を見守り、和雅はさらに言葉を重ねた。


「ラドロイバーも、凱樹も。恐らくは、かつての剣一君も。自分が信じた正義に生き、その代償として然るべき結末を迎えた」

「……」

「――しかし、私達の正義が目指す先は同じであるはず。ならば君も……心から、信じてあげなさい。彼も、そうであって欲しいと望んでいるはずだ」

「……ッ!」


 その瞬間。

 樋稟は桜色の唇を噛み締め、膝に置かれた拳を震わせた。


 ――自分はまだ、龍太に全てを預けられずにいた。彼を心の底から、信じ切れずにいた。

 心配していない、と口にしていても……心のどこかで、彼を失うことを恐れていた。彼の力を、深い底の中で疑っていた。

 その罪悪感から逃れるために、彼を犠牲にしてしまったと、自分を卑下していたのだ。本当に彼を信じていたなら、そんな言葉など出るはずがなかったのに。


 それを、看破されてしまった。

 完膚なきまでに。言い訳など、する余地がないほどに。


 しかも彼は、あくまで樋稟を責めるようなことは言わず、優しく諭すように語っていた。

 ――そう、優しくされてしまっていたのだ。自分には、そうして貰える資格などなかったというのに。

 龍太を信じ切れず、彼を犠牲にしたなどと……言ってしまったのに。


「私、は……!」


 刹那。樋稟の頬を、熱い雫が伝い――白い柔肌に跡を残していく。


(……だから、私は……賀織に勝てなかったのかな……)


 もっと彼を信じてあげられたなら、違う未来に繋がっていたのだろうか。そんなことはありえないと思えば思うほどに、その想いは強く彼女の胸を縛り付けていた。


「……誰かを心の底から信じる。それほど、言葉にすることは簡単でも実現するには難しい話はない。むしろ自分の命を懸けるより、何倍も難しい道のりなのだ」

「……」

「しかし、人は強くなれる。変わることもできる。今日の君に出来なかったことが、明日の君に出来ないという保証はないのだ」

「……伊葉、さんっ……!」

「今は出来なくても、構わんさ。いつか彼と再会するその時に、心からの笑顔を向けられれば……」


 そして、樋稟が耐え続けた声は。


「きっと彼も、君を信じて良かったと思うだろう」


 その言葉を受け、タガが外れたように漏れ始めて行く。


「……さて」


 樋稟のすすり泣く声を聞きながら、和雅は静かに席を立つ。

 もうじき、面会時間の終わりも近い。そろそろ、鉄格子の牢獄に帰る時間だ。


 彼はゆっくりと踵を返し――振り返ると、泣き腫らした顔を上げた彼女に、穏やかな微笑みで応えた。

 自分なら大丈夫だ、と励ますように。


「――私も、君の話を聞けて良かったと思っている。……ありがとう」

「……はい……」


 そして、そのやり取りを最後に。

 伊葉和雅の面会は、終了を迎えるのだった。


 ◇


 ――その後。


 再び鉄格子の牢に帰還した和雅を、一人の女が出迎える。

 向かいの牢に囚われたその女は、面会を終えて帰ってきた和雅を静かに見つめていた。


「……いいお話は聞けたのかしら?」

「ああ。ためになる話さ」


 その女囚――エルナ・ラドロイバーは、かつての所業からは考えられないほどの穏やかな面持ちで、和雅の瞳を見遣る。

 お互い、憑き物の落ちた顔だ。自身にとってのやるべきことを尽くした者達が、その果てに浮かべる表情だ。


「不思議ね……終わってみれば、こんなにもあっけなくて……儚い」

「……そういうものだ。それが、悪いことというわけでもなかろう」

「――そうかも知れないわ。あの日と変わらない空なのに……」


 その面持ちのまま、ラドロイバーは牢獄の窓から外へと視線を移す。そこには、月と星に彩られた夜空が広がっていた。


「硝煙のない空がこんなにも広いなんて、思いもしなかった……」

「今になって、気づくこともあるさ。人は、いつだって変わっていくものだ」


 魅入られるように夜空を見上げるラドロイバー。その様子を見守りながら、和雅は瞼を閉じて眠りに落ちていく。

 走り続けた人生の中で、安らぎを求めるかのように……。


「本当に、変わるものね……」


 その様を見届けるラドロイバーは、そう、ひとりごちるのだった。


 ◇


 ――海と砂漠を越えた、遥か遠く。荒々しい風が吹き抜ける砂上の道を、一人の男が進んでいた。

 その男を囲むように並び立つ小さな家々からは、猛獣の如き殺気が漂い――竜巻のように唸りを上げている。

 しかし、男は自身に覆い被さる殺気を感知した上で、眉一つ動かすことなく歩みを進めていた。


 黒いブーツ。真紅のカーゴパンツ。漆黒のポリスジャケット。それと同色のフィンガーレスグローブ。

 男が身に纏うその服装を目にした殺気の主達は、さらに威圧感を噴き出していきり立つ。


「おい……あいつ」

「ああ、間違いねぇ。例の『赤い悪魔レッドデーモン』だ」


 加えて、腰に届く黒い長髪を赤い鉢巻で一束に纏めたその髪型と、左目の傷――そして肩から先がない左腕という特徴が、男達の緊張をより強く煽っていた。


「ち、ちくしょう……! もうここを嗅ぎつけやがったのかよ!」

「どうする……!?」

「やるしかねぇ。いくら『赤い悪魔』が相手だろうと、こっちは十人いるんだ」


 ダスカリアン王国城下町に駐在する、保安官の制服。それを目の当たりにしてそこまで戦意を膨れ上がらせる勢力は、現状では一つしかない。

 男がそれを意に介さずに進み続けたその時、ついに状況が動き出す。


 周囲の家屋に潜んでいた殺気の主達――あらゆる武装で身を包んだ男達が、保安官の男を一瞬で包囲したのだ。

 計算され尽くした、無駄のない陣形。殺気さえ隠せていれば、完全に保安官の虚を突くことも出来ただろう。


 だが、この男には一寸の揺らぎもない。

 焦ることも昂ぶることもなく、ただ飄々とした面持ちで、自身を囲む武装集団を見遣る。


「城下町郊外にある、七年前に過疎化して消滅した村の跡地――にしては、随分とおっかないお兄さん達がたむろしてんだな」


 保安官は懐から取り出した書類に目を通すと、男達の方には見向きもせずに口を開く。

 その態度は、ただでさえいきり立っていた男達をさらに挑発する結果を招いていた。


「てめぇ……この状況わかってんのか」

「生きて報告に戻れるとでも思ってんのかよ」


 しかし、その恫喝に保安官が耳を貸す気配はない。あくまで呑気な表情のまま、手の中にある書類に視線を集中させていた。

 それから程なくして、彼は書類を懐にしまい――視線を男達に戻す。


「最近この辺りで、武器密売シンジケートの取引が行われてるって情報があってな。もしよかったら、お話をお伺いしたいんだが――」

「――てめぇらにくれる情報なんぞねぇよ!」


 その瞬間、男達のうちの一人が引き金を引いた。銃口から火が吹き、乾いた銃声が辺りに響き渡る。


 本来ならば、その一発だけで終わるはずだった。――しかし、この男はその限りではない。


「ち、ちいッ!」

「――いくらなんでもせっかちなんじゃない? 俺はお兄さん達がシンジケートの構成員と睨んでる、なんて一言も言ってないんだが?」


 漆黒の双角を持つ赤い鎧。その甲冑を一瞬で纏う隻腕の拳士は――残された右腕だけで、ヘッドショットを防いでいた。

 その口から零れ出る低いトーンの声に、男達は身の危険を本能で覚え――反射的に銃を構えた。


「おっと!」


 だが、保安官「だった」男はそれよりも早く飛び上がり、家屋の屋上に着地する。銃を構える頃には敵がいなくなっていたことに気づいた男達は、狼狽しながら周囲を見渡し始める。


「危ねえなぁ。同士討ちしたらどうすんだ」


 その声を聞き取って、男達はようやく敵の存在を感知して銃を向ける。


「そうそう、武器は仲間に当たらねぇようにしなきゃな」


 そんな武装集団の姿に感心するような声を上げながら、男は改めて臨戦態勢の構えに突入した。


「……さーて。用意が出来たところで、そろそろ一仕事始めるかな」


 それは戦いと呼ぶには、あまりにも一方的で――男達にとって、凄惨なものだったという。


 ――ダスカリアン王国城下町駐在、一煉寺龍太保安官。

 二十二歳の若さにして絶対的な戦闘力を持ち、幾多の武器密売シンジケートのアジトを潰してきたことで知られる、中国系ハーフの拳士である。

 しかし、その一方で――日本人としてこの国に来たことから、国民の中には「赤い悪魔」と彼を呼ぶ者もいた……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る