第175話 夜空を見上げる父の顔

 俺の眼前に聳える、巨大な影。それを前にして、全く動じずにいろというのは無理な話だろう。

 グレートイスカンダルが反発するように鳴き、俺も咄嗟に目を細める。何故彼がここに居るのか。その理由を、見極めるために。


「構えることはない。私はただ、姫様が抜け出される『理由』を見に来たに過ぎん。貴殿と同じだ」

「……ッ!」


 ――そう言われて、構えない奴が居るものか。

 俺はあの娘が守り続けてきた愛猫を庇うように立ち上がり、猫の周辺を覆う暗い領域を、俺自身の影で塗り潰した。


 一方、暗がりのせいではっきりとは見えないが、将軍の顔には表情がないように伺える。能面のような面持ちで、静かにこちらを見据えているようだった。


「案ずるな。その子猫の存在を確かめたかっただけのこと、無用な手出しなどしない」

「……本当だろうな」

「姫様が愛するものを、私が無為に否定するわけには行くまい。もっとも、戦士の魂に染み付く殺気ゆえ、私が動物に好かれることはないだろうがな」


 グレートイスカンダルを一瞥する将軍の瞳に、微かな憂いが浮かぶ。その光景が真実なのか、錯覚なのか――俺がそれを判断するより先に、彼は大きな踵を返して満月を見上げていた。


「貴殿と話をするには、ここは適さないらしい。子猫のためにも、場所を移すとしよう」


 そう呟いた彼は、肩越しに俺と一瞬だけ視線を合わせると、そのまま空地の外へ歩き出してしまった。

 別に彼と会うためにここへ来たわけではないが……彼と一対一で話をする機会など、そうそうないだろう。彼がダウゥ姫やダスカリアンをどう見ているのか。そこを聞き出すこともできるかも知れない。


 その期待から俺はあの大きな背を追うことに決め、グレートイスカンダルに「またな」と一言別れを告げると、この場を離れることにした。

 そして、気のせいかも知れないが――俺が去る間際、あの子は寂しがるような声で、小さく鳴いていたように思う。


 ――ジェリバン将軍が、俺と話し合うために選んだ場所。それは、俺の自宅に近いところにある公園だった。

 三年前、俺が着鎧甲冑の戦いを初めて見た場所でもある。あれから少し経つが、遊具も景色も、何一つ変わっていない。


 一方、将軍はベンチの端に無言のままどっしりと腰掛ける。隣に座れ、と視線で訴えながら。


「昔から、殺気を隠しきるのが得意ではなくてな。人間相手ならまだしも、深層に眠る本能まで感知する動物には、どうしても悟られ避けられてしまう。ゆえに狩猟だけはからっきしで、小動物と触れ合いたがる姫様にもよく怒られたものだ」

「……そのガタイじゃ、殺気だけ隠してもあんまり意味ないんじゃないか?」

「ふむ、確かに。町並みを眺めるために出歩くことも多いが、みな私を避けるように歩いていたな。むやみに町民を惑わせてしまったことについては、申し訳ないと思う」


 俺は彼の誘いに乗りつつ、雰囲気に飲まれないために軽く毒づいた。しかし、彼は全く不快な様子を見せず、至って率直に対応している。

 柳に風。一見すればそんな言葉が似合う、穏やかな男だ。しかし、動物に本能で看破される「殺気」を持っている事実が、油断を見せるなと俺に命じていた。


「最近になって、姫様が私の目を盗んで抜け出すことが特に増えていてな。あのお方が気にかけておられる猫のことを、一目見ておく必要があったのだ。――先日は、姫様が世話になった。貴殿の協力に、感謝する」

「え? 昨日のアレ、見てたのか?」

「見ていなくてもわかる。以前は何かと窓から外を眺め、不安がっていた姫様が、貴殿の声が聞こえた昨晩だけは満足げに笑っておられた。今夜も、安心した様子で眠っておられる。子猫の件について、貴殿が何か手を打ってくれたのだろう?」

「……別に。飼い主を探すって言っただけさ。いつまでも一緒には居られないんだから」


 どうやら、民宿前でのやり取りは聞かれていたらしい。その情報だけでほぼ全てを察していたというのだから、驚きだ。

 ……これだけ物分かりがいい人と、国の存続を賭けて戦わなければならないとはな。彼の根本に眠る、話し合いで解決できない武闘派としての一面を、グレートイスカンダルは本能で察知したのだろう。


「そうか。……我々も、あの猫と同じだ。誰かの支えがなくては生きていけない、脆弱な『生き者』。今の姫様には、想像を許される『明日』すらない」

「よそ者の俺が口を挟むもんじゃないだろうが……国の『明日』を自分から潰しに掛かってる人の言葉じゃないな。あの娘の命より、地位の方が大事だってのか」

「いや、大切なのは地位ではない。もちろん王女としての名誉を失うことも多大な損失ではあるが……何よりもあのお方は、『故郷』を離れることを恐れておられるのだ。御家族が眠り、御自身が生まれ育って来られたダスカリアン王国から、去らねばならない日を」


 夜空を見上げる将軍の眼差しは、姫君を案じる色を湛えている。月明かりに照らされ、その憂いは鮮明に映し出されたのだった。


「私の強さで平和が保たれているとは言え、それはあくまでダスカリアンの国内に限った話でしかない。中東全域は未だに各地で戦乱が起き、人々は不安と恐怖に苛まれ続けている。そんな『国の外』を見て来られた姫様が、国王様や王妃様を死に追いやった『日本』に行くことになった時、どれほど震えておられたか……」

「……」

「そんな姫様にとって、貴殿はある意味では希望だったのだろう。初めて訪れる外国、それも御両親を奪った恐るべき国家に踏み入ったあのお方には、当然ながら現地の知り合いなどいなかった。例え姿が似ているだけだとしても、息子の生き写しとも呼べる貴殿の顔を見るまでは、あのお方は常に戦々恐々としておられた」


 彼の口から語られるダウゥ姫は、俺が見た彼女の印象からは掛け離れたものだった。

 しかし、彼女の境遇を考えればありえない話ではない。外国をろくに知らない彼女にとって、未知の国に住む「知人に似た男」という存在は大きいのだろう。現地に知る者や頼る者がほとんどいない、という状況ならばなおさらだ。

 何かと俺に突っ掛かってばかりの彼女だったが……ああ見えて、本当は構って欲しかったのだろうか。


「――だが、私達の戦いが避けられないことも事実。貴殿が我が子と同じ姿をしていようと、『瀧上凱樹を倒した日本人』には変わりない。私は姫様を故郷に帰すためにも、貴殿に勝たねばならんのだ」

「その帰した先の故郷が墓場とわかっていて、みすみす行かせるほど俺は親切じゃない。そう簡単に、死なせてくれるとは思わないこった」

「承知している。……このような事情さえなければ、貴殿と戦うことなどありえなかっただろうが、な」


 ジェリバン将軍は視線を落とすと、俺と目を合わせないままゆっくりと立ち上がる。そろそろ帰るつもりなのだろう。

 俺も、明日は最後の特訓が控えている。いい加減に帰って寝なきゃ、翌日に響きかねない。


「――日本の悪鬼は、瀧上凱樹ただ一人。日本人全てが、仇敵にはなりえない。それはカズマサ殿が証明してくれたことだ。……しかし、まさか私の息子と瓜二つの少年が、あの瀧上凱樹を討ち取ってしまった……とはな」

「国のために戦って死んだ、あんたの息子と比べられても困る。俺は、単に顔が似てるってだけさ」

「いや……本当にそれだけならば、姫様が憎んでいるはずの『日本人』である貴殿に、あそこまで気を許されるはずがない。貴殿には――何かの運命を感ずにはいられんな」


 俺は将軍に続く形でベンチから立ち上がり、そこでようやく彼と目線が交わった。

 そして、その瞬間の彼は――「父親」のように、慈しむ面持ちで俺を見ているようだった。月明かりを背に浴び、影に隠れていても、その眼差しが見えなくなることはない。


「だが、手を抜くつもりはない。一人の戦士として、決闘には真摯に臨ませて貰う」

「……ああ」


 しかし、踵を返して向けられた背に、その温もりはない。あるのは戦士として戦場に赴く、荘厳な威風だけだ。……浴衣だけど。

 彼は直球な捨て台詞を残すと、静かにその場を立ち去って行く。


 ――そしてその背中を見つめ、俺も腹を括った。あの穏やかな彼の姿は、決闘が終わるまで頭から離しておくとしよう。

 今の俺達は、譲れないものを賭けて戦う敵同士。そのけじめは、付けておくべきだ。


「あんたの息子もきっと、故郷で仲良く死んで欲しい、とは思わないだろうよ」


 彼が姿を消し、誰もいなくなった公園の中で、俺は一人呟く。

 身勝手で、傲慢で――決めつけでしかない考え。だが、俺はそれを否定しない。

 テンニーンとやらが、あの娘を生かすために命を使ったのなら……俺がそれに続かない理由はない。


 レスキューに固執する怪物としてだが、その役目は引き継がせて貰うとしよう。


 ――そして、決闘当日。


 命を使う日が、訪れた。

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