エピローグ

第148話 いつも通りの朝


 ――二〇二九年、九月下旬。


 瀧上凱樹という男の二十九年の人生が、必要とされざる裁判を経て――終末を迎えた頃。


 一煉寺龍太の「戦い」は、絶えず繰り返されていた。


「龍太、龍太! もぉ、早う起きんと遅刻するでッ! 救芽井らも学校に着いとるらしいし、もう、早う起きぃやッ!」

「すまんな、賀織君。いつも世話になっておるよ」

「あ、いいんですいいんです。アタシが好きでやりよるだけですんで。……ほらッ、日曜やからって寝てる場合やないで! 今日も補習がッ――て、いやぁああぁああッ!」


 快晴に照らされた、松霧町の住宅街。その一部である一煉寺家に、朝早くから甲高い悲鳴が響き渡る。

 だが、その叫びの発生源である矢村賀織の傍にいながら、龍太本人は未だに眠りこけていた。下の階にいる一煉寺龍拳も、特に驚くことなく、悠長にコーヒーを嗜みながら朝刊を開いている。


「い、いってぇ! 起きぬけにエルボードロップはないんじゃない!?」

「あ、あぁあ、アホーッ! 早う着替えぇやッ! てか、隠せやッ!」


 ――いつも通りだからだ。日曜の朝、彼女が龍太を起こしに来るのも。その手で布団が剥ぎ取られた瞬間、彼の仕込み刀が唸りを上げるのも。そして、日々増していくその猛々しさに、彼女が驚愕するのも。


 ……彼女がこうして、毎日龍太を起こしに来ているのには理由がある。

 無事に退院はしたものの、宿題を溜め込んでいた龍太は二学期までにその全てを消化することが出来ず、結果として二ヶ月間の「補習」を宣告されてしまったのだ。

 以来、彼は毎週の土日を補習に費やされ、ただでさえ過密しているスケジュールをさらに「充実」させられているのである。


 朝は「補習」。昼は「部活」。夜は父、龍拳との「修練」。唯一の娯楽は、賀織の監視をかい潜って送られる、深夜に嗜む兄からの「餞別」のみ。それが、彼の青春なのだ。


 しかし、そんな彼の生活を支える龍拳にも、一般社員としての仕事がある。一方、一人暮らしの期間があるため、家事全般はこなせなくもない――が、どちらかと言えば得意でもない龍太に任せるのも、家族としては不安があった。


 そこで母、久美から最も信頼されている賀織に、白羽の矢が立ったのである。彼女から合い鍵を托されて以来、賀織は一煉寺家に連日通っては、家事炊事をこなす日々を送るようになったのだ。


 そして、その仕事を当然のように嬉々として引き受けた彼女は「通い妻」の如く、こうして毎日龍太の面倒を見ている。だが、際限なく逞しくなっていく彼の「象徴」には、なかなか慣れないらしい。


「よっし、準備オッケーやな! それじゃ、行ってきまーすっ!」

「……行ってきま〜ふ」


 制服姿の彼女に引っ張られ、瞼を擦りながら家を出ていく彼の頬には、いつも小さな手形が出来ているのだった。


「そんなに嫌なら無理して来なくても……。一応、目覚ましならあるしよ」

「もー、あんたみたいな寝ぼすけがそんなんで起きるわけないやろ! はぁ……頼むけん大人になったら、一回呼ぶくらいで起きるようになってくれな」

「大人になっても起こしに来るのかよ!?」

「えっ、あっ、そ、それは――しゃ、しゃあないけんな、あんたがどうしようもない寝ぼすけやからな! 同級生として、面倒見なあかんけんなっ!」


 無理矢理手を引かれながら、龍太はいつまでも居座るつもりとも取れる賀織の発言に、思わず目を見開いてしまっていた。その瞬間、眠りが覚めた彼の脳裏に、彼女の告白が過ぎる。


 これから、いつ死ぬかもわからない世界に飛び込もうという自分に、恋人を得る資格など許されるのか。彼は未だに、その答えを出せずにいた。

 いつか自分が居なくなった時の彼女のことを憂いながらも、龍太は決してそれを表情に出すまいと、顔の筋肉に全力を注ぐ。自分が弱気な顔をすれば、彼女を心配させてしまう。それだけは、鈍い彼でもわかっているのだ。


「……ずっと」


 だが、それにばかり気を取られている龍太の罪は大きい。短くも大きな意味を持つ、彼女のこの一言を聞き逃してしまったのだから。


 ――そして、それからの道中も、龍太に取っては実に見慣れた光景ばかりなのであった。


「おぉ〜、なんか今日はいつもよりアツアツって感じじゃのう、龍太! 賀織ちゃんとしっかり手ぇまで繋ぎおってからに!」

「ちょっとあんた! サボってないで仕事しなさいな! 油売ってると晩飯抜きよッ! ――あ、賀織ちゃん行ってらっしゃい! 今日も可愛いわねぇ」

「おっと、うひーこえぇこえぇ。……おい龍太、これだけは言っとく。結婚ってのはな、しない内が華なんだよ……」


 通学路である商店街を通る都度、顔見知りの八百屋や魚屋に冷やかされるのも、もはやお約束と化していた。


 完全に尻に敷かれた夫婦関係を目の当たりにした龍太は、将来の自分を見ているような錯覚に陥り、深くため息をつく。その隣では、賀織が照れるように頬を掻いていた。


 エールとも言える町民の言葉を背に受け、商店街を抜けた先。その眺めも、普段とさして変わることはなかった。

 一人、そこに立っている人間が増えているところを除くならば。


「……なぁ。もう普通に横切ってもいいんじゃないか? 今日は隣におばさんもいるしさ」

「ア、アア、アタシが恥ずかしいからいけんッ!」


 娘を案じ、矢村家の玄関前を徘徊する矢村武章。その傍には、夫を鋭く見張る母が仁王立ちで佇んでいた。

 基本的に自分や娘の味方である母が付いている以上、心配することはないと判断する龍太。だが、「好きな相手を親の前に連れ出す」ことに緊張する女心に気づいていない点を失念している彼には、正確な判断力があるとは言い切れないだろう。

 結局、何が恥ずかしいのか理解が追いつかないまま、龍太は賀織によって遠回りのルートへ強制連行されるのであった。


 さらにそこへ、自転車に乗った顔なじみが居合わせる。


「あれ、お巡りさんじゃん。パトロールお疲れ様」

「おはようっ、龍太君! 確か今日は補習の日だったかな、君も災難だねぇ」

「はは、なぁに。来月までの辛抱さ」

「へぇ、勉強嫌いの君にしては珍しく強気じゃない。にしても、相変わらずイチャイチャしてるねぇ! で、賀織ちゃんとはどこまでイッたの!? A!? B!? それともD!?」

「ちょ、いきなり何を言い出すんだよもー! 矢村もなんとか言ってやってくれ!」


 巡査長に昇進し、テンションに磨きが掛かった近隣の警察官。その、ある意味では一切の容赦がない追及に、龍太は言葉を詰まらせてしまう。


 そこで彼は、この「言葉による火災」を鎮火するべく賀織に話を振るのだが――


「……A、やで」

「えっ――えぇえぇえぇええッ!?」

「じゃ、じゃあ学校行くわ俺達ィィイィッ!」


 ――飛び出してきた「言葉」は、消火剤ではなく特大の燃料であった。俯き、頬を染め、恥ずかしげに呟く賀織の姿は、火に注がれる油と化す。


 そして驚愕のあまり、自転車から転倒する警察官。その隙を突くように、龍太は賀織の手を引いてその場を走り去ったのだった。これ以上、ここに居ては胃が持たないと、本能が叫んでいたのだから。


 ……そんな、救芽井樋稟が転校する前と何も変わらない、穏やかな町。そんな松霧町の日曜日は、今日も平常運転であった。


 しかし景色は同じであっても、龍太はこの町並みを、それまでと同一の感覚で見ることは出来なくなっていた。この町が、以前よりも平和である理由。それを知ってしまった今では。


「りゅ、龍太……どしたん? ぼんやりして」

「ん……いや、別に」


 普段通りの道を行き、知り尽くした町並みを眺め、飽きる程に歩き慣れた角を曲がる。その一つ一つが、あの男に守られた世界なのだ。


 瀧上凱樹。今は亡き、この町の英雄。

 彼が死刑判決を言い渡され、迅速に刑が執行されたという知らせが届いてから、もう一週間は経っていた。

 賀織や樋稟は事前にある程度覚悟を決めていたためか、それ程ショックを引きずることはなかったが――彼と少なからず繋がりを感じていた龍太は、彼の死をより重く受け止めていた。

 彼がそうだったように、今度は自分がこの町を守ろうとしている。ということは、次は自分がああなるのではないだろうか? 龍太がそう考えざるを得ないのは、「怪物」同士である以上、他人事として見ることはできない、とする意識があるため。つまり、同類に成り兼ねないという危惧を感じているのである。


 果たして、自分は本当に道を踏み外さずに済むだろうか? 取り返しのつかない間違いは、侵さないのだろうか?

 そんな不安が尽きない彼は、目に映る世界だけでも晴れやかにしたい一心で、空を見上げる。


「――まーた、そんな元気のない目ぇしよる。シャキッとせんかい、男やろ!」

「あだっ……!」


 その度に、賀織は彼の背中を思い切り叩くのだ。弱気なところを見せまいとしても、彼女には全てお見通しなのである。

 何度隠そうとしても、付き合いの長さが災いしているのか、彼女にはまるで通じない。龍太自身が何に悩んでいるのかさえ、見透かしているかのように。

 もしかしたらタンスの裏に隠した、エロゲーのソフトもバレているのではないか。そう本人が勘繰ってしまうほど、彼女は常に龍太を見ているのだ。


 呆れるほどのお節介。そう言えなくもない彼女の行動ではあるものの、それが「救い」になっているのは本人が何よりも理解していた。

 悩んでいたら、ちょっと強引なくらいに背中を押してくれる。間違いなら、間違いと断じてくれる。身勝手な正義を行わせない「意志」を、彼女は――彼を愛する彼女達は、確かに持っているのだ。

 全ては、龍太自身を「ヒーロー」として完成させるために。


「ほら、早う行かんと先生にまた課題増やされるでっ! アタシら部室で待っとるけん、あんたもさっさと補習済まして、早う来ぃよ!」

「――お、おうっ!」


 やがて学校が視界に入ると、賀織は龍太の前に出て、小さな身体を一回転させて満面の笑みを浮かべる。これから先を楽しみに待つ、無邪気な子供のように。

 この笑顔に、ウジウジと悩む自分が圧倒されていく感覚を、龍太はいつも覚えさせられていた。同時に「勇気付けられている」、という後押しの気持ちも。


「さて……じゃ、行くか」


 大袈裟に手を振りながら、一足先に部室棟へ向かう賀織に手を振り、龍太は戦場となる教室を目指す。そこで「補習」という名の大敵と、今日も相対することになるのだ。


 新学期早々に設立された、「着鎧甲冑部」の仲間達。彼らに会う瞬間を、僅かでも早めるために。

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