四 気配

 おけの水に浸しておいた砥石を取り出した。

 刃を当てる角度に注意して、ゆっくりと動かす。指先に伝わるかすかな振動。砥いでいるのは昨夜、かまどから出てきた小さな短刀だ。

 すでに一度は、砥ぎあげてあった。いま一度砥石に当てているのは、かまどの炭でわずかにくすんでしまったからだ。

 仕上げたばかりだった衛兵の副長、谷口の刀はそのままだったが、作業場も荒らされていた。試作していた砥ぎかけの短刀は、すべて持ち去られている。

 穂香は連れ去られる前になにかを察して、玄馬の砥ぎあげた短刀をかまどの炭のなかに隠した。黒尽くめの連中はこの短刀を見つけられず、代わりに穂香をさらったのかもしれない。

 どこへ連れ去られたのか。手がかりはなにもない。

 おそらく本当の狙いは玄馬と、この砥ぎあげた小さな短刀。ならば穂香は生かされているだろう。穂香を利用し、玄馬になにか仕掛けてくるはずだ。

 いまは、待つしかない。

 語りかける。守るべきものは、なにか。立ち合いによる自分の身の危険などは考えない。本当に命を落とすようなことは、いつでも予想の外側にあるものだ。

 若いころから、語り合う友は持たなかった。砥石が、唯一の相手だ。刀とも語るが、玄馬の汗も涙も、すべてを知っているのは砥石だけだった。

 穂香の父、倉岡とは友だった。しかし、語り合うというのではない、別のなにかで繋がっていた。剣の腕で競い合っていた。だから友だ、というのともまた違う。

 知らぬ間に友誼ゆうぎを深めていたように思う。多くを語らずとも、黙って酒を飲める相手というのはいるものだと、倉岡と知り合ってからはじめて知った。

 谷口が様子を見にきた。いつもと変わらず砥石に向かう玄馬を見て、驚いたような声をあげる。

「兵藤先生。いいのですか、このままで」

「この老いぼれに、どうしろというんだね」

「なにか手がかりがないか、近所に訊いて歩くとか」

 安閑あんかんとしていられるわけはない。谷口はそう決めて来たのだろう。玄馬の様子がいつもと同じなので、動揺しているのだ。

「ならば訊こう、谷口殿。あの黒尽くめの連中が誰の使いか、見当はついたのか?」

「いえ、それはまだ。それに、あの連中が穂香さんを連れ去ったとはまだ言いきれません」

「それを調べるのがお前さんたち衛兵の仕事だ、違うか。自分の仕事をしろ、谷口殿」

 自分のことなど放っておけばいいのだ。衛兵副長とはいえ谷口はまだ若い。裏で絵図を描いている者がわかったところで、衛兵の立場ではすぐに手は出せまい、と玄馬は思った。

 谷口の話によれば、祥太は右もものあたりを切られているらしい。聞いていた通り浅傷で、しばらく歩くのに不自由するだけだろう。今日も薬店のほうに出ているらしい。

 谷口を追い返してからも、玄馬はしばらく砥石に向かっていた。

 田所。やはり、その線しかない。

 料理屋に呼び出し、表向きは専属の砥師として働くことを求めていた。領主であれば息のかかった手練れを動かすことくらい造作もないだろう。

 ひとつわからないのは、なぜこの短刀のことを知り、そして狙っているか、ということだ。

 玄馬は白髪を一本抜き、刃を上向きに固定した短刀に向けて落とした。ふわりと落ちた毛が、刃に触れる。白髪はその重さだけで、ふたつに切れた。

 いずれにしても、田所以外に穂香をさらう理由と、実行に移す力があるとは思えない。

 谷口は領主の下で働く衛兵であるため、確たるものがなければ領主とは面と向かって対立できないはずだ。領主が穂香をさらった、と伝えたところで、証拠がなければ下手なことはできない。

 やはり、待つしかない。肚の底の冷たい炎を抑えながら、待つしかないのだ。

 玄馬は、掛台かけだいからひと振りの刀を手に取った。鞘を払う。深い川のように、澄んでいながら鈍い光を放つ刀身には、一点の曇りも、刃こぼれもなかった。


 夕刻。玄馬は通りを歩いた。並ぶ民家に、灯が入りはじめている。夕餉(ゆうげ)の用意をする煙や、煮炊きするにおいが流れてくる。

 馴染みの小さな飲み屋で、夕餉にした。

 穂香が用意をするので、外で食うことは珍しかった。店主とは久しく会っていなかったが、汁碗に盛られている浅蜊あさりの量は、もてなしの気持ちなのだろう。小さく切った柑橘かんきつが添えられていたため、蓋を取ったとき、いかにも秋らしいにおいがした。

 出汁が利いた味噌汁。静かに音を立ててすする。味は変わっていない。

 煮つけのたいに箸をつける。細切りの生姜と木の芽が、ふんわりと盛られている。

 柔らかく煮こまれた牛蒡ごぼうと大根。別で下茹でをして加えたにしては、鯛の身にも牛蒡の風味がよく染みていた。

 勘定を済ませ、外に出る。

 気立てのよい店の主人が裏口から外まで出てきて、頭頂部の薄くなった頭をさげ、玄馬を見送った。

 主人が最後に庖丁を砥ぎに持ってきて、どれくらいになるだろうか。

 しわの多い表情は七十手前の風貌だが、背筋は伸びており、足取りもしっかりしている。まだまだ、庖丁は遣えるだろう。

 店をあとにする。見送る主人の声が、闇に浮かぶ灯りのなかに消えるように遠ざかっていった。

 夕餉の前から感じていた気配が、また背後に現れた。振り返って姿が見えるような近さではない。ただ、気配が躰にまとわりつくようだった。尾行をあえてこちらに伝えているような、露骨なものだ。

 どうするつもりなのか。通りの灯りを頼りに、しばらく歩いてみる。夜闇。町の繁華な通りではあるが、もう人はほとんど歩いていない。

 このまま進めば民家が途切れ、片側が林の通りに行きあたる。出方を見るしかない。

 斬撃は、いきなりきた。玄馬はとっさに横に跳んでそれをかわしていた。酒は飲んでいない。立ち合いなど砥師になって一度もしていないが、どうにか躰は言うことを聞くようだ。

 予想通り、林の前の暗がりだった。黒尽くめの連中。六人いる。玄馬は腰に佩いた刀に、無意識に手をやっていた。

「従えば、娘に手荒な真似はせん」

 布で覆われた顔から、こもった声が聞こえた。この前は八人いた。ここにいない二人が、穂香を捕らえているのか。

「用件を聞こうか」

 自分でも意外なほどに冷静だった。

 虫の声ひとつない。あたりの闇は、一層深まっている。

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