五 剣閃
縄を打たれ、玄馬は領主の前へ引き出された。冷たくなった中庭の地面に強引に座らされる。領主に呼び出された料理屋で、部屋の前に控えていた男二人が、玄馬の両側に立っている。それぞれ、真剣を手にしている。やはり隙はない。黒尽くめの連中は、姿を消していた。
「短刀はどこにあるんだ、兵藤さん」
田所葉舟。屋敷の縁に姿を現すなり、言った。灯りに半分照らされた表情には、酷薄な色が滲み出している。
「穂香は、無事なのか」
「あの倉岡の娘らしいな。なかなかの器量じゃないか」
「さらったことを、隠す気もないんだな」
「いいことを教えてやろう、兵藤さん。あんたは今日、生きるか死ぬか、ここで選ぶことができる」
「馬鹿げている。私のことはいい。まず穂香を返すんだ」
「短刀はどこだ」
「ここにはない」
「やれ」
田所が顎をしゃくると、玄馬の右にいた男の蹴りが飛んできた。脇腹に食いこむ。口から
「短刀はどこだ」
「あれを手に入れて、どうする気だ。領主の役に立つとは思えん」
田所がまた、顎をしゃくる。右の男が、蹴りを飛ばす。受けるために躰をひねった瞬間、左に立っていた男の蹴りが、反対側の脇腹に食いこんだ。
横向きに、地に倒れこむ。しばらく、息ができなかった。
「私は本気だよ、兵藤さん。わざわざ姿をさらしたのは、それを伝えるためだ」
背に蹴りがきた。瞬間、息が止まり、視界が暗くなる。
縄を打たれたときに取りあげられた玄馬の刀は、田所の手にあった。鞘から途中まで抜いて、刀身に見入っている。しばらくして、また鞘に収めた。
「短刀を、なぜ兵藤さんが身を削るようにしてまで砥ぎあげたのかは知らんが、私にはあれが必要だ」
「なぜ、だ」
「西側の医術」
田所が、にやりと笑った。背に、冷やりとしたものが走ったような気がした。
確かにあの短刀は、倉岡を
長らく、この国は薬専術による
しかし、切り取らなければ治療できない病というものも多くあるという。指先の代わりになるほどに小さく、なおかつ切れ味の優れた刃物がなければ、たとえば腹を切り開いて病のもとを上手く切り取ったところで、血が流れ過ぎて死んでしまうのだ。
「短刀だけあっても、病を切り取ることはできんよ」
「兵藤さんが砥ぎあげた、優れた短刀を欲しがっている者が、大勢いるとしたら?」
「結局は、金か」
「砥ぐだけ砥いで、なんになる。道具は、使わなければ意味がない。そこから利を得るのは、悪いことではあるまい?」
田所の代になって、領内の経営が上手くいっていないという噂は耳にしていた。自分の威厳を保つためなら平気で大金を使うような男だ。
欲しがっている者が大勢いる、と田所は言った。短刀を売るとすれば、この月桜国の医術師ではないだろう。より高値で売れる
「だが、再三にわたる私の誘いにも、兵藤さんは応じなかった。従っていれば、甘い蜜を吸えたものを」
領主専属の砥師となること。その後の田所の真の狙いは、そこにあったのだ。
「もう一度訊こう。短刀はどこだ、兵藤さん」
玄馬は答えなかった。守るべきものは、なにか。砥石に語り続けてきた。
たとえ命を落としても、それを手放すつもりはない。はじめから田所の真の狙いを知っていたところで、決して売りはしなかっただろう。それは田所もわかっていたはずだ。だからこそ、短刀のことは口にせず、専属の砥師として引き入れ、囲いこもうとした。
倒れたままの躰に、次々と蹴りが飛んでくる。口のなかに、血の味が広がった。ここで、終わるのか。意識が遠のいていく。
先生。呼ぶ声がする。穂香ではない、若い男の声だ。先生。誰だ。
眼を開いた。編みこまれた縄のようなものが、視界にあった。網。その向こうに、男の顔が見えた。芝山平司。弟子入りを志願して玄馬のところに通ってきていた、若者だった。
絡まり合っている網から、助け出された。玄馬を蹴り続けていた男は、二人とも網のなかで横たわっている。平司がやったのか。
漁に使う投網だった。平司によって網が投げこまれたのだ。平司の肌の色は、やはり潮灼けによるものだった、ということだ。
「おのれっ」
田所が
「穂香さんは無事です、先ほど衛兵に保護されました。先生は、これを」
平司が、玄馬の刀を手渡してきた。
「お前」
「私は左腕をやられています。剣の腕もたいしたことはありません。逃げられるのであれば、先生は隙を衝いて逃げてください」
平司が言い終わらないうちに、黒尽くめの影が飛びかかってきた。頭頂から叩き割るかのような、凄まじい斬りこみ。玄馬は地を横に転がってすれすれのところでそれをかわした。片膝立ちで
ほとんど手応えもなく、一人を斬り倒した。下腹から肩にかけて大きく斬ったようだ。
急所を守っていたとはいえ、あれほど蹴られていながら、玄馬は躰の傷みをほとんど感じなかった。気持ちが
続けざまに、二人斬りこんできた。後ろに跳んでかわす。直後、左から別の斬撃がきた。太刀で払うようにして受け流し、身を返してそのまま相手の懐に潜りこむ。すっ、と腹に刃先が入る。背まで達したあたりで、
平司も、離れた位置で二人を相手にしている。眼の端でそれを捉え、玄馬は肩の高さに太刀を構えた。ふっと懐かしいような気分が、こみあげてくる。一度、大きく肩で息をした。
一瞬だけ、まるで静かな時が流れているようだった。剣先と視線が、重なる。剣とひとつになったような感覚。次の瞬間、玄馬はその姿勢のまま、ぐい、と踏みこんだ。中段に構えていた相手が、慌てたように太刀を振りあげる。違う。剣とひとつになって踏みこむことで、振りあげさせたのだ。静と動。相手が振りおろすより前に、刀を返して玄馬が斬った。玄馬が地を踏みこんだ音が、どん、と鳴った。ほとんど同時に、太刀を振りあげたままの相手の両腕と胸から上が、吹き飛ぶように躰から離れた。
続けて白い光が舞う。闇のなかで、刀ではない別のものが暴れまわっているようだった。覆いかぶさってきた左の影を逆袈裟に斬りあげ、そのままの太刀筋で後ろに近づいていた影も斬った。同時に斬撃がくる。玄馬は後ろに倒れるようにしてそれをかわし、転がりながら太刀を振った。二人の影の、膝から下を斬り飛ばす。
視界の端に、片膝をつく平司の姿が見えた。一人と向き合い、刀は構えている。平司の背後に飛びかかる影に、落ちていた小太刀を投げた。敵の首のあたりに、小太刀が突き立った。平司は無事だ。
一線を超えている。玄馬は自分で、それがわかった。躰の限界を超えて、死の淵に足をかけている。いや、一歩踏みこんでいるのか。そうなると、躰の疲れや傷みなど感じなくなる。不思議なくらい冷静で、自分の動きを冷めた眼で見つめているような感覚になるのだ。
玄馬の背後では、剣が打ち合う音が響いている。平司は、持ちこたえられるのか。
乱戦だった。途中から、何人斬ったのかもわからなくなった。二十人は超えているだろうか。
平司もきわどいところでかわしながら、斬り結んでいる。たいした腕ではないと言っていたが、これだけの人数を相手に立っていられるだけでも、相当な技倆(ぎりょう)だった。
逃げ腰になった最後の影を、玄馬が斬り捨てる。影は、刀を構えたまま棒のように倒れた。
血が臭っていた。かなりの広さの庭に、ほんの少し前まで人であった、黒いものが折り重なるようにして倒れている。
領主は腰でも抜かしているのか、肩を怒らせながら、近くの柱を抱くようにして縁に座りこんでいる。
また、闇に白い刃が舞った。
料理屋で田所のそばに控えていた男娼らしき挙措の男。両手に逆手で小太刀を構え、領主を護るように歩み出た。酒の席で、若い娘のような仕草で酒を注いでいた男と同じ人間とは思えない。切れ長で、ぞっとするような光を宿した眼をしている。おまけに、いままでどこにいたのかさえわからなかった。
かん高い声をあげて、男が躰を
玄馬は、待った。かなりできる。そして動きが速い。下手に動いて懐に踏みこまれたら、ひとたまりもないだろう。
間合いの一歩手前で、ふた振りの小太刀は止まった。にらみ合い、機を読む。男の肩が、上下する。
男が間合いに踏みこむほうが、一瞬速かった。
突風に煽られた
細身の男の躰は飛び、動かなくなった。急所を打ったのだ。
軽い身のこなしと手数で勝負する二刀流の小太刀の技。骨まで断つほどの威力はなかった。左の二の腕を斬られたが、たいした傷ではない。
縁に腰を落としたままの田所を見据える。
血の臭いを払うかのように、冷たい風が抜けていった。
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