第39話 心の柔らかい場所

 マンションから出るとすぐに遥の足が止まった。何かに怯え晶の陰に隠れる。晶の服をつかんだ手は微かに震えていた。

「どうしたんだ?」

 遥が見ていた先に視線を移すと若い青年が立っていてこちらを見ていた。その顔にはどこか見覚えがある。

「もしかして、はるちゃん?」

 遥がビクッとして、ぎゅっと服をつかみ直した。晶も記憶の片隅にあった顔と一致する。

「てめぇ…。」

 それは直樹に頼んで調べてもらった中の顔写真。いたずらした近所のお兄ちゃんかもしれない中の一人だった。

「探してたんだ。はるちゃんのこと。話がしたくて。」

 遥の呼吸が荒くなりそうな気配を感じて、晶は青年を睨んだまま遥の背中に手をまわす。

「大丈夫だ。俺がいる。」

 穏やかな低い声。遥はぎゅっと服をつかみ直してコクンと頷いた。

「ゴメン…。ゴメンね。あんなに怖がるとは思ってなかったんだ。あの時は…その…。」

 当時のことを話そうとする青年に遥は首を振りながら晶から離れる。

「どうしたんだ。ハル…。」

 つかもうとした手をすり抜けて遥は逃げるように駆け出した。

「おい!ハル!」

 追いかけようとする晶に青年が続きを吐き出した。

「あの時は何もなかったんだ!何も…できなかった。」

「は?」

 想像していたのとはかけ離れた内容に追いかけようとしていた足を止めて言葉を失う。

「…じゃどうしてハルはあぁなっちまってんだよ!」

 こいつのせいじゃなかったら、なんだっていうんだ。

「好きだったんだ!だからそういうことをしようとはした。そしたらそうなる前に、はるちゃんの呼吸がおかしくなって…それで体にブツブツもできて…。」

「何もしてないわけないだろ!」

「無理矢理だったかもしれないけど…抱きしめて首にキスしただけだよ!」

 こいつ…!

 クソッ!こんな奴のことよりハルを探さないと。

 踵を返して立ち去ろうとする晶に青年がまだ口を開く。

「僕、結婚するんです。だからその前にはるちゃんに会って謝りたかったんだ。ごめんって伝えてください。」

 頭を下げると青年は晶とは反対の方へ歩いて行った。


 晶は必死に探していた。遥のかけていった方へ走る。寒空の下、額に汗がにじんだ。

 男性恐怖症のくせに見知らぬ男に話しかけられでもしたらどうするんだ。…いや。違う。あいつの男性恐怖症はもう随分いいんだ。仕事ができるほどに。違うだろ。俺だ。俺が必要なんだ。あいつのこと。

 晶はスマホを落としそうになりながら直樹に電話をかける。

「ハルが消えた。トラウマの元凶の男に会っちまった。そいつのことは今度話す。当時、そいつに手を出されそうになって過呼吸が出た。未遂らしいが。」

「消えたってお前…。」

「男に気を取られて…クソッ。必ず探し出す。奥さんにも何か心当たりがないか聞いてくれ。」

 やみくもに走っていた足を止める。考えろ。あいつがどこに行くか…。

 晶は思い出していた。直樹からもらった資料。少しの間だけ遥の家の近くに住んでいたさっきの男。確か、遥が小学生で男は中学生の時だった。

 未遂だった事実に安堵すると共に、自分の軽薄な行動を猛省する。

 俺は自分の気持ちを抑えられずに、あんな若造の、しかもそいつの中学の頃と同じ失態を犯したのか…。同じ…。

 昨日のことを思い出す。首すじに触れた唇。そして…。

 あいつと同じなんかじゃない。ハルは…俺に…。

 握りしめたままだったスマホの振動に思考を停止させる。かかってきた電話番号は知らないものだった。嫌な予感がして急いで出る。

「…はい。」

「ごめんなさい。勝手に電話番号を聞いて。でもどうしても気になって。」

 電話をしてきたのは陽菜だった。知っている相手にホッとする晶に陽菜は話し出す。

「遥ちゃんが晶くんの前からいなくなったのって…。」


 晶は公園に来ていた。遥がおばあちゃんと住んでいた家の近くの公園。入り口で電話をかける。

「悪い。見つかった。奥さんにも伝えてくれ。」

「見つかったのか。良かった。…でも大丈夫なのか?アキ。」

「あぁ。大丈夫だ。」

 もう間違えたりしない。大切なものは分かってる。

「そっか。その声なら大丈夫そうだな。」

 長い付き合いはこれだからな。フッと笑みをこぼすと公園の中に入った。


 公園のすみにある展望台。下からかろうじて見える小さな頭があった。それに向かって声をかける。

「ハル。そんなとこにいて見つかったら逃げられないの分かってるのか?」

 小さな頭しか見えない下からでは遥の表情はうかがえない。

「今から行くから心しとけよ。」

 一段、また一段と展望台の階段を上る。それはまるで今まで積み重ねてきた晶と遥の信頼関係のようだった。少しずつ積み重ねて、今から遥の心の一番柔らかい場所に足を踏み入れることになるのかもしれない。


 展望台に上がると小さな頭は隅に小さくうずくまっていた。それを目にとらえると愛おしくて今すぐにでも抱きしめたかった。それを遥の声が制止する。

「来ないで。お願い。来ないで…。」

「…ハル。」

「私は…汚い。」

 遥は自分の体にまわしている腕をぎゅっと握りしめた。

「そんなことない。」

「だってお兄ちゃんにそういう目で見られて…触られた。」

 晶の頭に陽菜の言葉がこだまする。

 遥ちゃんがいなくなったのは何かされた事実よりも今はそのことを晶くんに知られるのが怖かったんじゃないかしら。

 晶は首を振って一歩近づく。

「そんなことで、ハルは穢れたりしない。」

 そのことを知って幻滅するような想いなら、とっくにどうにかなってる。そうじゃないんだ。

「でも…私はそういうこと…できない。大人にはなれない。」

 また首を振って一歩近づく。

「俺も同じようなもんだ。自分がガキだってハルといると思い知る。」

「でも…。アキはちゃんと生活できてる。仕事だってちゃんとして。」

「ハルだって仕事始めただろ?」

 また一歩近づく。小さい展望台。もう遥は目の前だ。

「私には…居場所がない。どこにも。」

 弱々しく言った遥の体に腕をまわす。

「俺の居場所はハル…お前だ。もうどこにも行くなって言っただろ?」

 やっと捕まえた。何度離さないと誓ったことか。もう本当に離したくないんだ。だから…。

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