女嫌いと男性恐怖症

嵩戸はゆ

第1話 極度の男性恐怖症

 ドサッ。

 高崎 晶。32歳。人生32年を生きてきて自分の前に人が倒れたのは初めてだ。

「大丈夫?」

 隣にいた直樹が倒れた人に声をかける。澤田 直樹。同じく32歳。

 こういうことは人当たりのいい直樹に任せておけばいい。

 そう思った時に、倒れた人が晶の腕をつかんだ。つかまれた晶の元にむせ返るような甘い匂いがふわっとする。

 うわ…こいつ女だ。

 晶が眉間にしわを寄せると、つかんだ女らしき人が唸るように声を発した。

「男の人…イヤ…。」

 そう言いながら晶にすがりつく。ボロボロな身なりに汚らしい体で男女の区別もつかないその人は、なおも晶にすがりついた。まるで男の直樹に怯えて女の晶へ逃げるように。

「お嬢ちゃん。アキにしがみつかない方がいいぜ。」

 直樹が忠告しても、どうにも怯えてしまって話にならない。しびれを切らして晶が口を開いた。

「おい。女。俺にしがみつくな。」

 晶はつかまれた腕を振りほどこうとするが離さない。

「助けて…。男の人は嫌なの。」

 それだけ言うと晶の腕をつかんだまま意識を失ってしまった。


 二人は直樹の家のリビングにいた。南向きのリビングには穏やかな光が差し込んで心地よかった。穏やかな光はグラスの氷を溶かしていく。カランッと軽い音が響いた。

 男の人が嫌だと言うよく分からない女であろう人を、勝手に救急車を呼んで乗せていいのか分からなかった。きっと救急隊員は男だからだ。

 そこで直樹の奥さんの陽菜を呼んで調べてもらうと、確かに女の人でたぶん疲労で倒れたんだろうということで家に連れて来たのだ。

 家に着くと「とりあえず何か食べて…。」とゼリー飲料を渡していた。その後にお風呂で汚れた体を綺麗にするらしい。その辺は陽菜に任せておけば大丈夫そうだ。

「それにしても傑作だったな。あれたぶんアキのこと女だと思ってたぜ。」

 直樹が愉快なことを見つけた顔をする。反対に晶は嫌そうな顔だ。コップに注がれたジャスミンティーを飲み干して乱暴にテーブルに置いた。

「女なんかに間違えられてたまるか。」

 サラサラと流れる髪をかきあげた下にある瞳には不満そうな色を浮かべている。

「本当に傑作だぜ。女嫌いな晶が女に抱きつかれて、それが女と間違われたからなんてな。」

 ハハッと直樹は乾いた笑いをたてた。

「抱きつかれてない。しがみついてきただけだ。」

 他人事だと思いやがって。非難する視線を送っても直樹は気に止める様子もなく笑っている。

 直樹は人好きのする親しみやすい優しい顔立ちをしていた。背はそこそこ高く175センチだ。

 晶は女に間違われても仕方ないくらいに綺麗な整った顔立ちをしていた。ただ女と間違えるには背が183センチと高く、そして声は低音だった。いつか「うっとりする声ですね。」と女に言われて嫌な思い出まであるほどだ。

 うんざりした顔をした晶は思い出したように口を開いた。

「あいつ甘い匂いしなかったか?」

 つかまれた時は直樹も近くにいたからきっとあの匂いに気づいたはずだ。

「は?全然。どっちかって言ったらレディに失礼だがクサイ方だろ?」

 レディとはよく言えたもんだぜ。見た目はまったく女にさえ見えないなりだった。でも…。

「まぁアキの女嫌いは相当だからな。どんな格好でも分かっちまうのかね。そうならすごい能力だな。」

 そういうことなのだろうか。女特有の香水の嫌な匂いとも、化粧の匂いとも違う…もっと…なんていうか甘い…。

「ほら。あの二人があなたのことを助けてくれたのよ。直樹に晶くん。」

 どうやらお風呂は終わったらしい。倒れた人は陽菜に連れられてリビングへ来た。小綺麗になった倒れた人は陽菜の服を借りているようだ。その服が大きい。150センチあるかないかの小柄な体型で、顔も童顔。髪はショート。見た目はまるで小学生だった。

 なんであんなちんちくりんの奴から、あんな甘い匂いが…。

 疑問に思いつつ観察すると、そのちんちくりんと目が合った。

「あきら…くん?」

 ちんちくりんが疑問系で名を呼ぶと直樹がククッと笑った。

「アキは正真正銘の男だよ。なんなら脱がせようか?」

 直樹が面白がって晶の肩に手をかけると、晶はそれを嫌そうに振り払った。

 二人の様子を怯えた目で見るちんちくりんに気づいた直樹が近づいてニコッとした。ちんちくりんは後退りする。

「怖がることないさ。中学生くらい?」

 いや…盛っただろ。どう見ても小学生だ。そう呆れていると、ハァーッハッーハーと激しい息遣いが聞こえる。

「ちょっと!大丈夫?今、袋を持ってくるから。」

 陽菜が慌てたように背中をさすってキッチンへ向かう。

「大丈夫か?」

 直樹が背中に手を出そうとした時に陽菜の声が飛ぶ。

「直樹は晶くんの隣に戻って!いいから早く!」

 直樹は意味が分からないまま、陽菜の剣幕に圧倒されて晶の隣に戻る。

 陽菜は紙袋をちんちくりんの口に添えると背中をさすった。

「ほら。息を吐いて。ゆっくりよ。そうゆっくり呼吸して…。」

 はぁ。はぁ。と少しずつ呼吸が整っていく。しばらくして紙袋をどかした顔は真っ赤で涙目のボロボロだった。

「私もあまり信じてなくて、ごめんなさいね。」

「いえ…こちらこそご迷惑を…。」

 それだけなんとか絞り出して苦しそうに呼吸をする背中を撫でつつ陽菜は事情を説明し始めた。

「この子…遥ちゃんって言うんだけど、遥ちゃん男性恐怖症らしいの。」

「男性恐怖症!」

 思わず出た直樹の声に遥はビクッとなる。しまった。と直樹は口を押さえて肩をすくめた。

「そう男性恐怖症だそうなの。で、ひどい時は近づかれただけで過呼吸になったり、蕁麻疹が出てしまうそうで。」

 蕁麻疹までは出てないようだ。触れていたらまずかったかもしれない。

「それで…倒れた時も男の人はイヤとか言ってたんだな。」

 晶が納得した様子でつぶやくと、直樹が晶と遥を交互に見比べた。

「なぁ。遥ちゃん。アキのことは大丈夫なのか?」

 直樹の話すのを怯えながら聞いて、ボソボソっとうつむいて何かを話した。何も聞き取れなかったそれを陽菜がもう一度聞き返してくれた。ボソボソっと陽菜に耳打ちする。

「あら。そうなの…。」

 驚いた様子の陽菜は「二人にそう伝えるわね。」と遥に確認してから二人に向かって口を開く。

「今も男の人に見えないって。晶くんのこと。」

 ハハハッと直樹はテーブルに手をついて笑っている。

「は?何を言ってんだ。俺の声を聞いてもか?」

 いつもよりももっと低めに声を出した。それなのに陽菜の陰に隠れつつ、うんうんとうなずく。確かに直樹が話した時と晶が話した時とでは違う。晶が話しても怯えた目では見ていない。

 しかしこれだけ身長があるのに女なんて片腹痛い。晶は不機嫌そうな顔をすると、そっぽを向いてムスッと頬づえをついた。

 アハハハハッとまだ笑っていた直樹が晶に「試しに近づいてみたら。」と言うので、仕方なく立ち上がる。近づけばさすがに分かるだろうと思ったのだ。

 一歩、また一歩と近づいて、とうとう目の前まで来た。チビの遥を長身な晶が見下ろす。陽菜が警戒しつつも遥と晶から離れた。それでも大丈夫そうだった。

「マジかよ…。」

 晶を見上げた遥の瞳はどこまでも澄んでいて、汚れを知らない小学生のようだった。小学生でも女は女。しかし遥は女とは思えない、どちらかといえば小学生の男の子に思えた。

 あの甘ったるい匂いは気のせいだったのか。そう思っていると後ろで声がした。

「なら晶のとこに少しの間、住んだらいい。」

 直樹の声を背中で受け止めた。遥は直樹の声に怯えて晶の服をそっとつまんで陰に隠れる。

「な、何を勝手に言ってんだ。」

 晶は遥がつかんだ服ごと振り払って振り向くと直樹に意見した。こんなに近くで低い声を出しても晶の声には遥は平気なようだった。振り払われた手だけをショックな様子で見つめるだけだ。

「ちょっと。ちょっと。直樹も待って。それに晶くんもそんなに近くにいて大丈夫なのね?」

 陽菜の質問に遥はコクンとうなずき、晶も「あぁ」と返事をした。

「遥ちゃん23歳よ。」

 ゲッと思って下を見ると澄んだ瞳と目が合った。

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