火人元天北介元工火、木十工人工 ~片目を閉じて~

 十二月二十七日。


「解けた」


 満足そうに息をついた女性が、暗号の紙を顔の前に掲げてまじまじと見つめる。

 彼女の名は、十河そごう沙甜さてん。長い黒髪のクールビューティー。

 だが最近は、表情が豊かになってきた。


 あるいは俺が、彼女の心の機微きびを余すことなく感じ取っているのかも。

 そんな自惚うぬぼれを抱きたいところではあるが、これだけニコニコとされたら誰だって彼女の機嫌を察することができるだろう。


 駅前から通学路沿い、雑貨店が点々と並ぶ一角。

 すでに年内閉店となったおしゃれなアクセサリーショップがある。


 ちょっと高床になったお店の緑の扉。そこに上る、緑の手すりの階段は、すれ違うにも気を使うほど狭くて小さなものだった。


 そんな階段に座りこんで、俺達は冬の一日を満喫している。


 まだ、右腕のしびれには慣れ切っていない。これからは、これが当たり前という体作りをしていかなければ。

 まだ、行き交う人の目にも慣れ切っていない。これからは、これが当たり前という心作りをしていかなければ。


「片目を閉じるとは、字を半分にすることだったのだな。ソノテヲヒイテコソ、オトコノコ。ふふっ、昨日のことか。あれには感激したぞ。ありがとう、七色そらはし

「いやいや、昨日だけじゃないさ。これからもずっとだって」

「無理をしないでくれ。まだ身体の調子は戻らないのだろう?」

「大丈夫。十河と会ったら痛いのふっとんだ」


 俺の軽口に、心なしか右腕のびりびりが強くなった気がした。

 怒ったのかな。


 褒め過ぎても怒るし、褒めなければもっと怒る。

 これは世の男性が等しく抱える悩みなのだろうが、相手が十河だとちょっと意味が変わってくる。

 だって命にかかわるんだもん。


 とは言え今回は杞憂きゆうだった。

 下から俺を覗き込む彼女の表情には、照れ臭さが溢れ出ている。


「たしか、片目を閉じて欲しいのだったな。こうか?」

「うおっ!? ……なんだそれ」

「なんだとはなんだ。ウインクだ。……礼のつもりだったのだが、変だったか」

「バカ言ってるんじゃないよ。それ、地球一可愛いぞ」

「そ……、それは褒め過ぎだ、ばか者」


 しょんぼりしてからの照れくさそうな顔。ほんとに今日は、表情が豊か。

 そして、右腕の電力がさらに高まった。


 いや、高まったというかいたたたたたたた! 黒髪が右腕を飲み込んでるし! 

 ……って、これ。

 俺の肩にもたれかかっていますよね?


 嬉しい気持ち九十九パーセントに対して、今すぐ殴りつけて涙目でバカじぇねえのと怒鳴りたい気持ち一パーセント。

 俺の天秤が、せめて穏やかに距離を取ろうという幻の第三の腕に傾いた。


 年末の午後、駅近くの雑貨街を、せわしなく人が通り過ぎて行く。

 つつがなく、という安堵の表情をコートで隠し、俺達の前を北へ南へ。

 そのうち半数くらいの人が俺達に目線を向けるのだが、誰が信じることなどできようか。俺が必死にこの状況から逃げる手立てを練っているということを。


「ああ! 思い付いた!」

「なんだ急に」

「…………間違えた。忘れてたよ、消えた?」

「そうだったな。年内いっぱいすべての研究機関に休みを言い渡してしまったのだ。消えていなければもう一問作ってもらうことに……、こっちを向くなよ」


 十河がそう言いながらピンクの花柄スカートに手をかけたので、俺は慌ててその手を掴んだ。


「ばっ、バカ! こんなところで捲るな!」

「お前こそばかだ、こっちを向くなと言ったろうに。この世でただ一人、七色百太郎ももたろうという人物にさえ気を付けていれば覗くやつなどおらんから平気だ」

「平気なわけあるか! 他の誰かに見られるのは嫌だ!」

「え? お前が嫌なのか?」

「あ、ちが……。そ、そうだよ……」


 俺はコートを脱いで、十河の膝にかけた。

 長T一枚だが、寒いのくらい我慢できる。

 それより、今しがたの言い間違いの方が問題だ。


 他の誰かに見られるのは嫌だ。たった二文字噛んだだけで、主人公が十河から俺になる。

 これじゃ、誰がどう聞いても俺のやきもちだ。


「……そんなに、人に見られるのはいやか?」


 だから、嬉しそうな声で俺を覗き込むな。勘違いです。


「なにしてんのさ。寒いんだから、早く確認してくれよ」

「あ、はいはい。……そうか。あたしを独り占めにしたいのか」

「うるさいよ。口じゃなくて手を動かしなさいよ」

「あたしは通りがかりの者に下着を見られるくらい構わんのだが、お前が嫌というなら仕方ないな。気を付けねばな」


 十河は、見たことが無いほどつややかな嫌味顔で、Tシャツ一枚の俺を一瞥いちべつした。

 そして必要以上にのんびりと膝のコートを持ち上げて、中を覗き込みながらごそごそとやり始める。


「ねえ、ほんとに寒いんだよ。まだ?」

「あたしは今、大変気分がいい。もう少しこの心境を味わっていたい」


 ご機嫌がリズムを刻む。彼女の首が左右に小気味よく揺れる。

 片手でコートを摘み上げながら、片手でスカートを捲りあげながら。

 うーん、絶妙。見えそうで見えない。だがそれもまたよし。


 俺は目線に気付かれないよう、顔だけは正面に向けて、ちらりちらりと十河の様子を確認していた。

 だが、彼女が大きくコートを捲った時に目に入った真っ白な太もも。

 そんなものを見せられたら、勢いよく顔ごと覗き込んでも仕方あるまい。


 だから邪魔するなって、見えないよ。

 俺の視線を怒り顔で塞ぐんじゃないって。

 

「見るなと言ったはずだが」

「見えないよ。………………………………………………見てないよ」

「今のは惜しかったな。残念賞として、片目だけなら開けてていいぞ」

「マジで!?」


 俺は、詐欺には気を付けた方がいいな。

 相当だらしのないことになっている顔を十河に向けると、


「そう、その位置が一番力を入れやすい」


 ちょうどいい位置とばかりに、彼女の白い手が俺の顔面を鷲掴みにした。


「爪と電気ぎゃあああああ!」

「どうした。あたしのアイアンクローで塞がれているのは片目だけだろう? もう一方で見ればよい。……うん。レトリビューション・チェーンは消えているな。ほらどうした。今なら見放題だぞ?」


 十河。お前の敗因は、高校生男子に対する認識の甘さだ。

 俺達は例外無く全員、竹を割ったように清々しくパンツが見たい!


 苦痛がなんだ! 電撃がなんだ!

 おのが思春期力すべてをかけて、俺は目を見開いた。


「もう隠してあるじゃん! うそつががががががががが!」

がたいなお前。まあ、騙したことへのびだ。解放してやろう」


 電撃は離れたが、まだこめかみが痛い。

 触ってみたら、爪のあとで凹んでる。痛いわけだよ。


「これはあたしのだからな。似たようなのと間違えないように、目印だ」

「こんな目印、一晩寝たら消えちまうだろ」

「そうだな。毎日目印を付けないとな」


 やっていることも口調も酷いのに、笑顔は優しくて楽しそうなんだよね。

 今も自分のコートの上に、俺のを羽織って足をパタつかせてるし。


「コート返してよ」

「お前のコート、温かいなあ」

「知ってる。俺もそっくりなやつ持ってるから」


 まるで、二人でテレビを見ながら雑談しているようだった。

 道行く人達がこちらを見ても気にもならない。

 この階段から先、いや、俺達二人の空間以外はすべて別の世界のよう。

 彼女の笑顔を見ているうち、俺は視野がどんどんせばまっていくのを感じた。


 ……そんな世界に、珍客が現れた。

 十河の視線の先には、真ん丸に着ぶくれた小学校一年生くらいの女の子がいた。


 愛情を理解できないと言うのが口癖の彼女だが、俺にはそんな風に思えない。

 小さな子に対するその笑顔が証拠だよ。


 だが、その笑顔が驚きの色を浮かべた。

 両手を少し広げてぽてぽて歩いていた女の子が、べちゃっと転んでしまったのだ。

 すると十河は俺のコートを羽織ったまま慌てて階段を下り、降り切ったところで、べちゃっと転んだ。


「……付き合いのいいことで」


 また器用なことに、女の子の顔面すれすれで十河の顔が停止している。

 危うくこの子に十河のファーストキスを取られてしまうところだった。


「えへへ。お姉ちゃんもころんだ~」

「ふふっ。お揃いだな、少女」


 地べたに寝ころんだまま十河と一緒になって笑う女の子を俺が起こすと、十河は地面に膝を突いて彼女の服に付いた埃をはたいてあげていた。

 王の慈愛ではなく、優しい、母のような笑顔が眩しい。


 そしてその笑顔がさらに満面へ広がる。

 少女が、十河の服をポンポンとはたき始めたのだ。


 俺達は鈍色にびいろの寒空の下で、温かくなるほど楽しく笑った。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「では、またな、少女」

「ばいばーい」


 季節外れのもみじが元気に振れる。

 十河は彼女の姿が見えなくなるまで、ずっとその場から動くことは無かった。

 俺もクリスマスイブの事を思い出しながら、十河と一緒に彼女を見送った。


「じゃあ、俺達も帰ろうか。寒いし。コートくらい着て来ればよかったよ」

「あたしは寒くないので、もう少し遊んで帰るぞ」


 十河は、俺のによく似たコートに袖を通して長い黒髪を両手で掻き出した。

 帰る気も返す気も無いのね。


「昨日校庭で約束したではないか。イチゴ屋さんへ付き合ってもらう」

「下着屋に男が入れる訳ないだろ」


 ……バカだな、この男。しかも今更口を押えたら、ごまかすことも出来んだろう。


「…………そうか、べちゃっとやっちまったときか」


 俺は、スカートの裾を引っ張る十河に両手を合わせた。


「大丈夫! すぐに目を閉じたから!」

「片目だけなんだけどねてへっとか言ったら、開いていた方の目をえぐり取る」

「正解ですので、こちらの景品、「慧眼けいがんを称えるポーズ」でお楽しみください」

「……だんだん、貴様のすっぽんを見ても許してやる気が湧かなくなってきた」


 頭上からは冷たいため息。冬の地べたとの板挟みは身も心も凍る思い。


「あたしは下着の上に何か付けるのは好きじゃないのだ。だから貴様が気を付けろ」

「ああ、今後一切見ないからスパッツなんか履かないでくれ。そんなことされたらイチゴが拝めなくなる。……あれ? なんかおかしく無いか?」


 寒さのせいだ。頭が回ってない。

 言い訳すればするほど十河がどんどん怖くなる。


「絶対に見ない方法があるぞ。常に目をつぶっておけ。今から」

「そんな無茶な。いくら女王だからってなんでも通ると思ったら大間違いだ。俺はなんでもはいはい言う男じゃ」

「閉じろ。目」

「はい」

「では、イチゴ屋さんへ行くぞ」

「いだだだだだだだ!」


 目を閉じたまま、電気ショックを食らいながら、大声で叫びながら、俺は手を引かれて歩き出す。

 十河、君はやはり大物だ。俺だったら、こんな男と歩きたくないね。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 花丸。

 やっと開いて良しと言われた目に飛び込んできた文字だ。


「イチゴ屋じゃないぞ、喫茶店じゃねえか」


 まあ、そもそもイチゴだけ売ってる店ってなんだよという話ではあるが。


「喫茶店とはちょっと違う。スイーツの専門店だ」

「どっちにしろイチゴ屋じゃないだろ」

「つべこべ言うな。入るぞ」


 目を閉じていたとはいえ、そこは地元の土地勘。この辺りはオフィスが立ち並ぶ小さな商業区画だ。

 駅前なのに、用が無いので普段は足を運ばないエリア。

 だから、こんな店があったなんて知らなかった。


 店先にはたくさんの花が植えられて、アンティークを連想させる木目調の外観が高級感をかもし出す。

 十河が戸を開いてドアベルをカランと鳴らすと、店内から優しい感じの声が迎えてくれた。


 ……と同時に、刺すような視線も飛んで来た。


 どこに行っても、まず十河に視線が集まる。それが地球という星ではスタンダードだと思っていた。

 だが例外があったようだ。なにも視線というものは、好意だけとは限らない。


「なあ十河。やっぱりここ、女性用下着売り場にいる気持ち。俺、大変場違い」

「まあ、男性客は珍しいだろうからな」


 珍しい。ならば、せいぜい好奇の目が向けられるはず。

 でも俺が感じている感情、明らかに拒絶なんだけど。


「安心しろ。男性がまったく来ないわけでは無いから、じきに誰も気にしなくなる」

「そうかな……」


 店内一番奥、窓際の席へ案内されて、ウェイトレスさんにぎこちなく会釈をしながら椅子に腰かける。

 ベンチシートで良かったよ。これがただの椅子だったら、足を引きずる音さえ気にして座ることなどできなかったろう。


 そんな俺の様子を見て、十河がくすくすと笑みを零す。

 情けないところを見せてしまうことになったが、機嫌が良さそうなのでひとまず安心した。

 でも、何かきっかけが無いとこの緊張は解けそうにない。


「是非とも、お前をこの店に連れてきたかったのだ」

「そ、そうなんだ」


 是非とも、か。何があるんだろう。

 店内は華やかだけど、月並みではある。店員さんも、知り合いという訳ではない。

 ということは食べ物か、あるいは飲み物か。

 俺はテーブルに立てられた写真付きのメニューを取って十河に向けて開くと、思わず大声を上げてしまいそうになったので口を手で塞いだ。


「……十河! 高い!」


 店内では禁句だ。俺が気にしながら声を潜めると、彼女はニヤリと口端を上げて、


「だが、美味いのだ」


 そう言って、メニューのページを一つ捲った。


「お前がそこまで言うならそうなんだろうけど、ちょっとこれは……」

「そう言うと思っていた。私もこんな贅沢は月に一度だけと決めている。でも、ここのチゴを食べたら病みつきになるぞ」


 ……へ?


「今まで口にしてきたものが何だったのか。そんなカルチャーショックを受けるほどの味わいで……、なんだその顔。チゴは嫌いか?」

「いや、大好物だよ。注文も任せちゃっていいか?」

「ああ、もちろんだとも」


 さっきまでの緊張がすっかり解けた。

 こんなクールビューティーがなまると可愛いなあ。


「へへへ」

「なんだ、急に。楽しい事でもあったのか?」

「いやいや、ネットで論争してたのを読んだことあったんだけど、実際に聞くと可愛いなあと思って。アクセント」

「……チゴのアクセント?」

「そう、それ。訛りって可愛いなあ」

「ばかを言うな。訛ってなどいない。では普通はどう発音するというのだ」

「イゴって言うよ、皆」

「はあ? それこそ変だ」

「変じゃない」

「変だ。あたしの方が普通だ」


 これじゃネットの論争そのものだ。


「よし、それなら店員さんのイントネーションで勝負だ」

「ああ、いいだろう。正々堂々受けて立つ」


 十河が手を上げると、髪を内巻きにした優しい笑顔のお姉さんが、エプロンから伝票を取り出しながら近づいてきた。

 ちょっと好みのタイプ。異存はない。

 俺は十河に目配せをして、二人同時に頷き合う。よし。……デュエル!


「この、チゴのコンポートを二つ頼む」


 きたねぇ! それのどこが正々堂々だよ!


 伝票にオーダーを書き込む店員さんを、十河は勝ち誇ったようないやらしい笑みで見上げた。

 俺はすがるような表情を自覚しながら、お姉さんの糸目を見つめる。


「確認させていただきます。イのコンポートおふたつですね。ご注文は以上でよろしいでしょうか。…………あの、お客様?」

「ああ、注文は、今のですべてだ」

「気にしないでいいから。俺達の不満顔はお姉さんのせいじゃないから」

「はあ……。では、少々お待ちください」


 怪訝けげんそうに店員さんが離れていくと、俺達は表情も変えずに向き合った。

 十河の柳眉りゅうびが、普段より五ミリぐらい下がっている。俺もきっと似たようなジト目で彼女を見つめているのだろう。


「ま、イントネーションの違いなんてどこにでもあるし。さっきまでむきになっていたのがバカみたいだ」

「同意するとしよう。こんな物に正解も間違いも無い。いくらでも似たようなことがある。例えば、匂いという単語を食べ物に使ったりな」

「……え? なんかおかしいか?」


 俺はコップを口に運ぼうとしていた手を止めて、クールな無表情といういつもの仮面を着けた十河を見つめた。


「おかしくは無い。私が勝手に、匂いと言う言葉は不快なものについて使う言葉だと思っているだけだ。一般的には私の価値観の方がずれていることだろう」


 ちょっと、彼女のテンションが下がっている。

 今日は一日ご機嫌だったから、酷く寂しい気持ちにさせてしまった気がする。


 価値観か。こればっかりは多少の差があるだろう。

 でも、俺達の感覚は近いと思う。十河がイチゴのコンポートをセレクトした時にそう感じていた。


 写真の情報が正しければ、イチゴの量はほかの商品より少し劣る程度なのに金額は半分くらい。

 コスパも最高だが、なによりこの金額ならよその喫茶店で食べるケーキと比べて驚くほどの差が無いというところがポイントだ。


 わざわざ足を運ぶくらい大好きな、この店のイチゴ。

 本当なら沢山食べたいところだろうに、庶民的な感覚も持ち合わせているんだな。


「十河の価値観、一般的だと思うけど。いくつも会社を抱えてるほどなのに、大した金銭感覚だと思う」


 人類が到達していない謎を解明し続けているということは、その発見の数々で莫大な収入を得ているということでもあるはずだ。

 でなければ、あんなお屋敷に住めるはずは無いし、何人もの住人を養っていけるはずもない。


「贅沢をしないよう心がけているからな。それに儲けのほとんどが開発費用になっているので、それなりカツカツなのだ」

「俺がいれば研究費用も抑えることできるんじゃないか? 贅沢すればいい」

「そうはいかん。その考えは良くない」


 十河は首を大きく横に振りながら、ため息をついた。

 長い黒髪が彼女の後からようやく追いついて、力無く肩にかかる。


「これは一つの真理なのだ。いいか、金は使えば使うだけ、まだ足りないと考えるようになるものだ。あたしたちの脳が、種として生き抜くために危険や苦労を嫌い、快楽に溺れやすくできているせいだ」


 十河は、まるで授業中の教師のように語り始めた。

 だが、この先生は生徒の目を見ようともせず、テーブルに組んでゆっくりとしたリズムを刻む指だけを見つめている。


「だから一生、足りないなと感じ続けることになる。愛情も、時間も、触れ合いも、そして金も。特に金銭については、一度贅沢をすると歯止めが利かなくなりやすい。たまのご褒美も必要とは言え、贅沢は常に敵なのだ」

「そんなもんかなあ」

「なぜ理解してくれないのだ……」


 俺は重たい話題を気楽に考えて欲しかったのだが、この対応は失敗だったようだ。

 でも、なんでそこまで落ち込むのさ。


 テーブルに置いていた手が、音もなく彼女の両脇に滑り落ちる。

 いよいよ彼女は意気消沈していった。


「この話をすると、あたしは出生の不幸に思いを致すことになるのだが……。お前たち人間は、理性が芽生えるよう作られているのだ。だから、贅沢に歯止めが利く。だが本能に従うようそそのかす、あるいは金品を無償で与えるのが、我々悪魔なのだ」

「無償で与える? えっと、本物のお前らを見てると忘れがちだけどさ、フィクションの悪魔って、そういうのと引き換えに命を要求したりしない?」

「違う。我々はもともと、不遇だったり悩んでいたり、苦労している人間に手を貸してしまう者の集まりなのだ」

「そうだよね。悪魔ってみんな親切だもんね。ここに暮らしてる皆はちゃんと分かってるよ、お前らが良い奴ってこと」

「……そうではない。お前は何も分かっていない」


 十河は、まるで別人のような……、いや、天使のように冷たい目を俺に向けて、


「我々は悪。だから、天使から悪魔に堕ちたのだ。天使の仕事を何だと思っている」

「なんなのさ」

「神が人間に与えた、計画された苦痛を監視するのが使命だ。手を貸してどうする」

「意味が分からん。苦しめてどうするのさ」

「苦しみを一つずつ乗り越えさせ、進化を促す。そして最終的には、人類が発祥した本当の目的へと到達させる」

「スケールでかっ!」


 俺が思わずのけぞると、コンポートを運んで来たお姉さんを驚かせてしまった。

 ごめんねさっきから。


 慌ててお辞儀をしたけど、お姉さんの不信感は拭えなかったようだ。

 これほどカチャカチャと音を立てながらお皿を置くなんてことないよねきっと。

 そんなお皿を見て、俺は思わずつばを飲み込んだ。


 シロップでつややかに薄化粧されたコンポートは、メニューの写真よりずいぶんたっぷりとパイ生地に乗り、お皿に零れそうなほどその身を寄せ合っていた。


 たまらずスプーンを手にしようとしたが、あわてて膝に戻す。

 ここは彼女が先だろう。

 俺は、寂しそうに目を伏せる十河を見て、それなり長めのおあずけを覚悟しながら話しを続けた。


「例えば天災で人間が苦しんでいても、それを監視して手を貸さないのが天使?」

「そうだ」

「それが善?」

「この世にある事象で唯一の善行だ」

「そんな人間を助けちゃったから悪魔?」

「堕天という言葉がよく使われるな」

「それが悪?」

「そうだが? ……なんだ、その不服そうな顔は」

「だったら俺は、悪魔の味方になる」

「人間に、そう考えさせるのが我々の所業しょぎょうだとなぜ気付かない」


 クリスマスイブの時も言っていたな。悪魔は皆、あの子たちに嫌われる存在でなければならないって。

 ……こんなに子供が好きなのに、そうしなければならないなんて。

 彼女にとっては、神の意志が絶対的な正義なんだ。


「ここまで七色と価値観が異なるとは……」

「でも、金銭感覚は近いと思うよ」

「……ほんとか?」

「ああ、コンポート、イチゴがたっぷりだ」


 俺が笑いかけると、十河の表情が柔らかいものになった。

 そして軽く息をつきながらスプーンを手にしたので、俺も自分の分の皿を手元に寄せた。


「正直、他の商品だとちょっと金額的に辛いものがあったから助かった」

「いくらここのイチゴが好きと言っても、他の品を頼む時にはあたしとて勇気が必要なのだ。……そうか、金銭感覚は近いのか」

「ははっ。でも、たまには他のも行っちゃうんだね」

「嬉しいことがあった時などはな……。次はちょっと頑張って高いものにチャレンジしよう。お薦めが二つほどある」

「よし。バイトの時間を増やして準備しとく」

「安心しろ。手持ちが無かったら、あたしが出すから」


 あ……。姫様、それを言いますか。


「それ、言ったらダメだから、覚えといてね?」

「急にどうした。……まさか怒ったのか? す、すまん七色、なにが気に障ったのか教えてくれ。手持ちが無いかもなどと言ったことか? 金を出されると嫌なのか?」

「そうじゃないよ。手持ちが無いことを馬鹿にされるのは男として当然だし、お金を出してくれたら感謝こそすれ怒るなんてこと無いよ。もし無かったら出すって言わないでくれたら、それでいいんだけど」


 本当なら、そんなシチュエーションになった時は一緒に我慢しようと言って欲しいのが男心なんだ。

 それでも我慢したく無いものについては、黙ってお金を出してくれると有難い。


 「無ければ出す」


 これを女子から予め言われたら、じゃあ一人でどうぞとしか言えなくなる。

 でも情けないことに、俺は十河と一緒にいたいんだ。

 だから絶対に言われたくない。

 しかもこんな情けないこと説明も出来ん。


「………………なにが違うのかまるで分からん。頼むから教えてくれ、あたしは七色を傷つけてそのままになどしたくない」

「別に傷ついてなんかないよ? 俺の価値感の問題だから気にしないで」

「また価値観か。……どれだけお互いを想っていても、当たり前に隔たりというものは存在するのだな。こんなに謝りたいのに、それも許してもらえぬとは……」

「まいったな。ほんとに謝ることじゃないってのに」


 俺の声が耳に入っていないようだ。

 十河は俯いたままスプーンを手に取って、イチゴを口に運ぶ。

 それを見て、俺も一つ、小ぶりな粒を口に放り込んだ。


 ……なんだ、これ?


 十河が力なくスプーンを皿に戻すと、冷たい棘のような音がした。

 そのうち鼻をすする音が断続的に耳に届いて、それを割るように、涙交じりの言葉が聞こえてきた。


「今日は、今まで感じたことの無いほど甘いイチゴを味わえると思って期待していたのだが。……これでは、スーパーの安売り物と変わらん」


 俺は、思わず声を荒げた。


「ちょ、ちょっと待て十河!」


 なんで泣いているのか、なんでスプーンを置いてしまっているのか、彼女の真意がまるで分からん。

 分からんが、これだけは伝えないと。


 俺は自分の皿からイチゴを一つスプーンで掬って、


「バカ言ってるんじゃないよ! これ、宇宙一うめえぞ?」


 十河の口に放り込んだ。


「な、絶品だろ? なんだこれ? 今まで俺が食べて来たの、なんだったんだ!?」


 あれ? こいつ、おかしくない?

 俺のスプーン咥えたまま、鳩が豆鉄砲食らったような顔してるんだけど。


「何なんだよお前? 味覚無いの? 宇宙一美味いイチゴだぞ!?」

「ぷっ……、あははははははは!」


 スプーンを引き抜いたら、これが栓をしていたのではないかと思うほど、急に大声を上げて笑い出した。

 お腹を抱えてうずくまってるけど、十河がこんな笑い方するの初めて見たよ。

 あまりの美味さにおかしくなったんだな、分かるぜ。

 俺もこれを口にした時から、頭のネジがいくつも抜け落ちてる。

 

「はあ……、懐かしい。あたしがこれと出会った時に、自虐じぎゃくしたことを思い出した。これを表するのに宇宙一などと子供じみた言葉しか思いつかなかったのでな」

「宇宙一でしょうが」

「ふふっ。……このイチゴについては、あたしたちは同じ価値観、なのだな」

「何をぶつぶつ言ってるんだ。いいからもっと食え。ほら、あーん」

「ばか者。あたしも同じものを食べているだろうって……、あ、む。……ん」


 はっ。そう言えばそうだった。


「あまりの美味さに動転した。これ以上はやらんぞ、全部俺のだ。でも、スーパーのイチゴと変わらないとか言ってなかった?」

「いいか、七色。いつもはこの上を行くんだ。いさかいと一緒に味わったら半減するというものだろう。これだったら、一人で来た方がよかった」

「一人で来るとか言うな! また連れてきてくれ。こんなとこ一人じゃ入れん」

「う、うん。……二人で、来ようね。……ん? ちょっ、待て」


 十河に咥えさせたスプーン。

 それで、今度は一番大きなイチゴを半分に割った。

 一口で食べるなどもったいない。


「そ、七色……、あ……」

「あーんじゃないだろ。欲しいのは分かるけど、自分の分を食べなさいよ。見たことないほど顔を真っ赤にして怒るとかどんなだ」


 美味すぎて十河に食べてほしい。美味すぎて誰にもあげたくない。さっきから脳がイチゴのことしか考えていない。

 俺がスプーンを咥えると、十河の顔が煙でも出るんじゃないかと思う程、真っ赤になっていた。

 涙目で、ぷるぷる震えながら俺の口元を見ているんだが、


「怒っても知らん。自分の食え。うわあ、あまあ……」


 俺、果物の酸味が苦手なのに、甘さと香りでそれさえ引き立てられている。

 十河がわざわざ連れて来たのも頷ける。


「こんなところに連れてきてくれてありがとうな。また連れてきてくれ」


 色よい返事を期待して顔を上げると、十河はなぜかモジモジしながら上目遣いで俺を見ていた。

 それが残念そうな、楽しそうな、複雑な表情でため息をつくと、


「なら、その時は楽しい話題だけ提供してもらおうか」

「もちろん、たくさん楽しませるから。存分にお姫様扱いするから」

「殿下だばか者」


 あ、やべえ。ここで地雷踏むか、俺。

 今までの芝居が水の泡だ。

 一瞬で王の仮面を被った十河の機嫌、早く何とかしないと……。


「違う! そういう意味じゃなくて! えっと、だな」

「ふふふ。冗談だ」

「冗談? ……そ、そういう心臓に悪いやつはやめてくれ……」


 十河は楽しそうに、少し嫌味顔で笑いながらイチゴを頬張った。

 やれやれ、良かった。

 俺は冷や汗を拭いながらイチゴを一口食べて、


「なんだろ、王の威厳に怯えながら食べたら、甘くなくなった」

「あはは! いい気味だ!」


 最後のは、もちろん嘘だ。

 ころころと笑う可憐な花を前に口にしたイチゴは、幸せの香りを鼻腔びくう一杯に弾けさせていた。



 続く。

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