圭〇膿〇汞〇𨫢 丸には煤? ~今日はどれだ~

 十二月二十六日。

 今日は月曜日。

 とは言え、月曜日ならではの憂鬱はクラスから感じない。それはなぜか?

 なぜなら今日が二学期の終業式だから。……と、ありきたりな答えを準備するような俺ではない。


 いや、終業式は間違いないのだ。だから憂鬱とは無縁な日であることについては揺るぎない。

 ただ、全員が体験したことの無い驚きに自我を見失いかけているので、憂鬱なんて曖昧な感情は吹き飛んでいることだろう、というのがこの謎に対する模範解答だ。


 すでに通知表を配るためにスタンバっている美嘉ちゃん先生を除き、瞬きもせず、身じろぎ一つしないで全員が凝視している異変がここにある。


「済まない……、本当になんと詫びをしたらいいやら。この通りだ」

「もういいから頭を上げてくれよ。クラスの皆が、初めて自分宛にメールが来たときのネアンデルタール人みたいな顔で驚いてる」


 教室の、一番後ろの席よりさらに後方。

 常に気高く気品に満ち溢れている黒髪ロングのクールビューティー、十河そごう沙甜さてんが、俺に対して頭を下げ続けているのだ。


「そ、七色そらはし。……お前はいったい、ななな、何をしたんだ!」

「脅迫は犯罪なんだぞ? 警察にはついて行ってやるから、自首しような」

「あんた、早く謝りなさい! これは国際問題よ? 人類なんか一瞬で消滅よ!?」

「お前、姫の事嫌いだからって、薬を使うとか非人道的な……」


 一人が口を開くと、俺への非難はクラス中で爆発した。

 机をたたき続ける者、床に膝を突いて嘆く者、泣き出す奴まで現れた。

 あのさ、わかるだろ? 謝ってるのは十河。謝られてるのが俺。


「……君らの中で、俺と十河の価値の差な」


 いや、築き上げてきた信頼の差なんだろうけど、それにしたってひどいよ。

 十河が俺に謝ってる光景なんて今まで何度も……、あ、そうか。

 考えられないほど濃密な時間を過ごしたからすっかり忘れてたけど、十河と仲良くなってから、まだ四日しか経ってないんだな。

 つまりこいつらが知っている俺は、十河を遠ざけていた頃の俺というわけだ。


 その十河は、こんな喧騒けんそうを意にも介さずさらに深く頭を下げる。


「今朝はタクシーで登校したと聞く。恥ずかしい真似をさせた」

「全身筋肉痛になったのは俺の運動不足が原因だから、気にしないでよ。それより、今の状況の方が恥ずかしい」

「ああ。こんなところで力尽きてすっぽんとはな。頭を下げていても謝っている気になれず難儀なんぎしていた。おい、一之瀬。七色を起こしてやってくれ」


 俺は両脇に手を差し込まれて体を持ち上げられながら、ようやく顔を合わせることが出来た十河にもう一つお願いした。


「あとさ、皆からの殺意がそろそろ俺の致死量に達する。それも何とかして欲しい」

「ああ。任せておけ。……皆! 落ち着いて聞いて欲しい! 勘違いしている者がほとんどのようだが、彼はあたしに被害を受けたのだ! 非難しないでくれ!」


 自分の席へと引きずられながら、俺はほっと胸を撫で下ろした。

 こいつが説明したら、皆納得してくれるだろう。


「昨日、あたしの家で七色と二人きりになった時、こいつが過激な下着を渡してきたのだ。それで動転したあたしは彼に初めての激しい体験をさせてしまい、気付けば七色は気絶していた。だから悪いのはあたし。納得してもらえただろうか」

「見事にトリミングしたなあ。俺の死因の欄にはお前の名前書いとけ」


「「「「「「「「「納得できるかーーーーーー!!!!!」」」」」」」」


 一之瀬が俺の体を床に捨てると、全員からの過激なストンピングが降り注いだ。

 指一本動かせないほどの筋肉痛に見舞われているにもかかわらず、俺はその攻撃に対して無自覚のうちにすっぽんの体勢を取ることができた。

 人間の生存本能、侮りがたし。


 この暴動が収まるまで時間がかかったせいだろうか、通知表を残したまま美嘉ちゃん先生の姿は消えていて、黒板には「各自好きなのを持っていけ」と書かれていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 十河の言う通り、昨日の朝、俺は二人っきりの彼女の家でちょっぴり刺激的な体験をした。

 初めてだったから彼女を不安にさせてしまったかもしれないけど、それでも何とか上手に救急車に乗ることが出来た。


 十河が実験した逆心臓マッサージは、俺の心臓を停止させるに至らなかった。

 だが、白目を剥き、口角から泡を吹くという明らかに「ちょっとヤバい」という状態には達したようで、十河が慌てて救急車を呼んだのだ。


 彼女は病院まで付き添ってくれて、しきりに心配してくれた。

 検査の結果、命に別状は無いとのことですぐに病院から放り出された俺を自宅まで送り届けてもくれた。

 ただ、彼女の献身をないがしろにしたのは俺の運動不足。

 過剰なまでの筋肉収縮が原因で、命に別状あるほどの筋肉痛に襲われたのである。


「しっかし、いつの間に姫と仲良くなってたんだよ」

「ほんとに薬は使ってないんだな?」

「使ってねえ。成り行きだ」

「成り行きって言っても、自宅にまで行ったんだろ?」

「なんだ。じゃあ脅迫か」

「してねえ。いやほんと……、まあ、今度詳しく話すよ」

「じゃ、二十九日空けとけ。駅前に新しいショッピングビルが出来るってさ」

「かつ丼とブラインドを買う予定だ」

「そんなシチュエーションで話さなきゃならんのか。故郷の母親、爆笑するわ」


 ようやく誤解が解けると、暴動の参加者達は誤解による攻撃に謝罪もなく、楽しかったと満足しながら散って行き、教室のいたる所で雑談を始めた。

 そしてクラスで一番良く話す五代と六角の二人が通知表を席まで届けた駄賃にと、微動だに出来ない俺を左右からつついている。

 ホームルームの準備はすでに整っているが、だれもが片方の耳だけ教卓に向けながら思い思いに過ごしていた。

 そんな空気感を気にもせず、我らが三年C組の熱血直情クラス委員、一之瀬は、張りのある大声で話し始めた。


「議題はたった二つだから、とっとと終わらせるぞー。一つ目は、この後校庭でやるイベントについてだ」


 これは初耳の者がほとんどだったようで、どよめきが起こった。


「いいね、イベント!」

「何やるの、一之瀬」

「ああ、生徒会と先生主催による、ごみ焼き大会だ!」


 なんだそりゃ。

 予想通り、ブーイングの嵐。


「まあ待て! このごみ焼き、校庭のど真ん中で行うんだが、キャンプファイヤー的なレクリエーションになるそうだ! 参加は自由!」

「そこまで熱く語られてもなあ」

「でも、こんなイベント、もうないだろうし」

「あたしは行こうかな! 誰に言えばいいの?」

「てきとーに来て、てきとーに帰っていいそうだ。開始は十時半」

「一時間後か。じゃあ、どんな感じか見るだけ見るか」


 何となくわかる。三年生は、皆来るだろうな。

 さっき誰かが言ってたけど、ひょっとしたら高校生活最後のイベントになるかもしれないし。


「じゃあ、もう一つの議題。美嘉ちゃん先生からの勅命ちょくめい、そこのベニヤとペンキについてだ」


 何人かが教室の後ろ、清掃用具入れの横に積まれたものを見た。

 文化祭の為に準備したベニヤの余りと使いかけのペンキ缶。

 見ていると、あの大騒ぎしていた頃を思い出すことが出来るようで、だれもがなんとなく捨てることをためらっていた思い出の品だ。


 ……ほんと、懐かしい。

 あの頃は月と思っていた十河と、こんなにも親しくなれるなんて。

 まあ、俺がすっぽんというたとえは現実のものになったわけだが。


 そして、ペンキ缶。

 もしあれがここに残されていなかったら、俺の人生はまったく違うものになっていただろう。

 すべては、あれが始まりだった。


「……ペンキ缶、俺が一個貰ってもいい?」


 俺の発言に、なぜか拍手がわく。


「今ならペンキ缶が二つにベニヤもついてこのお値段だ」

「三十分以内にお電話すると思うけど、ペンキ一個でいい」


 クラス委員の押し売りに負けるものか。


「なんだよお得なのに。じゃあ、もう一個は俺が持ってくか。姫様。変なものを屋敷に入れますが、よろしいでしょうか?」

「姫ではない。殿下だばか者。……あたしの部屋の前に置いておけ」

「え? ですが……」

「いいから置いておけ」

「はい、かしこまりました」


 机に突っ伏した姿勢のまま目だけで十河の様子を窺うと、彼女と目が合った。

 自然と笑みが零れたが、真面目な姫様は咳払いのようなものをして無表情のまま教卓へ視線を移す。

 同じ気持ちでいてくれたのかな。だとしたら嬉しいな。


「じゃあ、ペンキはそういうことで。残りのベニヤはごみ焼きの燃料でいいな!」

「「「はーい」」」


 数人しか返事をしなかったが、だからと言ってあれを思い出の品に持って帰ると言い出す奴はいないだろう。


「それではこれから、ベニヤ輸送担当を決めるじゃんけん大会を行う!」

「「「えー!?」」」


 司会も客もプロだな。

 なんでこのクラスはこんなのばっかり集まったのさ。


「俺と二条は先生達のごみ運び係だから抜けるとして、俺に負けた奴が持ってくって感じでいくぞー」

「負けた人みんなで?」

「じゃあ、勝った奴は抜けてく感じで。最終的に負けた奴が五人以下になったらその時のメンバーな。姫がそこに入ってた場合は三木か四宮が引き受けます。お前ら絶対勝てよ」

「別に良い。皆で納得したルールで特別扱いなど不快だ。その場合はちゃんと作業させてもらう。というか、姫ではないぞばか者」


 こういうの、自慢じゃないが負ける自信がある。

 というか指が痛くて曲がらないんだ。グーっぽいパーしか出せん。


「じゃあいくぞ! じゃん、けん、ぽい!」


 一之瀬の掛け声に合わせて、かろうじて腕を上げることができた。

 やつの手の形は……、グーか。

 一抜けとは奇跡的。よかった、この状態で荷物運びなんかできるわけないからね。


 だが、俺が人心地を付きながら腕を下げようとした時、妙なことに気が付いた。

 視界内の皆が、チョキの手をしたまま無言で俺を見つめている。

 ……これって、まさか!?

 俺は痛む首を回してクラス全体を見渡した。

 みんなチョキ。

 こんな奇跡ある?


「「「「「「「おー!」」」」」」」


 そして割れんばかりの拍手。恥ずかしいからやめて。

 しばらく盛り上がったあと、一之瀬が手を上げて皆を静め、誰もが思っていることを代表して口にした。


「じゃ七色で」

「わかるわ。こればっかりは反論できねえ」


 皆は笑い声を残して、二学期最後の教室を後にした。


 ちきしょう一之瀬。この状態で運べとか、悪魔か。

 ああ、悪魔だった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


「十河、ありがと。あとで三木にはお礼しておくから」

「あたしに礼はいらんだろう。三木にだけ感謝してやるといい」

「うん。それと、四宮もありがとうなたたたたたたっ!」

「ちょっとは我慢しなさい。姫様の彼氏候補が情けない」


 皆が出て行った教室に残ったのは、俺と十河、そして彼女のサーバントである三木と四宮だけだった。

 そこで十河は三木にベニヤの運搬を命じ、四宮に俺のストレッチを命じてくれた。


「うん。結構動くようになってきた」

「次は肩ね。えっと……」


 四宮は、携帯でストレッチの方法を確認しながら体の至る所を伸ばしてくれた。

 座ったままでもいろんなバリエーションがあるものだ。


 彼女は、長めのポニーテールに切れ長の目。一般的にはクールビューティーと呼ばれてもおかしくないが、その椅子には十河が君臨しているので次点扱い。

 成績も優秀だけど一位と言う訳でなく、運動神経もあるけど部活に入っていないので有名な訳では無い。

 背が高くて胸も大きい。足も長くてかなりの美人。だが、どれも一番の席には他の誰かが座っている。

 彼女に付いた『多羅たら高校のスーパーサブ』という呼び名は一見失礼なようだが、本人は大層気に入っているそうだ。


「首の後ろに右手を当てて」

「こうか?」

「そう。それで……、あれ? ページが飛んだ……、あ、腕はそのままね」

「このままの意味はさすがにないよね」


 今やっているポーズ、昨日、十河がやっていたポーズみたいだ。

 ……セクシーだったな。

 俺は、すぐ隣で机に頬杖を突く十河に目を向けた。

 彼女は机にしなだれかかるような姿勢になって、俺を見つめている。


 その首に巻かれた二本のネックレス。


 俺の視線に気付いたのか、十河は姿勢を正すと、襟を直して隠してしまった。

 そしてこちらをちらっと見ては、慌てて目を逸らす。

 照れくさそうにする時の十河は、女の子百パーセント。ほんと可愛らしい。

 それにしても、女子って男の目線に敏感だよね。


 そんな呑気なことを考えながら十河を眺めていたのだが、急転直下、彼女は驚きの表情を浮かべて俺に噛み付かんばかりに身を乗り出した。


 え? 何?

 俺は、そう口にしようと思ったのだが出てきた音がちょっと違う。


「むぎゅふ?」


 四宮の右腕が俺の首の後ろを通って、セクシーポーズにしている肘の辺りを掴む。

 そして逆の手が俺の肩を前から掴んだ。

 多分、肘を背中の方に引っ張る体勢なのだろう。

 だがちょっと待て。これは……


 ……顔にスーパーサブ。


 嬉しいさそりゃ。高校生男子なめんな。でも、今は勘弁しろ。

 このまま鼻の下を伸ばしていたら、間違いなく十河がやきもちを焼く。


 弁解の為に目を十河へ向けようとしたら、四宮の制服の隙間からシルバーのネックレスと、その先にある白い肩紐に付いたピンクの花が見えた。

 なんたる追加オプション。いやいやそんなの見てる場合じゃない。名残惜しいが、もっと先に目を向けなければ。

 それに、女の子は男の視線に敏感。こんなの気付かれたら大変だ。


 俺は挟まれた首を強引に曲げて、やっとの思いで黒髪の女性を視界に捉えた。

 さあ、弁解しないと。俺が四宮の秘密をチラ見していたことに気付いて、どす黒いオーラを発生させている悪魔王に。


「死ぬ! 殺される! やめるんだ四宮むぎゅっ!?」

「こら七色、暴れるな。ちょっとは我慢しろ」

「ぷはっ! そ、そのストレッチ、背中に回ってやるものなんじゃないのか?」

「携帯サイトだとこうやってるわよ?」

「そ、十河! 俺の命一個しかないってこと理解してるよね? その目は止めて!」

「ふふふ、愉快そうだな。あたしはずいぶんと不快だが」


 いかん! 再びその桃源郷が顔に押し当てられたら、入園料として魂を抜かれる!

 そんな死にざまも男としてはロマンだが、相手は十河じゃなきゃ嫌だ!

 俺は必死に抵抗したが、所詮は運動神経ゼロの筋肉痛男。

 合気道の段位まで持つ運動神経抜群の四宮に敵うはずも無く、とうとう腕をロックされて身動きが取れなくなった。


「じゃあ、始めるぞ」

「待って……!」


 だがそこに、ガタガタと扉を開く音を伴って救世主が現れた。

 力仕事に駆り出されていた一之瀬が戻ってきたのだ。

 この寒いのにYシャツ一枚。いやそれどころか、胸元のボタンをいくつも開けてタオルで汗を拭いている。


「ごみ焼きの準備出来たぞ~! 全員校庭に集合! ふいー、疲れた!」

「お疲れ様、一之瀬」

「おお、四宮は七色にストレッチしてやってたのか。よし、代わってやろう」


 四宮の、甘い、脳髄をマヒさせるような香りが離れると、一之瀬の、汗くさい、嗅覚をマヒさせるような刺激臭が近付いてきて俺を抱きしめた。


「死ぬ! 殺される! やめるんだ一之瀬むぎゅっ!?」

「こら七色、暴れるな。ちょっとは我慢しろ」

「ぷはっ! そ、そのストレッチ、背中に回ってやるものなんじゃないのか?」

「携帯サイトだとこうやってるぞ?」

「そ、十河! 俺の命一個しかないってこと理解してるよね? こいつを止めて!」

「ふふふ、不快そうだな。あたしはずいぶんと愉快だが」


 おかしい。俺の記憶では、ついさっき同じ会話をしたはずだ。

 だがその時の俺は、幸せな死と、それを手放しての生、そんな板挟みに悩まされていたはずなのに。


 俺は、桃源郷での死という男のロマンにあらがった結果、死の桃源郷へと連れて行かれることになったのだ。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 キャンプファイヤーというよりは、巨大な焚火。まあ、ごみ焼きだから当然か。


 そんな炎を囲んで回り踊る二つのリングは、音楽の終わりと共に校庭に溶けて広がりその形を失っていった。

 俺と十河はおそらく誰よりも遠くへ離れ、だだっ広い校庭の隅に置かれたベンチに腰かけた。


「まさかオクラホマミキサーまでやるとは思わなかった」

「ああ、楽しいイベントだった。七色と踊れなかったのは寂しい限りだが」

「あたりまえ。十河を女子の列に入れたりしたら感電死体が邪魔で回転がとどこおる」


 しかし、俺達がフォークダンスに参加した瞬間は楽しかった。

 渋る十河を無理やり輪の中へ押し込んだ時、野太い雄叫びが一斉に上がった。

 そして彼女が男子の列に入ったことが知れると、それが黄色い歓声に取って代わったのだ。


「ダンスの輪に入った時の歓声、凄かったな。改めて十河の人気を知ったよ」

「今回たまたまだろう。皆のテンションが高かったからな」


 十河のパートナーになる女子は、やたらうっとりしたりキャーキャー言ったり。

 さすがは学園内で憧れぬ者無しと言われるほどの人気者。


 そんな彼女のダンスは美しかった。

 凛として一部の隙も無いくせに、軽やかで楽しさに満ちている。

 見ているだけの俺でさえ、その美しさにうっとりしたのだ。手を取られて踊るパートナーは皆、恍惚こうこつの表情を浮かべていた。


 で、次に俺の番を迎えた時の顔な。


「そしてお前のせいで、俺が不細工だということを改めて知ったよ」

「それも今回はたまたまだと思うぞ。来世はこんなこと無いから安心しろ」


 ゴミの燃え残りと灰を処理している者ばかりでなく、未だに校庭の中央には人だかりがある。

 ただの雑談。意味のない大騒ぎ。

 残っている生徒のほとんどは見覚えのある連中、つまり、三年生だった。


「はい、今日の暗号」

「何? お前、どこにそんな余裕があったというのだ?」

「あ……、うん。だから、ちょっと練り込みが足りないというか……」


 俺の言い訳を、十河は首を振って止める。

 その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「ありがたく受け取らせていただく。……では、早速楽しませてもらうとしよう」


 恭しく暗号を受け取った十河は、いつものように紙をにらみ始めた。

 暗号解読中の彼女の横顔は、いつもより少し必死さが浮かんでいた。



 圭〇膿〇汞〇𨫢 丸には煤? ~今日はどれだ~



「ほんとにごめん」

「もう謝るな。あたしのために作ってくれた暗号に、貴賤きせんなどあるものか」

「でも、今日の暗号は納得できてないんだ。もう少し時間があったらもっといい答えになったかもしれないのに……。がっかりさせるかもしれないし、恥ずかしい」

「がっかりなどしない。恥ずかしくもない。例え世界のすべてがこの暗号を否定してもあたしだけはお前の名誉のために戦ってやる。かかってこい!」

「改めてかっこいいな十河。惚れ直した。では玉砕して来い! 骨は拾ってやる!」

「玉砕? ばかを言うな。それなり拮抗きっこうしてるのではないか?」

「……わーお」


 世界の軍事力全部と十河、とんとん。

 衝撃の事実をしれっと話した彼女は、全世界と戦う前哨戦となるかもしれない、俺の暗号との戦いを再開した。


「うーん、以前のものとは違うのだな。音読みにしても意味を成す言葉にならん」

「そうだね。今日のは違う」

「やはり七色の暗号は素晴らしい。実に面白い。……そう言えば、まだ随分と校庭に残っている者がいるのだな」


 十河が校庭中央の人だかりを見つめて口角を上げる。


「これは、長いこと分からなかったのだが、今なら分かる。友情だ」

「そうだね。みんな、思い出が欲しいんだ」

「この暗号も、思い出になるかもな。読めた時に浮かぶ言葉で、あたしが感動することになるやもしれん」

「過剰期待は禁止ね」

「……そんなに自信が無いのか?」

「うん。強いて言うなら…………、答えが、甘い」


 俺の渋い顔を覗き込みながら、十河はさらに笑みを濃いものにした。


「だが、あたしのことを想いながら作ってくれた」

「まあ、そうだけどさ。そのせいで恥ずかしく……」

「言うな。それだけで十分嬉しい。恥ずかしくないぞ」


 そして一瞬だけ照れくさそうに目を泳がせた後、咳払いをひとつ挟んで、いつものクールな仮面を被りながら暗号へと向かい合った。


「今日はどれだ。……今日。終業式。二十六日」


 違うねえ。


「月曜日。月……、あるな」


 あら、一瞬で進んだよこの子。でもそこからが厄介なのだ。


「……土、月、水、金か。読めた。今日は、三文字目だ」

「うん。でも……」


 俺の話を聞きもせず、十河はスカートを捲って中を覗き込む。

 今日は隣に座ってるから下着を見てしまう心配は無いけど、その格好だけで鼻血が出そうだよ。


「どういうことだ? レトリビューション・チェーンが消えていないぞ?」

「そりゃそうだ。まだ半分しか解けてない」

「なに? ……七色は、あたしを悦ばせる天才だな。テクニシャンだ」


 こいつ、嬉々として暗号の紙を膝に乗せながら、他人が聞いたら勘違いしそうなことを大きな声で言い出しやがった。

 まあ、周りに人がいないから俺だけ興奮することになったわけなのだが……。

 録音しておけばよかった。


「これは……、おお! 曜日を抜くと士農工商になるのか」


 それは、おまけみたいなもので暗号とは関係ありません。

 十河は再び、俺が正面から覗きたくなるような行動をとって、


「どうだ!」

「まだだろ?」

「まだだった。そして、今気付いた」

「何を」

「「士」ではないぞ? 「土」ではないか。まさか、そこにヒントが……」

「無いです。そこが、この暗号は十河をがっかりさせるって言った理由なんだ」


 本当の暗号だったらミスリードを誘うよう工夫するものだが、解読させるための、楽しませるための暗号からは排除すべきポイントだ。


 それにしても、十河はそそっかしいやつだと改めて思う。

 誰もが彼女のことを冷静沈着と評価するし、俺もかつてはそう思っていた。

 でも、そんな印象は既に微塵も残っていない。


「ああ、これは……、なんたることだ。丸にはすすという言葉も残っていたな」

「見逃さないでよ」

「丸、煤。……丸は、これか? では、曜日ではないと……、いや」


 十河は唇で指を甘噛みするようにして、もごもごと考えを口にする。

 つややかで線の薄いその唇に、気付けば目を奪われていた。


「ん? ……おお! これは面白い、丸に入るのか」

「……え? あ、うん、そうそう」

「日と火と木を入れて一週間! ……しかし七色よ。日が、甘いになっている。余計なものが付いているのだが」

「だからさっき俺、答えが甘いって言ったと思うけど」


 駄洒落じゃないよ? だからそんな不服そうな顔はやめてくれ。

 そして不信感丸出しの姫は、再びエッチな格好をした。


「しかも、チェーンが外れてない」

「暗号だからね。つまりこの文章を、何と読む?」

「……今たどり着いた答えを、口に出したくないのだが」

「そこが、この暗号は恥ずかしいって言った理由だ」

「これからはあたしと過ごす日曜日を、甘曜日にしたい、と」

 

 十河はスカートを捲り、とうとう眉間に皺まで寄せた顔を俺に向けた。


「まさか正解とは。暗号は素晴らしいと思うが、この答えにはがっかりだ。お前、恥ずかしくないのか?」

「……うそつき」

「何が」

「最初に言ったのに、がっかりするって。恥ずかしいって。でも、十河はがっかりしないって、恥ずかしく無いって言った」

「こんなのがっかり恥ずかしいに決まっている。さすがに気持ち悪い」

「ちきしょう! 穴を! 誰か穴を持てい!」


 俺が顔を覆ってくねくねと悶えると、盛大なため息が隣から漏れた。


「まあ、お前には恥という概念が無いしな。平気で下着を見るし」

「平気じゃないよ! 半分は不可抗力だ!」


 残りの半分だって全然平気じゃない。めちゃめちゃ興奮しながら見る。

 でも、ここは知らぬ存ぜぬで通して名誉挽回だ。

 エッチなこと言わない。まじめにストイック。


「なら、さっきからあたしがレトリビューション・チェーンを確認するたび鼻の下を伸ばしていたのはなんだ?」

「見間違えじゃないのか? それはアゴだ。たまに伸びるんだ。鼻の下なんか伸ばしてない」


 十河は無言で俺をにらみながら、スカートを捲った。

 隣に座ってるから下着なんか見えるはずは無い。そんなので興奮するはず無い。

 俺はまじめでストイックなのだ。


「では問おう。……今伸びているのは?」

「……アゴの一部だ」

「ならば先ほどから減らず口を叩くここはアゴということになるな。あたしが閉じてやろう。痛い時はそう言え。すぐに手を離してやる」


 十河は力いっぱい唇……じゃない、アゴを指でつねった。

 だから、口は開くはずなのだ。

 だというのに、俺は頭蓋を覆いつくすほどの電撃を、叫び声一つ上げずにだまって受け続けることになった。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 さすがに限界。明日は、脳が筋肉痛になっていること請け合いだ。

 また四宮にストレッチを頼まないと。

 俺は、くらくらする頭でベンチに倒れ込んだまま、校庭を見つめていた。


 さすがに数は減り、そこに残っていたのは三十人ほど。

 だが、先ほどまでの喧騒けんそうはどこへやら、皆が別れを惜しんで泣いている。


 十河は俺への折檻せっかんのあとも隣に座り、同じ光景をぼんやりと眺めていた。

 彼女は、俺にいろんな感情を見せてくれる。それに、こうして傍にいてくれる。

 これは愛情なのだろうか。それとも、友情なのだろうか。


「……なあ、十河。お前が愛情を研究してるって話、詳しく聞いても平気?」

「別に構わん。そのついでと言っては何だが、先にあれを説明してはくれまいか」

「あれって……、皆が別れを惜しんで泣いてるってことをか?」

「ああ。またいつでも会えるというのに、なぜ泣く」


 さすがに驚いて、俺は身を起こしながら十河を見つめた。

 そこには大真面目な顔をした、氷の彫刻が虚空を見つめる姿があった。

 感覚の違い。感情の壁。

 絶望と不安のちょうど中間の感情が、彼女との数十センチの隙間に塗り込められていく。


「……ほんとに、愛情を把握しきってないんだな」

「みなまで言うな。恥ずかしながら、まだまだ研究中の身なのだ」


 研究。その表現が、愛情という言葉から暖かさを拭い去る。

 孤高の女王。彼女はやはり月なのか。

 冷たく輝き、俗世を知らず、ただ俺達を照らす存在。

 俺はその場に座っていながら、自分の心が離れていく様をただ傍観していた。


 ……だがその時、月が一滴の涙をこぼした。


 さっきのドタバタで、胸元から飛び出してしまったのだろう。

 セーラー服のスカーフの少し上。

 三日月の中に、青い小さな涙が零れ落ちていた。


「十河。……泣かないでいいよ」

「涙は流していないが……、そうなのか。あたしは今、泣いていたのか」

「うん。自分だけが愛情を理解できていないって、一人ぼっちで泣いてた」


 彼女は何も言わなかった。ただ、無表情のままに俺を見つめた。

 そうだよね。救って欲しいんだよね。


「安心しろ、十河。俺が愛情ってやつを全部教えてやる。お前は一人じゃないから。例え世界のすべてにお前がうとまれたしても、俺が守ってやるから」


 俺の熱は、彼女の氷を溶かすことが出来るだろうか。

 俺の手は、彼女の涙をすくうことが出来るだろうか。


 俺の目を無表情のまま見つめる彼女、その涙を、痛みに痺れながら摘まむ。


 そして、胸元にポトリと隠してあげた。


 ネックレスが直接肌に触れたことで安心したのか、彼女は胸元に手を当てて、無表情という名の氷をようやく溶かしてくれた。


「……ばか者、足手まといだ。お前を守ってやりたい。心からそう思っている」

「いやだ。俺が十河を守るんだ」


 俺は、初めて知った。

 愛情というものは、恐怖や不安を簡単に消し去って、勇気をくれる。

 魔法で奇跡で、だから、少し怖い物なんだ。


「……そうか。分かったかも」

「何がだ?」


 そして自分が愛情を一つ知ったことで、気付くことが出来た。

 この世にいる者すべてが、愛情を完全に把握しているというのか?

 答えは俄然、NOだ。


 では、彼女と俺との違いはどこにある。

 愛情を把握しようと意識しているか、無意識なのか。それだけだ。

 前者はそのことを思い悩み、引け目を感じ、後者は気にもしていない。

 そういうことだったんだ。


「なるほどね……。お前、あいつらを理解してあげたいって、救ってあげたいって考えてるんだろ」

「当たり前だ。環境の変化に心を痛めているのか、自分の新生活への不安なのか、二人の関係性の変化に対する不安なのか。思い付くものはその辺りなのだが、正解が分からない。分かりさえすれば、助けてやれるのだが」


 やっぱりね。

 優し過ぎは、優しさを失うものなのかもしれないな。

 もっとわがままに、自分が同じ立場になった時のことを考えればいいのに。

 でも、それを教えるためには……。


「十河は、誰かの気持ちを考える前に、自分の気持ちを大切にした方がいい」

「そうはいかん。あたしは王なのだ。まずは相手の気持ちを優先して……」

「じゃあ、俺は明日からお前とは会わない」

「いやだ! なんでそんな悲しいこと言うの!?」

「それはかぺっ!?」


 まさか、声をひっくり返して叫びながらしがみついてくるとは思わなかった。

 しゃべり方も態度も、一瞬で王の地位をかなぐり捨てるとは。

 落ち着けと言いたいところだが、全身を駆け巡る電撃のせいで声すら出せない。


「……そうか。そうか、分かったぞ七色! やはりお前は素晴らしい。あたしにも理解することが出来た。……これは、刹那的な感情だったのだな」


 そう。彼らは、自分が抱える問題について涙を流していたわけじゃない。


「単に、今、寂しかったのか」


 落ち着きを取り戻した十河にようやく解放された俺は、荒ぐ息を整えながら、


「お前はいつも誰かの気持ちを考えるせいで、自分の感情を殺すことに慣れちまったんだ。愛情を理解したいなら、もっと自分の感情に我がままになれ」

「ああ、心がけよう。七色と会えなくなると、寂しい。簡単な話だ」

「うん。そして俺は、お前に寂しい思いなんかさせない。だから、踊ろう」


 俺が手を差し伸べると、十河は寂しそうな顔をした。


「こら。いきなり俺を嘘つきにするな」

「急すぎて意味が分からん。それに、これ以上お前を苦痛にさらすことなど出来るはずが無かろう」

「さっき言ってたじゃないか。俺と踊れなくて寂しいって」

「ああ、確かにそう言ったが……」

「感電だって気にすること無い。好きな子と手を繋げるんだぞ? 命だってかける! 恥ずかしい奴と笑わば笑え! 俺に恥なんて概念、無い!」


 バカな宣言に目を丸くさせた十河が、とうとう噴き出した。

 くすくすと口元を押さえながら流す涙は、笑いによるものか、嬉しさからくるものなのか。

 いいさ、どっちでも。だから、手で拭うことなんかない。


 俺は彼女が涙を拭う暇さえ与えることなく、強引に手を引っ張った。


 両手を握り、幸せそうな笑顔ではにかむ十河と向き合い、同時にお辞儀。

 二人の耳には、いつまでも続く幸せなフォークダンスの音楽が聞こえていた。


 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 ……

 …………

 ………………


「頑張ったよ。それは認めてやるが、お辞儀直後に地面で大の字とは情け無い」

「俺の中では、一時間くらい踊り続ける二人という妄想が続いているのだが」

「すまんな、罰のせいで。だがその辺は頑張りすぎるな。あたしも妥協する」

「俺が神なら、いつも頑張ってる十河みたいなやつの罰は消してあげるのに」


 さすがに限界、というあたりからさらに電撃を食らったんだ。そりゃ無理か。

 努力賞程度の優しさは見えるものの、十河の機嫌はちょっと下降気味。


「ダンス中にやっちまうのはみっともないと覚えておけ。このあたしでさえダンス中は転ばない。これは相手に対する敬意の問題でおっと」

「あはは、それ、今から転ぶからなって言ってるようにしか聞こえなうわあ!」


 その時、なにか水色のボーダー的なものが迫ってきた。

 迫ってくると言っている以上、その落下予想地点は俺の眼球となるわけで。


「縞パン持ってないって言ってだはずだががががががががっ!」


 世の男性すべてが血の涙を流して俺をうらやんでいることだろう。

 だが、世界中の同胞よ。どうか落ち着いて聞いて欲しい。

 感電してると触覚が封じられるということを。

 眼球からゼロセンチにあるものは視覚で捉えることが出来ないということを。


 十河はすぐに立ち上がって、泣きそうな顔で隣にしゃがみ込む。

 そんな彼女に、俺は苦悶の表情のまま目を向けた。


「七色、大丈夫か! どうか許して欲しい! こともあろうに、顔の上に座るなんて……………………………………もっとやっていて欲しかったか?」

「なにをバカな」

「その伸びきった鼻の……、いや、伸びきったアゴで言われてもな」


 おかしい。

 俺の苦悶の表情、バカなのか?


 安堵と呆れが絶妙にブレンドされたため息をついた十河は、電撃込みとは言え俺の腕を引っ張って、背中だけ起こしてくれた。


「まったく、七色は恥知らずでいかん。なにか言いたいことは?」

「勘違いするな、まるで見えてないぞ。アニメで言えば、1フレームだけ書かれた幻の画像だ。俺は悪くない」

「…………言いたいことは?」

「DVD化希望」

「さっぱり分からんが、見たことを謝る気も無いと見える」


 ああ、ちょっとまずったかも。でも、すっぽんになれるだけの体力がもう無い。

 俺はさらなるお仕置きを覚悟したが、十河の口から笑い声が漏れた。

 そして俺の隣に寄り添うと、


「ダンスに誘ってくれた礼がまだだった。明日はあたしのお気に入りの場所へ連れて行ってやろう」

「…………嬉しい。連れてってくれ」

「ああ。……そして、さっきの罰もまだだった」


 そう言いながら、腕を組んできた。


「いだだっ! な、なあ、十河?」

「どうした? この罰はそんなにつらいか?」

「いや、頑張るに決まってる。これ、俺には褒美だし」

「そうか。ならば気にせず受取れ。……あたしにも、ご褒美なのだから」


 幸せそうな笑顔。

 十河の笑顔。

 俺は、これを守るためなら、どんな痛みにだって……、


「いだだだだだだだだ! もう無理っ!」

「ふふっ。もうちょっとだけ、こうしていさせてくれ」


 校庭に残る者はもういない。

 冷たい冬の空の下、冷たくなった校庭で、俺の体も冷たくなっていった。


 でも心の中と組んだ腕は、春のようにぽかぽかとした温かさで包まれていた。



続く。

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