2 『湊川』
第2話 『湊川』
この上に川が流れていたのやで」と母は言った。私は信じられなかった。
「ほなら、その川はどこに行ったのや?」
ここに立つと幼い日の自分が思い出さされる・・湊川トンネル。
湊川といえば、神戸の人はまず、楠公(なんこう)さんを浮かべます。湊川神社に忠臣楠木正成が祀られています。正成が足利尊氏と戦って殉死した地がここ湊川でありました(湊川の戦い)。その墓の荒廃を見て徳川光圀が「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑を建立します。私はその時神社も作ったものと思っていました。神社が出来たのは、明治に入って、明治天皇によってであります。神社は神戸駅の表玄関を降りると、正面50メートルぐらいに見えます。
湊川は古湊川、旧湊川、新湊川と三つの名前を持ちます。正成の時代は古湊です。古湊川から旧湊川に流れが変えられたのは、いつの時代なのか、だれが言ったのかは、いくつかの説がありますが、謎のままとなっています。旧湊川も天井川で堤防が6メートルもあったといいます。
度重なる水害と神戸港への土砂流出を防ぐため、また、兵庫と新港神戸を分断する形であったため、明治34年会下山下に墜道を作り、苅藻川に合流する付け替えを行いました。当時としては大工事でした。この跡地に出きたのが新開地であります。湊川トンネルで兵庫と新港*は結ばれ、市電が通りました。楠公像がある湊川公園下に神戸有馬鉄道(今の神戸電鉄)湊川始発駅ができます。公園から浜にかけてが、新開地で劇場・映画館が数多く立ち並び、戦前、元町と並ぶ、神戸を代表する繁華街になったのです。
*兵庫は江戸時代、すでに人口2万の港町でした。開港を要求され、幕府は外国人とのトラブルをさけ、神戸村に新港を作りそこに居留地を作りました。新港の方が発展してきて、二つの街をつなぐ必要が生じたのです。
戦後も、元町商店街西側には三越百貨店があり、市民の台所、湊川市場などもあってそれなりに賑わいました。しかし、テレビが普及し娯楽の質も変わり、神戸高速鉄道や交通事情の変化で三宮集中が進み、今はその面影もなく寂しくなりました。
私が初めて見た都会が神戸でありました。父は六甲裏、吉川という田舎で自転車屋をやっていました。横にバスの発着場があったので、店の三分の一ほどを仕切って、バス待ちの客相手に母がパンや菓子を売っていました。その菓子問屋が湊川商店街にありました。また、母の姉が上沢で蒲鉾屋を、他の親戚も殆どが神戸で、神戸にはよく連れてきて貰っていました。バスで三田まで出て、神有電車に乗って湊川に着くのです。
神戸に行く時は、街の子に見えるように、ゴムのズッ靴ではなく、革靴を履かせてもらい、よそ行きの服を着せて貰うのです。明日、神戸やと思うとそれは嬉しいものでした。見るもの珍しく、あっちこっちキョロキョロして「お母ちゃん」と手を繋げば、よその人だったりして、母はすでに前の方を歩いていました。
新開地の高砂屋で「ここの金つばは名物なんよ」と土産に買って貰ったり、「あれが三越百貨店や」と言われ、なんと大きな建物やと思ったものでした。大開通りにはまだ米軍のキャンプがありました。田舎では風呂焚きは私の当番で、竹筒で吹くのですが、上手くいかないときは煤で顔が黒くなります。母に「まるで黒んぼやなぁー」と言われたのが、かまぼこ兵舎から出てきた黒い兵隊さんを見て意味が分かりました。もっともその兵隊さんも風呂当番とは思いませんでしたが…。
小学校3年生の時、一家は大阪に出てお菓子屋を始めたのですが、父はこの湊川に店の物件を探したのでした。母に「今日はどこに連れて行って貰ったん?」と聞かれたら、「なんや表のガラス戸に紙がいっぱい貼ってあるとこ(周旋屋)やった」と、答えたものです。
周旋屋めぐりが終わってから、王子動物園によく連れて行って貰いました。
湊川、新開地は私に取っては思い出が詰まったところなのです。
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