来訪者

 広い平原を横切る街道。その真ん中にポツンと現れる小さな村。周囲には広い田畑。10年前から同じ風景。20年前も同じ風景。ずっと前から同じ風景。

 しかしその村で生まれ育った男はその村で人生を終える事に不満は無かった。先祖から受け継いだ田畑があり、重い税を課せられて尚食うに困る事は無かった。と言うのも男には妻がいたが残念ながら子供に恵まれる事が無く、夫婦2人が食べるには田畑は十分に広かった。しかしその妻も数年前に病で亡くなった。自身ももう畑仕事が出来る身体では無い。

 広い田畑は人に貸し、その代わりに収穫のほんの一部を貰う事で慎ましく生活をしていた。自分の命が尽きれば田畑は貸している者に譲る約束もしている。後は妻が亡くなった同じ土地で静かに最後の時を待つだけのハズだった。妻の墓の隣に建つ自分の墓に入るのを楽しみにさえしていた。だが今、妻との思い出に浸り再会を待つ穏やかな時間が思わぬ事態で破られようとしていた。


 「爺さん、いい加減にしてくれ。こっちも早く引き揚げたいんだ。もう隣村まで病は広がっている。この村だって1人でも発症者が出たら閉鎖されて、最悪村ごと焼かれちまう可能性だってあるんだぞ。」


 「構わんと言うとろうが。わしゃ妻と暮らしたここで最後を迎える事だけが最後の望みじゃ。」


 「あんたが病に掛かってここで死んだら、あんたの身体を苗床にここからまた病が広がっちまうだろうが。」


 「その時は自分でこの家に火を点けて死んでやるから安心せい。」


 「爺さん………あんまり寝覚めの悪ぃ事言うんじゃねぇよ。他の村も回んなきゃならねぇってのに。」


 「お前さんの仕事を邪魔して悪いが、わしゃ何を言われてもこの土地を離れる気は無いんでのぅ。他の騎士達のように助かりたい者を助けてやるが良い。」


 若い騎士は渋々この家を出る。他にも回らなければならない村はまだいくつもあるのだろう。街道が閉鎖される直前にまた来ると言っていたが、無駄だから来なくて良いと声を掛けると扉を閉じる。

 居間へと戻ると、いつも妻と2人で語らっていた椅子に座り、今は誰も座っていない椅子を眺める。


 「フィリア………ちと騒がしくなってしまったが、おかげで最後はとびきり静かにお前と語らう事が出来そうじゃ。」


 薪の爆ぜるパチッと言う音で暖炉に目をやると、炎が随分小さくなっていた。薪を足して再び自分の椅子に深く座ると目を閉じる。

 数年経った今でもハッキリとその姿も声も思い出せる。


 穏やかな女性だった。記憶の中には怒っている姿は一つも浮かんで来ないほどに。


 とても働き者だった。あかぎれた手を見て、手伝いを雇おうと提案すると私の世話は誰にも譲ってあげないと言うほどに。


 深く愛してくれていた。自分の事を棚に上げていつも私の心配ばかりしているほどに。


 そしてとても愛している。亡くなって尚深まる愛情を感じるほどに。




 重ねた薪が燃えて短くなり、小さく崩れてコトンと音がする。その音で幸せなまどろみから現実に引き戻されると辺りはもう暗くなっていた。

 すっかり食が細くなってしまい、腹は減っていないが喉の渇きを覚えて台所に向かう。水瓶から直接コップで水を汲み出して再び椅子に戻ろうとすると玄関の方から音がする。

 この村の住民は自分以外皆出て行った。昼間来ていた騎士が戻って来るにしてもノックも無しに扉をカリカリいじる音をさせるのはおかしい。普通に考えれば泥棒だろうか。

 しかし気にせず椅子に腰掛けるとコップの水を一口含んで喉を潤し再び目を閉じる。


 ゴトリと閂の落ちる音がすると続いて扉が開かれ蝶番が小さく軋む音が届く。足音だけでこちらに近づいて来る者達をとらえ、十分に近づいたのを感じて声を掛ける。


 「流行り病を恐れて皆避難した。避難先では色々と入用になろうと思い金目の物は全て村の者達にくれてやってしまった。残っているのはわしがひと冬慎ましく越せるという程度の食い物くらいじゃ。腹が減っておるなら台所から持って行くが良い。じゃが長居はせぬ方が良いじゃろう。おぬし達も早くこの村から離れた方が良い。」


 「この村はもう爺さん1人だけかい?」


 くぐもった声で掛けられた問いに肯定の意を伝えると男は別の者と妙な話をする。


 「この爺さんを使おう。原液を持って来い。井戸と全ての家の水瓶は染めておけ。」


 何の話かは分からなかったが碌な内容では無いと雰囲気で察して初めて侵入者の方へと顔を向けると、顔の下半分に布を巻いてマスクをした相手が手に持った棒を自分へと振り下ろすところだった。

 暴力への恐怖で硬直したのでは無い。この侵入者と目が合った瞬間に理解して驚愕したのだ。その目には何も無かった。喜怒哀楽のひとかけらも無い、まるでガラス玉でも嵌っているような目だった。


 そして次の瞬間、意識は暗闇へと落ちていった。




 最悪の気分で意識を取り戻したがとても動ける状態では無かった。打たれた頭の痛みだけでは無い。喉が焼け付くように痛く、唾液を飲み込む事すら出来ない。胸はむかついて頭も打撲では無い痛みが高熱で寝込んだ時以上に押し寄せて来る。

 吐き気も酷いがどうやらもう吐き出せる物が無いようだ。自分が意識を失っている間に吐き出した物で胸から下がドロドロに汚れている。椅子に座った状態でなければ窒息していたかも知れない。

 暖炉の火は消えかけていて、灰の中に赤い光が僅かに残っている。まだ間に合うだろうから薪を足そうとするが、起き上がる事すらもう出来ない状態だった。全身が鉛のように重い。腕を持ち上げるのも重労働だ。


 何をされたかは分からないが、自身の終わりの時が近い事を察して亡き妻の事を思い出そうとするが、痛みや吐き気などの苦痛が邪魔をして思い出が霞んでしまう。

 妻との思い出の中でまどろむように最後を迎えたかったが、どのみち死んでしまえばまた会える。その想いが迅速な死を渇望させるが、そう易々とその時は訪れなかった。

 全身を苛む苦痛がいつまで続く。動く事も出来ずに自ら命を絶つ事も出来ない。


(どうせならば意識を取り戻す事無く妻の元へと行かせてくれれば良かったものを。)


 日も落ち、暖炉の火も消えかけ、冷え込んでいるハズの部屋の中で全身から吹き出す汗が止まらない。息を吸っても吐いても喉が痛む。視界もぼやけ、音も聞こえているのかいないのか分からない。椅子に座っているハズなのに世界が歪んで倒れそうになる。


 (痛い…。苦しい…。お前も間際はこうだったのかい?わしは気付いてあげられなかったのかい?)


 どうだったかと思い妻の死の間際の顔が浮かびそうになるが、むせて咳き込んで激痛に襲われると記憶の中の妻の顔がハッキリとする前に消えてしまう。妻に早く会いたい。それだけを願って痛みに耐える。


 (まだか………まだ死ねないのか………)


 歪む世界の中で虚ろになる感覚。しかし痛覚だけがやけにハッキリとして意識を繋ぎとめる。


 どこからか馬の嘶く声が聞こえる気がする。奴らが戻って来たならばいよいよこの尽きかけた命を終わらせてくれるのかと期待してしまう。

 誰かが家に入って来たようだ。振り向く事が出来ずに誰が来たかは分からない。振り向けたとしてももう目もぼんやりとしか見えない。何事か話しているようだが良く聞き取れない。耳は遠くなかったが、今は音がどこか遠くから小さく響いて来るようにしか聞こえなくなっている。

 月明りの影で誰かが傍らに近づいて来るのが分かる。額に手を当てているようだ。首を触られたりもしている。何かが口に含まされる。恐らく水だろうが、飲み込む事も出来ずに垂れ流してしまう。そして目の前の光が強くなる。暖炉の中の僅かな残り火を掘り出して再び炎を取り戻そうとしているのだろう。


 (わしの事は良い。このままにしておいてくれ。)


 言葉にしようとするが、僅かに呻くような音しか出せない。そして待ちかねた時がようやく訪れようとしている。視界が急速に暗くなっていく。音ももう聞こえない。あれほど全身を苛んだ苦痛が消えていく。

 何も見えない暗闇の中、自分に笑いかける妻の姿が浮かぶ。そして辺りはまぶしい程に明るく真っ白になり、そして全てが消えて行く。自分自身さえも…

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る