岡本理香

 普段から早起きが苦手で目覚ましを三つも使っている。しかし今日は一つ目の目覚ましで直ぐに起き上がると脱いだ夜着をベッドに放ってシャワーを浴びる。

 浴室を出て身体を拭き、ドライヤーで髪を乾かすと下着一枚でクローゼットを開いてそこで動きが止まる。あれこれハンガーを寄せて戻してようやく服を決め、その後も靴下や小物選びに化粧とたっぷり時間を掛け、お出掛け用に完成した自分を大きな姿見でチェックする。


 「よしっ!」


 自分の家から駅に行くには普段自転車を使っている。しかし今着ている服で自転車に乗るつもりは無い。大きく膨らんだスカートの裾のレースのフリルがタイヤに巻き込まれたら大変だ。

 最寄りのバス停から駅に向かい、電車に乗って7駅で降りると早朝だと言うのに賑やかな商店街を歩く。途中開店して間もないスーパーで食材を買い込んで目的地へと向かう。


 初めて歩く街だが、腕輪型のモバイルから襟の下に巻いてあるパルスマーカーへ無線で目的地への案内図が送られて、他人からは見えないが視界には半透明の矢印が出ている。


 モバイルとパルスマーカーだけで全感覚投入などは出来ないが、視覚と聴覚の補助機能程度なら十分な性能を持っている。目や耳に障害を持つ人は皆こういった機能を使っているし、障害とまでいかなくても視力が衰えている人も使っている。

 そしてその機能は今は様々な用途で携帯ツールとして用いられている。


 駅から歩いて15分ほどで5階建てのマンションに到着すると、1階正面の出入り口を開いてもらうために、相手の部屋番号を入力してインターホンを鳴らす。

 しばらく待つが返答が無い。前日にメールでさりげなく予定を聞いているので、居るハズと思いつつも約束をした訳では無いので確信は無い。

 もう一度鳴らすがやはり返答が無い。しょんぼりした気持ちで帰ろうか連絡してみるか迷っている時にようやく耳慣れた声が聞こえる。


 『…はい。どちらさまですか?』


 「っ!部長ー!遅いですよぉ返事がぁー!帰っちゃう所だったじゃないですかぁ!」


 『…どちらさまですか?』


 「モニターで見えてるくせに何言ってるんですかぁ!私ですよ!あなたの可愛い元部下の岡本・理・香・です♡」


 『………………で………要件は?』


 「開けて下さいよぉー。一緒に朝ごはん食べましょうよぉー。」


 はぁ、とため息が聞こえた後に強化ガラスの自動ドアが開く。意気揚々とエレベータに乗ると4階の目的の部屋の前まで来て再びインターホンを押す。

 扉を開けて顔を出した人物はジャージ姿だった。今まで見た事無い姿に少し驚く。イメージでは休日でもYシャツを着ていると思っていたのだ。しかし無精髭は無く、髪も綺麗に整えられている事から今まで寝ていたと言う事も無いようだった。

 早速入ろうとするが扉を開けた人物は通れる幅を空けてくれない。


 「せっかく来たんですから入れて下さいよぅ。ほらっ、朝ごはんの材料買って来たんですから一緒に食べましょうよぉ。」


 「前から言ってるが、本来上司と部下で結婚してもいない男女がこういう事は気安くして良い事では無いと思うぞ。」


 「もう上司でも部下でも無いから解禁なんじゃないですかぁ。それに気安いって言うのは親しいって事だから良い事じゃないですかぁ。」


 「いつから私達は朝ご飯を一緒に食べるほど親しくなったんだ?」


 「会社じゃお昼ご飯は一緒に食べてたじゃないですかぁ?」


 「社員食堂の席は自由だからな。それを言うならほぼ全社員と一緒に食べていた事になる。」


 「あー言えばこー言うー。可愛い女の子が休日に尋ねて来てるんですからぁ、まずは歓迎して下さいよぅ。」


 全く帰るつもりが無いのをようやく悟ってくれた様で、またもやため息をつきながら身体を横にして通れる幅を空けてくれる。


 部長の家に来るのは初めてだが、イメージ通り落ち着いた雰囲気のシンプルな家具が揃って掃除も整理も行き届いている。

 しかし勝手にあちこちの部屋を見ていると、イメージには無かった物があった。グリアパルスの無線機とクリスタルユニットが既に配線された状態で設置されていた。


 部長が会社で休憩時間にゲームをしているのを見た事はある。しかしどれもオンライン接続されていない物ばかりだったし、会社の設備で使用自由な全感覚投入機も使っているのを見た事が無い。それどころかパルスマーカーすら使用せずに、使っていたモバイルは今時タッチパネルのボード型だった。

 それにクリスタルユニットは通常かなり高価な物だし、自作で星を作るのはかなり技術と知識が必要な事と、様々なソフトや特許の使用料を払わなくてはならない。

 現在企業では無く個人でクリスタルユニットを持っているのは、よほど道楽者の金持ちか裏で取り引きされているコピー品を買った人間がほとんどだろう。

 そして裏のコピー品はかなりの数が出回っていると推測されているが、本来は販売だけでなく所持と使用も犯罪である。

 もしやっ!と思って勢いよく振り返って部長の顔を見るが、マズイ物を見られた雰囲気どころか「どうした?」と逆に心配そうな声を掛けられてしまう。


 事情を聞けば何のことは無い。倒産した以前の会社の資産処分で手に入れたと言うではないか。しかも人気が底辺過ぎて悪い意味で伝説となったあの『アーク』。

 自社製品と言う事で会社の設備を使って少しやってみたものの、やりたい事は何一つ出来ず、欲しい物は何一つ手に入らず、そして自分の命だけは簡単に取られてしまう。

 ゲームに関してはかなり浮気性で、様々なゲームをかじっては辞めて来たが『アーク』は自分の家からログインすらしていない。


 様々なゲームが乱立している現状で、初心者には難易度が高いゲームと言うのも数多く出ている。しかしアークの難易度は質が違う。敵も味方もハッキリしていないのだ。夜に出歩くだけで理由も分からず簡単に殺されてしまい、そして荷物を奪われる。しかもこちらから攻撃は出来ない。

 まともな遊び方が何一つ出来ないのだ。しかし根強い僅かなファンがいたと言う話は聞いた事がある。その理由が制限解除NPCだ。まさに人間と同じと言える存在をNPCとして使っているタイトルはほぼ無いと言って良い。その僅かなファンが何を楽しんでいたのかは分からないが、理香にとっては全く楽しむ事が出来なかったゲームとして完結している。


 とりあえずは犯罪では無いと分かってホッとすると、ここに来るまで我慢していたお腹の虫が思い出したように唸り声を上げる。


 ぐうぅぅぅ…


 静寂の中、鳴り響いた自分のお腹の音に顔が熱くなる。誤魔化すようにキッチンの場所を聞くと部長が何を作るのかと聞いて来る。


 「? …私、料理出来ませんよぅ?」


 「ではなぜキッチンの場所を聞いた?」


 「買ってきた食材を置こぅと思いまして。」


 「では誰が料理するんだ?」


 「部長ぉってぇお昼のお弁当、ご自分で作ってたんですよねぇー?」


 「………………………………何が食いたいんだ?」


 「ベーコンエッグとハニートーストが食べたかったんでぇ、ベーコンと卵と厚切りトースト買って来ましたぁ。」


 「肝心なハニーが無いんだが?」


 「ハニーなら、こ・こ♡」


 前かがみの姿勢を取り、両腕で結構自信を持っている胸を寄せ、ポーズを取ってウィンクすると部長が完全に固まっている。次の瞬間部長の両手の拳がこめかみを挟みこみ、かなりの力で捻じられる。


 「ダーリン、いっっったぁぁぁーーーい!!」


 「誰がダーリンだ。」


 部長が甘党なのは会社でも有名だった。服装自由の会社で毎日スーツを着て来る人間が、お昼ご飯を食べ終わると必ずフルーツ・オレを飲むというギャップに、何人かの女性社員が可愛いと言っていたのを耳にした事がある。

 休憩時間以外の就業時間中はコーヒーばかり飲んでいるが、飴を舐めながら飲んだりしていたのだ。蜂蜜が家に常備されている可能性も低くは無いと踏んでいた。


 そして部長は仕事ではキッチリした上下関係を示す人だったが、就業時間が終われば部下の相談に乗ったりもしていた優しい人だ。

 それにプライベートな事は強く頼まれると断るのが苦手な人で、正当な理由や妥当性があれば尚更断れない人だった。

 その辺りは念入りに調べて、以前に上手く言いくるめて運転手を引き受けて貰ったりもした。


 その時はデートに誘ったつもりだったのだが、部長はイベント会場まで自分を送ると「帰る時はまた連絡してくれ。」と言って去ってしまい、せめて帰りに一緒に晩御飯をと思ったが真っ直ぐ家まで送られてしまった。


 今まで部長は倒産した以前の会社の部下や、主に自分が引き抜いた人達を他の会社に転職させる為に奔走していたのは知っている。しかし先日部長が転職の世話をすると決めていた最後の一人が次の会社に正式に採用されたのも調べて知っている。


 故に今日は家まで乗り込んで一緒にご飯を食べるのだと決めていた。あわよくば一日一緒にいようと決めていた。さらにあわよくば泊まってやろうと決めていた。


 色々と説教じみた事を言いながらも部長は手早く料理を完成させていく。それを見ながら改めて思う。


 (あぁ………お嫁さんに欲しぃ………)


 あっという間にベーコンエッグとハニートーストがテーブルに並ぶ。「蜂蜜は無いからメープルシロップで我慢してくれ。」と言って部長がテーブルに座ると手を合わせる。

 自分も向かいの椅子に座って手を合わせると「頂きまぁーす。」と言ってハニートーストを一口大に切り取って頬張る。

 「あまぁぁーーーい!」と言って喜んでいると、部長が今まで見た事無いような表情をしている。

 困ったような、それでいて嬉しそうな顔だ。


 前の会社が倒産してしまうまでは、部長が食堂でお弁当を食べる時、すかさず隣の席に陣取って一緒にお昼を食べていたが、同じような台詞を言う事があっても部長のこんな表情は見た事が無い。何か嫌な予感がする。女のカンがそう告げている。


 「部長ぉ。とっても美味しいです!」


 「それはどうも。」


 「ところで部長ぉ。今日は出かける予定は無いってメールで言ってましたけどぉ、お家では何かする予定なんですかぁ?」


 「そうだな………何日かゆっくりするつもりだったんだが、またアークに入ろうかと思っている。」


 「!」


 閃く物があった。アークはAIに制御が掛けられていないNPCを採用した珍しいゲームだった。普通に話していてもNPCをNPCと判別するのが難しいゲームだ。

 今の全感覚投入型のゲームでは見た目だけで現実かゲームかを判断する事は難しい。しかしほとんどのゲームで採用されている制限AIでは、そこそこ長く会話すればNPCかプレイヤーかの判別はついてしまう。やはり返って来る返事が定型文になるためだ。そのパターンは膨大ではあるが、それでもやはり自然な会話になるのは短い会話だけだ。

 しかしながらそれでもNPCに恋をするプレイヤーは多い。ならば制限が掛けられていないNPCであれば、人間との判別が難しい相手であればその可能性は飛躍的に上がるだろう。

 つまり…


 (泥棒猫の臭いがしますよぉ………?)


 「部長、私もぉ…一緒に行っても良いですかぁ?」

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