三十八話 揺らめく蒼は緋を欲す

 ――覚醒は一瞬だった。

 脇腹の、否。腹部の組織が焼け焦げる異様な感覚によって、スイは鉛のような重い息を吐き出した。


「うっぁ……ッ」


 虚ろな色に染められていた瞳に光が戻り、思考を支配していた感情が霧のように晴れていく。

 背後にある分厚い氷壁に身体を預けつつ脇腹を見下ろすと、おびただしい量の血液が溢れ出ている。妙にぼんやりとした視界の中、スイはそこに燻る暖かく、どこか懐かしい碧を称える焰に指をなぞらせた――その時、


「どぅおおらあああああああっっ!!」

「なふおぼぉおっ!?」


 突然視界に飛び込んできた人影が、こちらの頭部めがけ強烈な威力をともなった拳をじ込んできた。

 凄まじい衝撃音と共に背後の氷壁ひょうへきが大きく陥没かんぼつし、スイは唖然あぜんとする。


「…………は、はははっ」


 そして一拍遅れて、乾いた笑い声を漏らした。

 そこにあるのはいつかのような空虚ではなく、どこかほっとしたような、安堵あんどに似たようなもの。目元に懐古かいこの念を滲ませた彼は酷く申し訳なさそうに、そして愛おしそうに、自分の頭部すれすれの氷壁に拳をめり込ませた少女の名を口にした。


「フウっ――」


 見上げられた不敵な笑顔が眩しい程に懐かしい。つい数分前まで一緒に居た筈なのに、まるで何年間も会っていなかったかのように感じられる。

 だが生憎この感動的な絵面シーンとなるべき再会に、彼女は興味など全くなかったようで。


「こっ、の……たわけにぃがぁぁぁあああああっ!!」


 驚異的な勢いで頭突ずつきをかましてきた。しかも容赦なく。あろうことか負傷済みの人に。


「んなぁあああああぁっ!?」


 もはや頭突きによるものだとは思えない鈍い音が響き、既にヒビが入っていた氷の壁は完全に崩壊。スイはフウに押し倒される形で地面に倒れ込み、さらに粉々になった氷塊と瓦礫がれきに半身埋まってしまう。


「フウ何すっ……」


「お兄ちゃんの馬鹿ぁあっ!! 何が余裕だよ! 先に終わらせるだよ!? 勝手にアツくなって、目的見失って、自分見失って! ぼろぼろになって! 死ぬなんて許さないよ!?  私の許可もなしにっ、勝手に死ぬようなことするなんて! 絶対に、……絶対に許さないんだからぁっ!!」


 スイは目を見開いた。フウが何を言っているのかが分からなかったからだ。

 自分がぼろぼろで死ぬようなことをしたと言われても、自身の感覚は正常であるし身体も全く問題はない。と言うより、腹に大穴を開けてきたり頭部めがけて殴ってきたりしてぼろぼろにしたのは他でもないフウではないかと、スイは今にも涙に濡れてしまいそうなフウの頬を撫でようとして――気づく。


 腕が、血塗れだった。

 骨が砕け、捻れ、真っ赤な液体をどくどくと流しながら皮膚を突き破っていた。


「え……?」


 咄嗟とっさに全身へ視線を巡らすが、そのあり様は酷いものだった。

 ほぼ全身の骨が折れ、砕けている。内臓も大半が損傷しており、四肢は筋組織までもが破壊されていた。

 まさにぼろぼろ、生きていること自体が信じられない程の己の状態にスイは動揺を隠せなかった。我を忘れ、無意識の内に神経を麻痺させていたせいで肉体の崩壊に気づかなかったなんて。

 ……顔を上げる。

 そこには、心底不安そうな表情でこちらを覗き込むフウの姿があった。


「……っ」


 胸が熱くなる。


「ごめんっ……」


 目の前の少女に手を伸ばす。


 ――僕は、

「心配させてごめんっ……フウが止めてくれなかったら、僕は――」


 自覚したことでようやく感じ始めた全身の痛みなど今はさして重要ではなかった。 ただ、目の前の少女を。フウをスイは両手で抱き締めた。


 ――また大切な人を、失うところだった。


 急に抱き締められたフウは驚いたようで目を丸くする。


「わわっ!? 分かればいいんだけど……でも、まだ終わりじゃぁないよッ!!」


 長い銀髪が風になびき、表情を引き締めたフウが砂塵さじんの向こうへ蒼焰そうえんを撃ち込んだ。


「……感動の再会は終わったか」


 小さな衝突音。そして冷たく、低い声が聞こえた。

 スイとフウがその方向へ目を向ければ、冷気にさらわれ視界が晴れた先。怒りと苛立ちを隠すことなく全身からにじませたルシアが立っていた。


「へぇ~、怒ってんだ? あとちょっとの所で邪魔されちゃったから? それともいきなり可愛い女の子に飛びつかれて、照れちゃったのかなぁっ~?」


 どこまでもムカつく笑顔を浮かべながら首を傾げるフウに、ルシアは冷めた視線を返した。


「お前の影響か……まあいい、数が増えようがまとめて回収してやろう」

「……回収?」


 刹那、空間が張りつめるような緊張に支配される。しかしそれは瞬く間に霧散し、代わりに冴えるような蒼が視界を覆い尽くした。


「その言葉は気に食わないなぁ」


 火花を散らす灼熱の炎が、空間を歪ませ荒れ狂う。燃え盛る蒼炎を背に佇む少女は禍々まがまがしい殺気を放つ碧の双眸を携え、獰猛どうもうな笑みを浮かべた。


「回収されるのはテメェの首だクソッタレ。お兄ちゃんをめやがって、その虚像で殺してあげようか?」

「はっ、揃いも揃ってこうだとは全く予想以上だ。いいだろう、私の首を取れるものなら取ってみるがいいッ!」


 ルシアが腕を降り下ろすと、空間から出現した大量の氷槍が放たれる。大気を凍らせながら迫る氷の凶器を前に、フウは一切怯まず正面から迎え撃つ。


「フウ、援護する」


 回復促進の微弱電流を全身からはしらせたスイがフウの後方に立とうとする。


「要らないよ、お兄ちゃんは自分のことに集中して。アイツは首取って骨のずいまで灰にしないと私の気が収まらない」


 薄笑いに目を細めたフウが大地を踏み砕く。足元から噴き出した蒼炎が巨大な炎柱となり大気を揺らめかせる。

 そのまま両腕に焰をまとったフウは虚空へ投げ出された地面を蹴りつけ跳躍。氷槍の嵐を避け、斬り、燃し、盛大に爆破させながら駆け抜けるとルシアの真上に躍り出た。


「ほう、」


 炎の拳を振りかぶったフウに、青綠の瞳を驚きで見開いたルシアは、


「周囲の注意が疎かになっているぞ?」


 ふと口端を吊り上げ指を鳴らした。

 周りへ意識を向けると、いつの間に再生したのか巨大な槍が左右のぐ側まで迫っていた。

 ギリギリまで引き寄せてから切っ先を蹴って避けようとするが、地を突き破って現れた氷蕀に足首を取られてしまう。


「ぐぅっ!?」


 勢いに身体を僅かに持っていかれ、バランスを崩した拍子に伸縮したとげがフウの四肢を貫き、体内の組織が冷気にむしばまれていく。


「凍れ」


 ルシアの声と同時、二つの氷槍が圧殺するかのようにフウに直撃する。細氷が吹き荒れ、砂塵が辺りを埋め尽くした。

 ――そして、


「がはッ――!?」


 一筋の蒼雷がルシアを貫いた。

 次いで氷塊が砕け散り、燃え盛る蒼焰が氷片を一掃する。


「周囲の注意が、疎かになってたよ?」


 炎が掻き消えた先、氷槍が衝突した場の下には口から血を流し、二本の骨があらぬ方向に皮膚から突き出た右手を前に出したフウが立っていた。だがその姿は覇気溢れる先程のものとは程遠く、華奢な全身は黒ずんだあかに染まり、顔には笑みを浮かべながらも疲労の色が濃く現れている。


「雷撃、だと……?」


 蒼雷に焼かれ、大きく風穴の空いた腹部を支えるように倒れ込んだルシアはフウの腕を見やる。 前方へ突き出された右手からは、蒼い電流が多量の血を巻き上げほとばしっていた。


「私だって『銀の民シロガネ』の端くれ、雷撃くらい使えるに決まってんじゃん」


 そう口角を吊り上げたフウは再びルシア目がけて右手から蒼雷を撃ち出す。そのまま息もつかせぬ勢いで、動かなくなったまとへ向け己の右腕が粉々に弾け飛ぶまで雷撃を連射し続けた。


「ぐ……ゴフッ、がっ…………」


 ほぼ全身に火傷を負い、心臓と頭蓋を除いた大部分を肉ごと抉られたルシアだったが、やはり尚も意識は明瞭めいりょうで大してこたえてないさまにフウは小さく舌打ちをする。


「頑丈なようで安心したよ。お兄ちゃんをこんだけ傷つけておいて、簡単に死なせる訳にはいかないからねぇ」 

「揃いも揃って、随分と……存在に見合う腐った性根しょうねをしているようだな」


 酷く負傷しながらも鼻で笑って見せたルシアの元へ、フウは高術圧に耐え消えれず吹き飛んだ右腕を再生させつつ歩いていく。


「勘違いしてたようだから言っとくけどさ、お前が探してるのはお兄ちゃんじゃない。私がいる限り、それは絶対に有り得ない」


 まずは脊椎、ルシアの背に足を置いたフウが一気に踏み抜こうと力を込めかけた時――


 しゃん――


 どこからか鈴の音が響き、世界が光に包まれた。

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