どうか、 ―伊月司―

「じゃあなつかさ。明日は少しくらい遅刻しても構わんぞ」

「さっさと帰れ!」


 楽しそうな義孝よしたかの顔にそう怒声を投げつけ、俺は玄関の扉を叩きつけるように閉めた。


「つ、司さん……あんまりやったら、扉、壊れちゃうんじゃ……」

「このくらいで壊れないよ。いつものことだし」


 俺のそばで顔を引きつらせているあずさにそう言い、俺は玄関の扉を睨みつけた。

 公園を挟んだ向かいの家どころか、さらに向こうの高層ビルまで見えるベランダが特徴の、ワンルームマンションの二階。その真ん中にある自宅に、俺は梓を招待した。まあ要するに、安上がりなデートだ。


 別に、金欠だからってわけじゃない。ここが一番だから、そうしただけだ。……少なくても、今夜に限っては。


 だというのに、インターホンに心を浮き立たせながら扉を開けてみれば、憎たらしいくらい楽しそうな顔をした義孝が梓と一緒にいた。しかも、新しい仕事の書類を用意して。せっかくのデートなのに、しょっぱながあいつの顔と仕事の書類とか、最悪すぎる。


「司さん……とりあえず、その書類を部屋に置いていきましょう? ここにいても仕方ないですし」


 俺を宥めるように、梓は微笑む。その声と表情につられ、俺は怒りを息に乗せて吐き出した。

 ああ、そうだよな。せっかくのデートで、あいつはもう部屋の外なんだし。二人きりの時間を楽しまないと。


「……言うのが遅れたけど、いらっしゃい梓。上がって」

「はい。お邪魔します」


 俺が笑みを浮かべると、梓も返してくれる。そうしてやっと、俺たちのデートは始まった。




 手を引いて梓を部屋へ連れて行くと、俺はまず、書類を机の引き出しの中に突っ込んだ。デート中にこんなもの、見たくないし。これ絶対、あいつの嫌がらせだろ。


「梓は待ってて。すぐ料理持ってくるから。……それと、その服、似合ってるよ」

「あ、ありがとうございます」


 にっこりと笑顔で褒めると、梓の顔が嬉しそうに、少し恥ずかしそうに輝いた。……うん、やっぱり可愛いな、梓は。

 義孝のせいで台無しになっていた気分がやっと上向きになっていく。俺は多分人に見せられない顔でキッチンへ向かった。


 はもや海老、豚や大葉の天ぷらが一つずつに、天つゆと塩。厚焼き玉子、素麺汁、わかめときゅうりの酢の物、ご飯。

 夏らしいものを揃えた二人分の料理は、全部俺の手作りだ。練習しただけあって、我ながら結構上手くできたと思う。食べられたらそれでいい、いつもの手抜き料理とは笑えるほどに違う。


 料理を盆に乗せてテーブルへ運ぶと、鞄を下ろした梓が二人分のクッションをベランダに向けてテーブルの前に置き、大窓を開けていた。緩い風が、梓の半分くらい結った髪と挿した簪を揺らしていく。

 俺が並べていく皿の上の料理を見て、梓は手を叩いた。


「美味しそうですね」

「まあ、見た目と匂いはなんとかね。君の口に合えばいいんだけど……」


 言いながら料理を並べ終え、俺はくすんだ黄色のクッションの上に腰を下ろした。

 声と手を揃え、それぞれ料理に箸をつける。とは言っても、俺は本当に箸をはもの天ぷらに当てただけで、梓のほうを見ているのだけど。だって、気になる。

 俺の視線に気づいていないのか、梓は豚の天ぷらを一口食べた。たっぷり味わってから、顔をほころばせる。


「衣さくさくー、お肉柔らかーい」

「味はどう?」

「美味しいですよ。塩胡椒の加減、ばっちりです……って、司さん、見てたんですか」


 見てないで自分も食べてくださいよ。ようやく俺の視線に気づいた梓は、頬をほんのりと赤く染めて言う。

 梓の可愛らしい表情と第一段階の突破で、俺は小さく笑った。


「だって気になったんだよ。君は料理上手だし、家族の人もそうだし。美味しくないって言われたらどうしようかと」

「そんなこと言いませんよ」


 と、梓は口を尖らせる。うん、それはわかっているけどさ。でもやっぱり、無理したり普通の顔して美味しいと言ってもらうより、美味しそうな顔で言ってもらいたい。だから練習したわけだし。

 梓は、次ははもの天ぷらに箸を伸ばす。それも見ていたいけど……そろそろ食べないと梓が怒りそうだな。天ぷらも冷めるし。


 というわけで、俺もはもの天ぷらを食べることにした。

 ……うん。上出来。やるじゃん俺。はも天美味い。酢の物も良い加減になっている。

 公園とその向こうの景色を前にしての梓との夕食は、穏やかに進んだ。遠距離恋愛二年目で、俺も梓も大学とバイトに忙しくて、なかなか会えない。特に俺はまあ、義孝の手伝いなんてろくでもない仕事をしているから、とんでもないことに出くわすことは割とあるほうだし。だから去年と変わらず、話はお互いの近況になっていく。


「――――司さん、そんなことしたんですか?」

「うん。そうしないと、いつまでも言いあってそうだったから」


 夕食を食べ終え、食後のお茶を飲みながら話は続く。これも夏らしく、麦茶。去年『夢硝子ゆめがらす』で買った、矢車草の鮮やかな青のグラスに注いで梓に手渡す。

 グラスを受け取った梓は、少し曇り顔だった。


「でも、失敗したらそのあやかしさんたち、もっと暴れてたんじゃないんですか? 司さんだって大怪我だったでしょうし」

「まあね。でも一応、上手くいくと踏んでたんだよ。あいつらは感情的になってたし、俺が歩いたところはまだ道が広かったから。……それに」


 と、グラスを置いて、俺は梓の頬に触れた。わざと顔を近づけて、笑ってみせる。


「怪我したらしたで、君は見舞いに来てくれるんだろう?」

「……っ」


 たった一言。それだけで梓はたちまち赤面した。うろたえて視線をさまよわせた後、恥ずかしそうに少しだけ俯く。ぎゅっと引き結ばれた唇、力がこもったグラスを持つ手。そうした仕草が嬉しくて、俺の頬は自然と緩む。


「し、しますけど……でもやっぱり、司さんが危険なことしてるのは怖いです」

「わかってるよ。俺も痛いのは嫌だし、何より君に泣かれたくないしね。できるだけ軽い怪我で済むようにするよ」

「……本当に、軽く、にしてください」


 俺に頭を撫でられながらそう言って、梓は恥ずかしさをごまかすようにグラスに口をつけた。真っ黒な髪が細い肩を包む空色の上着の上を流れ、簪も合わせて揺れる。


 綺麗な色をした唇が濡れた。まだ頬をほんのりと赤く染めたまま、俺を窺うようにねだるように、上目遣いで見つめてくる。

 俺は生唾を飲み込んだ。


 やばい。ものすごく可愛い。


 梓は俺の怪我を心配するけど、俺からすれば、梓のこういうところが心臓に悪い。会うたびに可愛くなっているし、気づいたら無茶をやらかしているのも血の気が引くけど……無自覚で可愛くなるから。いつやられるかわかったものじゃないから、そのときになると余計にくるものがある。


 思わず手が伸びそうになって、けれど俺はぎゅっと手を握って我慢した。いくら付き合っているといっても、合意もなく女の子にあれこれしようとするなんて駄目だろ。グラスを持ったままなのに何かしたら、お茶をこぼしてしまうだろうし。


 とはいえ俺も男だから、こういうときに何かしたくなるのはとても自然なことで。


 梓の膝裏に腕を差し入れ、背にも回して。俺は目を白黒させている梓を持ち上げた。開けた足の間に置いて、後ろから抱きしめる。

 梓が息を詰め、身体を緊張させたのが全身から伝わってくる。手を繋ぐのは当たり前になったみたいだけど、梓はまだこういうの、慣れていないっぽいんだよな。……戸惑っている様子が可愛いから、慣れなくてもいいけど。


「嫌?」

「…………嫌じゃ、ないです」


 さっきよりもさらに赤くなって、梓はふるふると首を振る。俯いて、長い髪で横顔どころか耳も隠そうとする。――――ああもう、まじやばい。


「……………………司さん。さっきの、ちょっと怒ってます?」

「まさか。君が義孝に対して無防備なのは、今に始まったことじゃないだろう? まあそりゃ、ああなる前にあいつから逃げてほしいけど。俺の彼女なんだし」

「……」


 反省しているのか、なんなのか。俺がわざと爽やかに言ってみれば、梓は無言を返してくる。うわああやっぱり怒ってるよ、と内心で冷や汗を流してそうな雰囲気だ。梓は本当に感情豊かで、わかりやすい。

 グラスをテーブルに置くと、梓は半身を俺のほうに向けてきた。


「司さん……ほんとに、義孝さんは私たちをからかってるだけですよ? あの人、人をからかうのが好きなんですし……」

「わかってるよ」


 困りきった表情と声に応え、俺は梓を抱きしめる力をほんの少しだけ強めた。それでも何か足りなくて、頬に手を添える。――――キスをする。

 梓が驚いたのが、身体の動きでわかる。でも暴れるわけがなくて、戸惑いがちに俺の服を掴む。

 理性が飛ぶ前に唇を離すと、梓は首筋まで真っ赤になっていた。


「……やっぱり怒ってるじゃないですか」

「怒ってないよ、ほんと」


 上目遣いの梓に、にっこりと笑いかけながら頭を撫でる。そう、別に怒ってはいないのだ。これはただのやきもちなのだから。


 口が裂けても言ってやらないけど、義孝は魅力的な男だ。顔はいいし、強いし、面倒見もいい。何より、女の人に対してどういう扱いをしているのを見てきた俺からすればありえないほど、あいつは梓に優しい。梓のことは信じているけど、普通の女の子ならくらっときても仕方がないとは思う。


 もちろん、俺で遊ぶのも兼ねてあいつは梓をからかっているんだってわかっているけど……それでも、ああもべたべたされたらいらっとするのは当然だろう。人の彼女のほっぺたにキスとか、何考えているんだあいつは。ここは日本だっての。


 俺たちの絆の始まりはとてもひどいもので、けれど梓は馬鹿な俺を許し、ひたむきに慕い続けてくれた。そんな彼女の心の広さと優しさに、何度救われたことか。彼女に選んでもらえたことは、俺にとっては奇跡と言っていい。


 けど、俺はそれでもまだ余裕なんか全然なくて、信じていても、梓がいつ離れてしまわないかって不安が心のどこかにある。この不安を失くすには、二人きりで過ごす時間は全然足りない。


 …………ああ、本当に俺は梓に溺れている。沈みすぎて、もう戻れないくらいに。


「好きだよ、梓」


 だからどうか、俺を置いていかないで。

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