早くおいで ―茨木静―
白木の扉を押し開けると、岩屋と呼ぶに相応しい仄暗い景色は一変した。
雲ひとつない蒼天には色とりどりの魚たち、流れる川には宝石の如き鳥たち。木々は緩やかに吹く風に枝葉を鳴らし、雲海の下から吹き上がっては宙を漂う命の欠片たちもまた楽を詠う。――――麗しき、愛しき我が領地。
人の世で暮らすようになって、もう随分経つんだけどねえ。やっぱりここの空気は格別だね。あたし自身だけじゃなく、この身体を流れる神の血も喜んでいるのがわかる。
領地を川沿いに歩いていると、民たる魚や鳥たちがあたしに寄ってきた。数百年ぶりの領主の帰還を喜ぶ彼らに、あたしはつい頬を緩ませる。ああ、可愛らしい。
「久しぶりだねえ。ここは変わりないかい? まあ、変わるはずもないけど」
何しろ月読命が織り成した障壁に加え、
ゆるりと風が吹き、髪と裾を乱していく。それさえも嬉しくて、あたしは上機嫌でその場で回転し、裾を風に遊ばせた。
――――と、草を踏み駆けてくる足音が聞こえてきた。
「
「
振り返れば、息を切らせず駆けてきた巨躯がそんな詫びを入れてくる。相変わらず、律儀な男だ。あたしがそんなに時間を気にしない性分だっていうのは、知っているくせに。
あたしは堪えきれず、口元を緩ませた。民たちの輪から抜けだし、陽に抱きつく。
「構わないよ。あたしもさっき着いたところさ」
言って、あたしは厚い胸に頬をすり寄せる。陽は一瞬息を止め、それから大きな息をつき、あたしの頭ごと抱き寄せた。
でも、それだけだ。他には何もしてくれやしない。それが不満で、あたしは背伸びして陽の首に抱きついて、口づけた。重なるだけなんて物足りない。深く――――――――深く。水中で空気を求めるように。離れていた分、何度も何度も、想いを注ぐ。
また硬直した身体は、それでもおずおずと太い腕をあたしの背中に回される。あたしはようやくほっとした。嬉しくて、もっととねだって口づける。
まったく、陽は奥ゆかしすぎる。何度も――――それどころかこれ以上のことなんていくらでもしているというのに、自分からはなかなかしてくれない。このあたしの旦那なのだから、もっと男らしく積極的になればいいのに。
長い口づけを終えると、陽は私の頬に手を添えた。
「――――――――積極的すぎやしないか?」
「何を今更。こんなのはいつものことじゃないか。それとも嫌だって言うのかい?」
わざと拗ねたふうに言ってみれば、いやそんなことは、と陽は困った色を浮かべて目をわずかに逸らす。頬は、ほんのりと赤い。
――――ああもう、照れちゃって。可愛いんだから。顔がほころぶのを止められない。
「ならいいじゃないか。あたしはあんたの嫁で、あんたはあたしの旦那なんだから」
「――――そうだな」
あたしの笑みと言葉に釣られるように、陽の顔が緩んだ。やっと、自分からあたしに顔を寄せてくれる。
それぞれに色づいた水を湛えた、龍の鱗のような白い岩の連なり。透明な
とは言っても、あたしのほうは話すことなんて特にない。馬鹿な男がこの身体につられてやって来たのを軽くひねってやったとか、ぬらりひょんに絡まれたから喉首を蹴り飛ばしてやったとか、そんなつまらないことばかりなのだから。そんなの、こんな大切な時間に話すようなことじゃない。
ああでも、
「――――じゃあ、村は相変わらずなんだね」
陽のほうも退屈な毎日だったようで、特にないの一言だ。ま、この人があれこれと饒舌に話すことはまずないけれど。口数が少ないこの人に語ってもらうのは、至難の業だ。
何にせよ、あの村が平和なのはいいことだ。あたしと陽が忠憲と出会い、彼の死後、しばらく過ごした場所だもの。子供たちが眠る場所だし。他の場所よりは、多少は思い入れがある。
あたしの確認に、陽は何故かむ、と眉根を寄せて黙りこんだ。
「? どうしたんだい?」
「……一つ、いや二つ、気になることがあってな」
「?」
「……忠憲の生まれ変わりを、店で働かせている」
――――――――
陽が打ち明けた事実に、あたしは瞠目した。
「あんたの店に? それはまた……とんでもない縁だね。生まれてるのは知ってたけど、よりによってあんたの店に行くとは」
「
「……忠憲の? そいつはまた、厄介だねえ」
何しろ陽が言いたいのは、腹黒いのか無邪気なのかついにわからなかったあの男の、術者としての実力のことじゃない。八咫烏の力――――神仕込みの封印すら容易く解く、導きの力のことだ。この領域への直通口である世界のひずみを封じたあの地区に、その力の持ち主がいるときているのだから、泉守の鬼として、聞き流していいわけがない。
「調べた限りだと、百五十年ほど前に村へ移住した、あいつの末裔のようだ。幸か不幸か、術者の知識も力もない。それどころか、自分が忠憲の末裔だということすら知らない様子だ。俺の店があやかしの溜まり場だということにも、気づいていない」
「ちょっとあんた、普通の女子高生だっていうのに、あの店で雇ったのかい? なんでまた」
「……」
あやかし連中に目をつけられたらどうするんだい。という意味でねめつけると、陽は渋面で無言になった。そりゃそんなこと、あたしに言われなくてもわかっているだろうさ。だから今までだって、人間の小間使いを雇わなかったわけだし。
となると。
「ねだられたのかい」
「……八咫烏が睨んできたんだ」
「なんだいそりゃ」
「
両腕を組み、ため息混じりに陽は言う。おやおや、この様子からすると、かなり熱烈に惚れているみたいだねえ。
それにしても……人間の小娘に求愛する烏の若造なんて! 想像するだにおかしくって、あたしはこらえきれずに吹き出してしまった。
「そりゃ確かに、忠憲の生まれ変わりだろうね。あいつもかなり、けだものに懐かれる男だったし。……けど、あの男の生まれ変わりが、よりによって女なんてねえ……しかも、八咫烏に惚れられるなんて……」
ああ、おかしいったらありゃしない。まったく、腹が痛くなるじゃないか。
『あ、ここ、君たちの領地だったりする? ごめんねー、勝手に入って。世界のひずみなんて初めて見たし、中に入ってみたら変わった扉があって面白そうだったから、つい入っちゃった』
忠憲は、自分を殺そうとしている鬼に対して、そんな軽いノリの笑顔で謝る男だった。人間のくせに、異界の空気の中でも平然としていて。あんまり軽いもんだから余計に腹が立ってぶっ飛ばそうとしたんだけど、それすらかわされて……あの頃はほんと、癪に障る男だったもんだ。
そして、あたしらが変若水の守人で人の世へ行ったことがほとんどないと知ったら、たまには気分転換しなきゃとか言って、強制的に人の世へ連れだした。破天荒。年をとってからは丸くなったけど、そんな言葉が似合う男だった。
だというのに……女だって? そりゃ業を受け継いでいるだけで、心はまったくの別物だけどさ。でもあの忠憲の、と思うと正直、違和感しかないよ。
ひとしきり笑って、あたしは息をついた。
「ま、八咫烏の導きで雇ったのなら、仕方ないね。せめて、店の中だけでもその子を守ってやりなよ。あやかし連中に目をつけられたら面倒だ」
「……それにも関わることなんだがな」
「? なんだい、まだ何かあるのかい?」
「……」
両腕を汲んで陽はため息をつく。本気で困っているその様子に、あたしは眉をひそめた。
そしてあたしは、暇潰しを兼ねてやっていたガラス細工屋を、今は地区と呼ばれている村で開くことにした。
ガラス細工を作るのは好きだ。半透明に色づいたガラスを熱し冷まし、形作り刻み、彩り、整える。この手で美しい物を創りあげていく労苦と、達成感。果てることのない、技の極み。はるかな寿命と月読命に与えられた泉守の役目を一時でも忘れる時間は、陽といられる時間の次に愛しい。
「――――さて、こんなもんでいいかね」
店の外へ回り、ガラス棚に置いた龍の置き物の具合を確かめて、あたしは一人呟いた。
商店街へ続く路地にある空き店舗に目をつけて、しばらく。面倒なあれこれが一通り終わり、ようやく今日、開店できるようになった。あたしが初めて見たときの、古臭い空き店舗の姿はもうどこにもない。あたしの趣味でいっぱいにした、あたしの店だ。
この新しい店の中で、若い娘たちが目をきらきらさせて店内を見回している様子を想像し、あたしは自然と口元を緩めた。
今度の店の品揃えは、簪や古めかしい意匠のものを多く揃えてみた。この地区は年をとったのが多いし古臭い街並みを目当てにした観光客が来るし、何より忠憲の生まれ変わりだという娘は、古めかしいものを好むのだというからね。若い子たちの間で評判になれば、いずれこの店に興味を持って来るだろう。
ただ、問題があるんだよねえ。
あの子の末裔が、忠憲の生まれ変わりの娘――梓に何かするかもしれないと、陽は心配していた。その坊やは自分が傷つけてしまった女を癒すために変若水を欲しがっていて、梓が力を持っていることに気づいているかもしれないから。……何を思いつくかなんて、考えるまでもない。
最悪の場合は、ぶちのめさないといけないかもしれないねえ。あたしの末裔と言っても人間の血が濃いらしいから、加減はしてやるけど。まあ、骨の五本くらいは覚悟してもらおうか。
仕方ない。鬼の主にちょっかいを出そうとするのが悪いのだ。その報いは自分で受けてもらわなきゃ。それが因果応報ってもんだ。
そう、契約の因果は受け継がれる。契約の呪はあたしたちの魂に刻まれていて、薄れ滅びるまであたしたちを縛り、繋ぎ、前世に報いる時を待ち続ける。それが、因果応報というこの世の真理の一つだ。
それに応じる義務はない。けれど、乗ってやるのも一興。可愛いものは好きだもの。可愛いものを愛でて飾るのは、ガラス細工を作るのと同じくらいに楽しいひとときだ。
「さあて、ひと眠りするかね…………」
子飼いのあやかしにも手伝わせたとはいえ数日前からばたばたしていて、さすがに少々疲れた。いくら人間より頑丈といっても、限度ってもんがある。一応開店してはいるけど、まだ客も来ていないし、少しくらい眠っていてもいいだろう。
首を巡らせば、商店街の十字路が見える。わざと古臭いままにした街並みは、観光の時期を過ぎているからか人通りが少ない上、その少ない行き交う人々もこっちに目もくれない。幟を立ててないから当然なんだけど。
これじゃ、あの子は見つけにくいかもしれないねえ。けどまあ、いざとなりゃ陽の店に行けばいいんだし。待っていて会えないなら、それもまた縁だ。
「早くおいで、
祭りまでに来たなら、黒い髪に似合う、とびきり綺麗な簪をあげるから。
口の端に笑みを乗せて、あたしはまだ誰も来ない店の中へ入った。
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