失われえぬもの ―伊月義孝―
――――俺の口の端が上がったのは、仕方ないだろう。
純血の鬼にしてやるんだからその分働けと青の始祖に服の襟を引きずられ、あやかし御用達のガラス細工店『
梓は俺と目が合うや、げ、と顔を引きつらせた。やば、とかやっぱりいた、とかいった思考が書いてあるような顔だ。実にわかりやすい。
この小娘と顔を合わせるのは、狭間の世での一件以来、初めてだ。
いつぞやと同じ反応が面白く、俺の口の端がつい緩む。それを見てか、梓はますます嫌そうな顔をした。渋々といったふうで口を開く。
「……こんにちは」
「こんにちは。こんな時間に買い物をさせろと言われても、断るぞ?」
「わかってます。用事が済んだらすぐ帰ります」
「なら中へ入れ。どうせ、俺か青の始祖に用なんだろう?」
ここで話をすればいいだけだが、辺りはもう暗くなってきている。それに、ここで話すだけでは俺がつまらないのだ。退屈な仕事をさせられていた気晴らしをこの小娘でするのは、きっととても楽しいに違いない。
俺が店の中へ入ると、梓はついてきた。店内を見回し、目を瞬かせる。
「……
「青の始祖は外出中だ。あと二日は帰って来ないようだぞ」
言いながら、俺は店の内側からシャッターを下ろした。耳触りな音が、小路と店を遮断していく。遠くから聞こえていた車の音が、完全に失せる。
さらに引き戸を閉めて、鍵をかける。振り返ると、梓は商品棚ではなく俺のほうを見ていた。どうということのない一連の作業が終わるのを、大人しく待っていたらしい。
緊張も俺への警戒心も見当たらない様子に、俺は内心で呆れはてた。
誰もいない密室へ、ろくに知らない、つい最近自分をさらったばかりの男に誘われるまま、のこのこ入って来た。この扉はもちろん勝手口も閉めてあるから、逃げ道はない。叫んだところで、助けが来るはずもない。……危険だと、思わないのだろうか。
……思わないんだろうな、この女は。狭間の世でも俺に寝顔をさらしかけたくらいなのだから。始祖たちの主だった
その能天気さを逆手にとってからかうのは面白いに違いないが、まず用件を聞いてやろう。そう考えて、俺はとりあえず、気晴らしを後回しにすることにした。
「で、用件は?」
「……これを渡しに来たんです」
言って、梓は学生鞄から取り出したものを俺に差し出した。この女が、俺に渡したいものとは。意外な用事に内心疑問を抱きながら、俺はその一枚の紙きれを受け取った。半透明の小さな袋からそれを取り出す。
…………一瞬、思考が止まった。
「……あんた、これをどこで?」
「うちの蔵です。空気の入れ替えをしようとしてたときに、棚に置いてた文箱を落としちゃって……その中に入ってました」
後で祖父に聞いたら、曾祖父が片付けたものの一つだって言ってました。梓はそう説明を補足した。
梓が俺に差し出したのは、二人の男を写した一枚の写真だった。薄茶けた色の上に所々色が剥げた、長い年月を感じさせるもの。
写真の右側で正面を向いて立っているのは、着流し姿の俺だ。写真では周囲同様褪せた色になっているが、実際に着ていたのは濃紺だったはず。顔はため息をつきたくなるくらい、今とわずかも変わっていない。せいぜい、髪型が今より多少短い程度だ。
そして、同じく着流し姿で木の椅子に座っている、壮年の男は――――――――
「……座ってる人は、
「……ああ。
写真に目を落としたまま、俺は何も考えずに答えた。
この写真を撮ったのは、そう、都会へ出て何年かしてからのことだっただろうか。くだらない喧嘩沙汰がきっかけが知りあった役所勤めの男にイギリス人の男を紹介され、どういう経緯だったかは忘れたが、そいつが持っていたカメラで写真を撮りたいと言われたのだ。当時、待っているだけでガラスに写るものをそっくりそのままを写し取る道具の存在は知っていたものの、田舎者の俺と義貞にとって写真はまだまだ珍しく、断る理由もないから撮らせてやったのだった。
その一枚はしばらくして、当のイギリス人が死んだからと俺に譲られた。が、いつまで経っても変わらない自分の写真を持っていても仕方ないのだ。義貞も自分が持っていてもと笑ったから、近況を知らせるのも兼ねて同族――神職の
俺の説明に、梓は首を傾けた。
「……それなら、なんでうちにあるんですか?」
「知るか。まあ、
「妙? 誰ですか?」
梓の問いが重ねられる。俺は写真から顔を上げて、彼女を見下ろした。
「お前の先祖だった女だ。当時、お前の家はあいつしか継ぐ奴がいなかったからな。今の……そうだな、商店街のほうに建っていた農家の三男が婿養子に入ったはずだ」
「あー、そういやあっちのほうって、昔は田んぼなんでしたっけ。戦後に潰して商店街にしたって聞いたことあります。……昔のこと、よく覚えてますね」
「ああ、自分でも驚いてる。……もう、思いだせないと思ってたんだがな」
深い息と共に、思わず苦笑が漏れた。
右の泣きぼくろが色っぽいと村で評判の中年女が、一枚の紙切れのことでがたがたわめている様子が目に浮かぶ。うんざり顔で手渡す、髭を豊かに蓄えた神職も。やりとりを見て苦笑する、三人の中年の男女もだ。さらには、六人で能天気に遊んでいた頃のことも。
……おかしなものだ。ろくに思いだすことがなく、思いだそうにもぼんやりとしていた奴らの顔が、たった一枚の紙切れをきっかけにはっきりと思いだせたのだから。その写真に、当人たちの姿は映っていないというのに、だ。語るほどに彼らの輪郭は鮮やかになっていくのだから、さらに不思議だ。
「司には見せたのか?」
「いえ、昨日見つけたばかりで……今日は伊月先輩のシフトじゃないですし。それに……先に、貴方に見せたほうがいいと思いましたから」
どうすればいいか困った挙句とでもいうような顔と声で、梓は言った。
俺は思わず、この思いやりに目を瞬かせた。どういう思考でそんな結論になったのかと考え、愉快な気分になって両腕を組む。
「なんだ、俺に同情でもしたのか?」
「別に、そんなのじゃないですよ。貴方が写ってる写真をうちの蔵に置いててもどうしようもないから、渡そうと思っただけです」
答えにならない答えを返し、梓はぷいとそっぽを向く。その横顔は、苛立ちや羞恥が駄々漏れだ。この小娘には、感情を隠すという発想も技術もないらしい。
司がほだされるのも、これなら当然か。狭間の世での養い子の反抗に、俺はようやく得心がいった。先日あいつがふっきれた顔をしていたのも、事実を打ち明けたからという以上に、この深く優しい情を惜しみなく与えられたからに違いない。
「それ、伊月先輩にもちゃんと見せてあげてくださいね。その一枚しかないんですから」
「さて、どうするかな。元々は俺のだしな」
梓がまず俺に写真を見せに来たと知ったら、司はどんな反応をするだろう。どういう形であるにしろ、あいつはこの小娘を気に入っている。からかうのはきっと楽しいだろう。
この人に見せたの失敗だったかも、とでも考えていそうな顔は、けれどそんなことを言わない。用事が済んだからと、失礼しますと言って無愛想に俺の横を通り過ぎようとする。
「勝手口は閉まってるぞ。開けたら狭間の世か、あやかしの溜まり場になるだろうな」
店内から出て行きかけたところで忠告してやると、梓の足はぴたりと止まった。振り返り、のんびりと近づく俺に疑心の目を向けてくる。――――まったく、遅すぎる。
「勝手口を閉めてるんだったら、なんでシャッターと引き戸を内側から閉めてるんですか」
「さあ、どうしてだろうな」
言って、俺は梓に手を伸ばした。俺の手が頬に触れ、彼女はぎょっとして慌てて後ずさる。
「へ、変なことしたら、伊月先輩と静さんと店長に言いつけますからね!」
「なら、言う気をなくさせればいい話だな」
そう俺は細い手を掴み、わざと指を絡めた。さらに、腰に腕を回して引き寄せる。
だが、これでもまだ、俺に対する警戒心はわずからしい。顔を赤らめも緊張もせず、何するんですか、と眉を吊り上げ、俺を睨みつけて俺から逃げようとするばかりだ。狭間の世でのときと、まるで変わらない。
子供というか、なんというか。たまらず俺は梓を放し、肩を揺らして笑った。
「安心しろ、子供で遊ぶ趣味はない」
「今のはどう見ても、私で遊んでるようにしか見えませんけど」
そんな恨み言が聞こえてくるが、俺は頭を撫でてやることで答えにする。ああ、遊んでいるとも。他の意味で遊ぶつもりがないだけだ。
ひとまず満足した俺は、そのまま店の奥へ行き、青の始祖に教えられた呪文を唱えて勝手口の取っ手を捻った。わずかな浮遊感がして、扉の向こうが商店街の路地裏に繋がる。
外へ出てみれば、空は天ばかりが青く、際は一部だけが燃えるような赤と橙と黄金に染まっていた。地上は薄暗く、建物から漏れる明かりが路地裏を明るく照らす。
「じゃあ、失礼します。さようなら」
「おい、待て」
一礼して今度こそ俺から逃げようとした梓に声をかけると、彼女は訝しそうな顔で俺を振り返った。
「……何ですか」
「次の休みはいつだ」
「……なんで貴方に教えなきゃいけないんですか」
不審そうに梓は言う。さすがに警戒しているか。まあ、それでもごくささやかなものだが。
「服を弁償しろと言ったのは、どこの誰だ?」
「そりゃ言いましたけど…………」
そう口を尖らせた顔は、まだ俺の意図を疑ったふうだ。しかし目は忙しなく動き回り、思案していると明らか。眉根を寄せ、どうしようかと迷っている。
これは落ちるな。確信して、俺は口の端が上がるのを抑えられなかった。
それから司の家へ行って少々遊んでやって、先日即金で買ったばかりの家に帰る。神社にほど近い家だ。俺がこの地で五鬼と名乗っていた頃に住んでいた、桜の太い枝ぶりが見事な生家。
ほんの五年前まで人が住み、修繕はされても改築されはしなかったというだけあって、家の間取りは俺が住んでいた頃とまったく変わっていない。設備や調度が違い、庭の細かった桜がすっかり育ち、新しく楓が植えられているから、そのあたりで少し戸惑いがあった程度だ。
食事と風呂を済ませ、人心地ついて居間の縁側に腰を下ろす。眺める夜景は、遠い昔よりも地上がずっと灯りが多くなっているが、根本はそれほど変わっていない。田畑と深い山々が広がる、田舎の景色だ。
始祖の店で買った小豆色のグラスに注いだ地酒を煽りながら、俺は写真を手にとった。藍染めの浴衣を、夜風が撫でていく。
この写真を送ってからしばらくして、妙から近況――義宗や離縁した妻の訃報が返ってきた。その後、妙から手紙が来たのは一度だけ。次は彼女の子供から、彼女の訃報を伝える手紙が来て……その頃には義貞もとうに病死し、俺は変わらず若者のままだった。
あれから百年以上、か……………………道理で、あいつらと似ていない子孫がいるわけだ。特に梓。容姿も性格も、色香が欠片もない。妙は、妖艶な容姿と声で村の若衆を虜にしたというのに。
まあまだ男を知らなさそうだし、これから育つのだろう。あれではあまり期待できないが。喉を鳴らし、俺は地酒を一気に飲み干した。そして、写真を飾るものをどうするかに思いをめぐらせる。
この写真に似合う枠はなんだろう。ガラスやアルミは違う。黒か木目が妥当か。だが黒は……遺影のようだと嫌がりそうだな、義貞なら。なら木目か。焦げ茶よりも暗い、胡桃色がきっと似合う。
『こんな狭いとこでも結構きついことあるんや。人がようさんおる都会で長生きしたら、それだけやなもん見るはめになるんやろうけどなあ。でもその代わり、綺麗なもんだってたくさん見られるんやろうから、おあいこや』
『人生、長かろうと短かろうと、楽しめるだけ楽しまんと損やろ?』
村を出ていく前日の夜に、看取った朝に聞いた声がよみがえる。顔を思いだせなくても忘れられず、俺が苦境に立つたびに脳裏に響いた、死者たちの言葉。
俺の身体はもう人のくくりを超え始めていて、いずれは始祖たちと同じ純血の鬼となり、長い時を生きていく。こうして昔を懐かしむ心のありようも、かぐや姫が衣一つで感情を失ったように、我が身の変質と共に変わってしまうのかもしれない。
それでも、この苦楽に満ちた世界で生きていくことに、明日が未知であることに変わりはない。ならば、今までの――――伊月義孝としての生き方を変える必要などどこにもない。
世界を埋め尽くさんばかりに転がっている醜いものの狭間に、見ていて飽きない、とても面白いものがいくつもあるのだから。
「ああ、楽しまないとな」
地酒をグラスに注ぎ、今は亡き者たちに向けて、俺は夜空を仰いで呟いた。
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