君が好きだから・下 ―雪消―
俺と
その日、俺は無礼なあやかし連中とやりあっていた。もちろん、たこ殴りされたわけじゃない。むしろ返り打ちしてやったさ、それはもうぎったぎたに。半人前でも、俺は
でもあいつらは弱い分、数で押してきたから多勢に無勢、俺は無傷でいられなかった。なんとかその場を離れたのはいいものの、腹の傷が思いの外重く、山の中でとうとう力尽きてしまった。
そこに現れたのが、梓だった。
彼女の気配を感じたときは、とうとう死ぬのか俺、と思ったままだった。遠い同族だってことは気配ですぐわかったけど、所詮は人間なのだ。術者でない限り、俺を同族と認識して助けてくれるとは思えない。下級の奴らにやられるなんて末代までの恥とか熊野の奴らに言われるなあ、と諦めきっていた。
けれど気配の主――――梓は俺の予想を裏切って、俺の身体を優しく抱き上げた。そして、ぐったりしている俺に、こう言ったのだ。
『もう少し、頑張って。うちに救急箱あるから』
その言葉は正しく、意識を手放した俺が次に目覚めると、俺の身体は丁寧に治療されていた。俺が横たえられていた、何枚ものタオルと新聞紙を重ねた寝床のすぐ横には、真っ白な布団にくるまった梓の寝顔があって。不思議と飽かずに眺めているとやがて寝ぼけ眼が俺を見つけ、嬉しそうに笑った。
それから、俺は梓の部屋で日々を過ごした。
『ねえ、
ガラス障子を閉めた縁側に腰を下ろし、雪をあちらこちらに残す景色を眺めながら、梓はそんな名前を腕の中にいる俺に提案してきた。あれは実に不思議だったなあ。雪消なんて言葉、普通は十かそこらの子供が知っているもんじゃない。八咫烏に連なる由緒正しき血筋と言っても、今はただの農家だし。親父さんのもんだっていう、風景写真と昔の言葉を載せた写真集を見るまでは謎だった。
『はい雪消。あーんして』
『ただいま、雪消。今日もいい子にしてた?』
『雪消、お友達が飛んでるよ。貴方も早く治るといいね』
何度も何度も。梓は自分がつけた俺の名を呼び、俺に触れ、声をかけた。それが俺を癒す方法であるかのように、笑顔を向けた。
それから梓は、家族に任せず、自分で俺のことを世話した。色々なものを使って烏の飼い方を調べて、朝起きてから学校へ行き、家に帰ってきてから寝るまでも。飽きることなく。……見返りなんて何もないのに。
梓が古い新聞紙を丸めて作った、窮屈で玩具のような巣もどきはとても暖かった。梓のそばは、とてもとても居心地が良かった。
俺には巣があると、生まれて初めて思った。
『大丈夫、貴方は飛べるよ』
梓はそう笑って、傷が癒えた俺を森へ返そうとしたけど、俺はまだこのままって心のどこかで思ってた。だって俺は梓にとってたまたま助けた烏でしかなくて、嘴の傷を見れば雪消だってわかってくれるだろうけど……梓のそばにいられなくなるのは嫌だって、思ってしまったんだ。
わかっている。これは、誇り高き八咫烏一族の末席にあるまじき思いだ。八咫烏はいつでも世界を高みから見下ろす、自由な翼でなければならない。はるか古に血を別った人間なんかに心を留めちゃいけないのだ。
――――――――でも、梓のそばの居心地良さを忘れることはできなかった。
梓のそばにいたかったんだ。
熊野を離れようって結論が出るのに、そう時間はかからなかった。
まあ俺、一族の本当に端っこにいるだけの一羽烏だからな。まだ若鳥だし。負うべき役目とか、しがらみなんてものはない。その点は一羽烏の強みだ。
そうしてこの地に巣を作り、力を身につけるべく修行しながら、時折梓のもとに通う日々を俺は過ごした。過ごしたわけだけど――――
「まだ人間になれねえのかよお……」
その昔修験行者が通っていたという奥山の崖で、今日も今日とて天地の霊気を身にまといつかせようとしていた俺は、散々な結果にがっくりと肩を落としたくなった。
これでも、修行に手抜きしたりなんてしてないんだぞ。毎日奥山で天地の正常な霊気を浴び、奥宮から狭間の世へ行って、異界の空気をたっぷり吸っているんだから。以前と比べて、ちょっとは力が増している感覚はあるのだ。
――――なのに、まだ人身をとることはできない。梓に求愛なんて、夢のまた夢だ。
それが、俺の目下の悩みだった。
この五年で、梓は成長した。そりゃまだ身体も精神的にも未熟なところはあるけど、色気づいた同年代の野郎どもが気にするのに充分な程度だっていうのは、空から見ていればわかる。明るくて優しくて、気取ったところもないしな。八咫烏も人間も、そういうのに弱いところは同じだ。
まあそんな奴らは、梓が全然気づいてなかったり振ったりしていたからどうでもいいんだが――――――――
まったく梓も、なんであんなのに惚れるんだ。
それに……司は駄目だ。あいつは異界や
くそ、せめて人間の言葉を話せたら、あいつは悪い奴だから近づくなって梓に警告できるのに。梓は混乱するかもしれないけど、言わずにいられるか。
ああもう、腹が立って仕方がない。今度、司を見つけたらとりあえずつついとこう。そう心に決めて、俺は怒りを感情に乗せて吐き出した。雲が多い空を見上げる。
「……梓、何してるかなあ」
今日、梓の家は米の収穫作業をしている。梓も手伝っているのだろうか。……手伝わされてそうだなあ、あそこのばあさん、厳しいし。収穫の後の、奥宮への奉納もさせられているかもしれない。
あ、それならしばらく梓と一緒にいられるな。よし、行ってみよう。もし司と一緒だったら、つついてやる。
そう考え、翼をはばたかせたときだった。
「八咫の坊さまー! 大変ですー!」
俺のものじゃない翼の音と共に、騒々しいだみ声が森に響き渡った。
『八咫の坊さま』なんて名で俺を呼ぶのは、この地にねぐらを置く烏に決まっている。末席でも俺は霊鳥、ただの烏とは格が違うからな。
なんだよ、梓のところに行こうとしたのに。いらっとした俺は、文字どおり飛んできた烏をぎろりと睨みつけた。
「何が大変なんだ、しょぼい用だったら蹴るぞ」
「大変ですよ!
木の枝に止まるか止まらないかで翼をばたつかせ、烏は告げる。
俺は一瞬、考えることを忘れた。
賀茂のお嬢、と呼ばれ慕われているのは一人だけだ。この地区に棲む鳥や獣で、梓を知らず、慕わない奴はいない。
司が梓を抱き上げ、梓を労わりながら俺の後ろをついてくる姿が不意に浮かんだ。帰ろうとする梓の手を掴み、自分がしたことなのに驚いている顔も。嫉妬する俺を呆れた顔で見下ろしながら、箒を倒して梓のそばにいさせてくれたことも。
だから……当人に絶対に言ってやるつもりはないけれど、性根は腐っていないと思っていたんだ。噂とは少し違う奴かもしれないって。
だっていうのに――――あれもこれも全部、嘘だったっていうのかよ。
「あの野郎……! やっぱ梓を騙しやがったのかよ……!?」
「ち、違います! いやわかんないですけど、お嬢を連れて行ったのは優男のほうじゃないです。鬼の血が強いほうですよ」
いきりたった俺が即刻飛び立とうとすると、木の枝に止まった烏はそう慌てて訂正した。ばさばさと激しいはばたきで、羽根が一枚抜けて宙を舞う。
そのおかげでほんの少しだけ、俺は冷静な思考を取り戻した。
鬼の血が強い半端者……っつったらあいつだよな。最近この地区へやって来た、泉守の先祖返りの奴。人間なのに自分の始祖に似た気配を漂わせていて、上空からでも目につくから嫌でも覚える。
「どうしますよお、八咫の坊さま。あいつ、やばいですよ。遠くの町で、あやかし連中の首領をしてるって話ですし。山の鬼さまの大太刀も盗んでるかもしれないですし……俺たちもう怖くって……」
「あのな、少しは落ち着け。梓は山鬼たちのお気に入りなんだぞ。あの野郎だって、自分の先祖をそんなに刺激したくないだろうしな。商店街にいる山鬼たちに、このことを知らせたらいい話だろうが」
「そ、それはそうですけどお……」
あたふたする烏にびしりと言ってやるのだけど、烏はまだぐだくだと言おうとする。何を言ってやがるこいつ。梓の危機なんだぞ。
苛々した俺は、一睨みで黙らせた。
「わかった、山の鬼には俺が知らせに行く。お前は他の奴らを大人しくさせてこい」
「はっはいっ! ありがとうございます!」
言ってやれば、烏は目に見えてほっとしたような顔になった。ふん、やっぱりびびってたんだな。ただの烏でしかないこいつらにとって、人間の世に紛れている山の鬼たちは畏怖の対象だからな。俺のところへ来たのも、俺に泉守の鬼たちへ伝えてほしいからに違いない。
まったく、この臆病者どもが。内心で毒づき、俺は今度こそ翼をはばたかせた。
待ってろよ、梓。俺が助けに行くからな!
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