窓の向こう ―伊月司―

 ズボンのポケットに入れていた鍵を回し、焦げ茶色の重い扉を引くと、そろそろ慣れてきた音を連れて無人の部屋が俺を迎え入れた。


 地区の中では多分二番目くらいに賑やかな駅前にある、建て替えたばかりだというアパートの端の部屋が今の俺の家だ。トイレと風呂は分かれていて、それなりに広く、ロフト付き。一人暮らしには充分な広さだ。正直、こんな古き良き日本そのままの田舎で、こんな良物件が見つかるとは思わなかった。


 玄関を上がり、キッチンに手に持っていた袋を置く。冷蔵庫からペットボトルを取り出して、コップに入れずお茶をそのまま飲んだ。冷たい液体が、喉を通りすぎていく。


 風呂の用意をして、今日も自分で夕食の準備をする。まあ準備と言っても、商店街の総菜屋で買ったできたてのトンカツと海老カツ二つ、ポテトサラダを皿に乗せ、インスタントの味噌汁に湯を注ぎ、これまたインスタントのご飯を温めるだけだからあっという間だ。バイトがない日は自分で料理をするようにしているのだけど、今日はなんとなく、出来合いのもので済ませたい気分だった。


 ノートパソコンでニュース番組を見るともなしに見ながら食べるトンカツと海老カツは、今日も美味い。特に肉が柔らかく、果物の甘味が爽やかな特製ソースと胡椒の味を存分に楽しめるトンカツは、俺のお気に入りだ。賀茂かもさんいわく地元で評判らしいけど、当然だと思う。


 ……食べ物のこと考えたせいか、なんかまた、何か食べたくなってきたな。完食してそれなりに腹は満足して、茶も飲んでいるのだけど。

 肉じゃが、肉ご飯、鰻のひつまぶし、シチュー、白身魚の甘酢あんかけ。それからリンゴ入りキャベツサラダ。お好み焼きと鮪の唐揚げも外せない。

 ……………………


「……懐きすぎだろ、俺」


 自分の思考を客観的に分析して、俺はもう空笑いするしかなかった。

 何しろ頭に浮かんだのはどれも、引っ越してきてから一度も食べてないものばかりなのだ。しかも、義孝よしたかが作った味ときている。よりによって、だ。匂いまで芋づる式に思いだすのだから、どうしようもない。餌付けされてるよ、俺。


「なんでこの歳になって、男に餌付けされてるかな……」


 幼稚園児じゃあるまいし。ため息をつきたくなった。

 彩音あやねが意識不明になったことをなんとも思わない義孝の態度にキレて家出したときは、もうあいつのところに戻るもんかって思っていた。両親とじいさんが死ぬ前からあいつには可愛がってもらってはいたけど、俺様なところとか人の話を聞かないところとかは、昔から嫌いだったし。今度こそもう一緒にいたくないって思った。


 でも、奥宮を通って異界へ行く方法を見つけるためにこの地区に引っ越して早数ヶ月。当初の怒りが鎮まってくると、嫌悪の情なんてこれっぽっちも残らなかった。前と変わらない、憧れや尊敬や呆れ混じりの感情だけで。二度と顔見たくもないって思っていたのに。本気か俺、と何度思ったことか。


 義孝が賀茂さんとのデートの邪魔をしに来たときだってそうだ。相変わらずの人を小馬鹿にした態度や、まだ俺を手伝わせようとしていることには腹が立ったけど、心のどこかではほっとしたりもした。それで次は、あいつの料理のこととか……最悪だ。


 けれど、だからってあいつに手を貸すつもりはない。俺があいつの犯罪に手を貸した結果が、彩音の今の姿で、今ここに俺がいる理由なのだから。目的のために手段を選ばないあいつのそばにいたら、きっとまた俺は人を傷つける。それはもう嫌だ。


 先日のやりとりで、賀茂さんが忠憲ただのりの生まれ変わりであることと青の始祖との繋がりを、義孝に知られてしまった。異界へ行きたがっているあいつが、賀茂さんを利用しようとしないわけがない。

 それだけは、阻止しないと。


 ――――――――阻止? 俺が? 誰を?


「……っ」


 どの口が言うか。そんな嘲りの声が脳裏に響いて、俺は唇をきつく噛んだ。前髪をかきむしり、俯く。


 ノートパソコンの画面ではニュース番組が終わり、CMを過ぎて、少女漫画が原作だというドラマが始まっていた。先週の続きなのか、主人公の女子高生が彼氏の浮気現場を目撃したところから物語は展開していく。

 主人公が思わずその場を逃げだして、涙をこらえているところに同級生の男がやって来た。無理やり笑ってごまかそうとすれば、それを見破られて優しい言葉をかけられて。主人公はとうとう泣きだしてしまった。


 なんというか、昼ドラでもありそうな展開だな。あと、強制的な同居生活とか、新しい男の登場で悩むのとかも、たまたま見かけた他のドラマでやってた気がする。女性向け漫画が原作だっていうけど、女の子とか女の人って、こういうシチュエーションに弱いのだろうか。

 ……弱いんだろうな、ちらっと見た他のドラマでも似たのがあったし。現実でも、彩音も…………賀茂さんもそうだったし。


 ……………………


 ドラマの音がうるさくなって、俺はノートパソコンを通常画面に戻した。これ以上何も考えるなと、自分に言い聞かせる。……大体、深く考えることなんて何もないのだから。


 きつく両の拳を握りしめていると、湯がいい具合に溜まったことを知らせるタイマーが鳴った。長い息に感情を乗せて吐き出した俺はタイマーを止め、皿を台所に置いて風呂場へ向かう。

 やっぱり日常はいい。同じことを繰り返すだけで、ろくでもないことを考えずに済む。


 日常のどうでもいい小さな幸せを噛みしめて、風呂の蛇口の湯を止める。さっさと入って、あきらさんから買ったばかりのあやかしの新聞を読もう。どうやらこの地区の周辺、色々と厄介な奴らがいるみたいだし。そういうのに目をつけられると、俺みたいに弱い奴はどうしようもない。


 そう思っていたところで、ケータイの着信が鳴った。一体誰だろう。設定が面倒で着信音を変えてないから、誰からなのかわからない。陽さんからだろうか。

 でも、違った。上着のポケットからケータイをとって画面を見て、俺は一瞬息を止める。一時間ほど前に見たばかりの、真剣な眼差しが脳裏を横切る。


 あれ、俺、慌てている?


 おかしな自分に戸惑いながら、俺は気持ちを切り替えてボタンを押した。


「賀茂さん?」

『あ、伊月いつき先輩。すみません、ご飯食べてるところでしたか?』

「いや、俺はさっき食べ終わったところだよ。どうしたの?」


 つい一時間ほど前に聞いた声が、ケータイの小さな穴から聞こえてくる。俺はそれに何でもないふうで応じた。


 賀茂さんの用件は、今度の日曜に実家で行う収穫作業についてだった。なんでも賀茂さんの家では収穫の後、神社に先だって、収穫したばかりの稲穂を里山の奥にある奥宮へ供えるならわしがあるのだという。自分が行かされるかわからないが、行事は必ず行われる。だから見学しに来てはどうだろうか――――ということだった。


「……それは、興味深いね」


 どうしよう。声を作って興味を示したふりをしながら、俺は考えた。


 賀茂さんのところをはじめとする一部の農家と旅館の当主の家でそういう行事が行われていることは、喧嘩する前に義孝から聞いている。百数十年くらい前にはやっていた当人だし。賀茂さんの家は、忠憲の血筋だ。ならわしの本当の意味は忘れてしまっても、奥宮への参拝を続けていてもおかしくない。


 俺が賀茂さんに近づいたのは彼女の力を利用し奥宮の扉を開くためだけど、その好機として、このならわしの利用を考えていた。あんな古ぼけた社以外何もない場所へ彼女と二人きりで行くには、それなりの口実が必要だから。……彼女に何も知られないよう嘘を並べるのに好都合だから。


 狭い地区の中で時間をかけたたくらみは、こうして順調すぎるほど上手くいっている。奥宮の扉を開いて異界へ行ける日は、もうすぐだ。

 けれど――――――――


「でもごめん、その日、人と会う用事があるんだ。どうしてもその日じゃないと駄目でね。収穫作業も面白そうだし、参加したいんだけど……」


 申し訳なさそうな、残念そうな声を作って、俺は賀茂さんに誘いにそう断りを入れる。まあこれは、半分くらいは本当だけど。手作業での収穫なんて重労働、やったことないし。せっかく農業と観光の地に引っ越したんだ。収穫体験くらいはしてみたい。


「……うん、じゃあまた、店で会おう」


 言って、電話を切る。『賀茂あずささん』と書かれた画面が、通話が切れたことを示す。

 知らない習俗に参加し損ねて残念がる演技を終えた俺は、また長い息をついた。

 決意して目を閉じると、唐突に、ほんの一時間あまり前の出来事が思い浮かんだ。


 人に引き留められて下校が少々遅くなりはしたものの、今日こそはと向かった『夢硝子ゆめがらす』。早々と店じまいのシャッターを下ろした店内の座敷に座り、店主に代わって女の子――賀茂さんが絵付けをしていた。


 グラスを見下ろす眼差しと結んだ唇の表情は、言ってはなんだけど、いつもの賀茂さんじゃないみたいだった。なんというか、年相応のあどけなさが抜けて、もう少し大人になったときみたいで。一つの物事に一心に取り組む人なら誰でも持つ、そうであるがゆえの強さと艶を刷いていた。見守る青の始祖のように、近寄りがたくすらあった。


 普段とはまるで違う面差しは、絵付けが完成すると、達成感や満足感、喜びで緩んだ。寒色で染まった布地にぽたりと一滴、温かな色が落ちるように、普段の表情が表れる。

 そして――――俺のほうを向いた。


『先輩?』

「――――っ」


 俺を不思議そうに見上げるまでにいたる、賀茂さんの表情の変化を思いだして、俺はものすごく居心地が悪いような、こそばゆいような気持ちになった。まるで目の前に彼女がいるみたいに、目をあらぬ方向へ向けてしまう。


 ……駄目だ。始祖のからかいで落ち着いたつもりなのに、絵付けに夢中の賀茂さんの姿を簡単に思いだせてしまう。賀茂さんの薄化粧をした姿――艶姿なんて言われる浴衣姿なら、鬼祭りで見ているのに。二つの素の表情が、残像みたいにちらつく。


 そこまで考えて、俺は唇を強く噛み締めて賀茂さんの残像を頭から追い払った。流しに置いた皿や箸、ナイフやフォークを洗う。


 やっぱり、賀茂さんの誘いを断ってよかった。自分の選択は正しかったことを俺は確信した。

 先日のデートで『夢硝子』へ行くことができた今、俺はもう自由に『夢硝子』を訪ね、青の始祖に会うことができる。異界へ連れて行ってくれと頼みこむことも。賀茂さんをこれ以上、俺の馬鹿な計画に巻き込む必要はないのだ。

 ――――――――俺は、義孝とは違う。


 数分の食器洗いを終え、クローゼットへ向かう。着替えをタンスから取り出して振り返り、俺は何に惹かれてか、カーテンを閉めた窓に近づいた。


 カーテンを開けると、外はもう真っ暗だった。一応電飾の明かりはいくらかあるけど、都会のそれを見慣れた俺からすれば、哀愁さえ感じられるほどにささやかなものだ。その代わり、都会よりは星が見える。


 俺はこの窓の向こうに、何を見たいのだろう。彩音が眠る町も、義孝が泊まっている旅館も、賀茂さんの自宅もこの方角じゃないのに。


 明日、青の始祖から変若水おちみずをもらって彩音に飲ませた後、どうしよう。もうあの町に戻るつもりはないけど……一度は利用しようとした女の子に、どんな顔して会えばいいだろう。


 何も知らない賀茂さん。先祖のことも過去生のことも、力のことも。……俺が力目当てに仲良くしようとしていたことも知らない賀茂さん。

 俺や義孝みたいなろくでなしに目をつけられてしまった、可哀想な女の子。


 ――――――――でも、もし、できるなら。俺に、後ろめたさを抱えて彼女に笑いかけられるだけの図太さとしたたかさがあるのなら。

 彩音に償ってからも、賀茂さんが慕う先輩で在りたい。オカルト好きで優しくて頼りになる、鬼の末裔でも犯罪者でもない、ただの先輩に――――誠実な男に。

 たとえそれが、罪の報いを受けるまでの短い間だけだとしても。


「……デザート、なんかあったっけ」


 賀茂さんに教えてもらった、商店街で評判の店の、自家製だっていうゼリー。義孝と出くわした日に最後の一個を食べてしまったんだっけ。買おうと思ってたのに、忘れてた。

 明日、買いに行こう。小さな息を一つついて、俺は窓に背を向けた。

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