第四十三話:男の価値

「薫子が……ヤクザの、情婦?」

「そうとも」

 驚愕する俺に、胸を反らせて藤田は言った。

「あいつがまだJKだった時分のことさ。あのオンナはな、ヤクザの幹部に囲われて、セックス漬けの人生を送ってたんだ。紋々背負ったオヤジの下で、毎日アンアン喘いでたんだよ。僕の地元じゃ、結構有名な話だったぜ。噂じゃ、売春ウリまでやってたそうだ。ひょっとしたら、その時撮られた裏動画が、いまでもネットで流れてるかもな。ははははは。笑えるだろ? いったい何人のクズどもが、あいつの子宮に自分の遺伝子注いでいったんだろうな。精液専用有料トイレってのは、まさにあいつのためにある言葉さ」

 勝ち誇ったような藤田の嘲笑。

 それは薫子を蔑むと同時に、俺のことをも莫迦にするものであった。

 直接的な侮辱と間接的な侮辱。

 本当なら、腹を立てるべき状況なのだろう。

 でも、返す言葉が出て来なかった。

 ひと言たりとも出て来なかった。

 自分のことならいざしらず、愛する女神が侮辱されてる。

 この状況に噛み付けないなんて、信者としては失格だ。

 だがそれをわかっていてもなお、心が反応してくれなかった。

 ただただ愕然とするしかなかった。

 行動を起こすには、現実感がなさ過ぎたんだ。

 こんなのまるで、凌辱もののエロ小説じゃないか!

 こんなのきっと、口から出まかせに違いない!

 そうだ!

 口から出まかせに違いない!

 なんとしてでもそう思いたくて、俺は薫子の姿を振り向いて見た。

 信仰の対象をこの目で確かめ、自分の柱を取り戻したかった。

 だけど、その期待が叶うことはなかった。

 目線の先で俺の女神は、甘海老みたいに身体を丸めて必死に両耳を押さえていた。

 聞きたくない! 聞きたくない!

 現実から逃れようとしているあいつの態度が、ことのすべてを物語ってた。

 それは紛れもなく、藤田の発言が真実だという薫子からの保証書だった。

 少なくとも、俺はそんな風に受け取った。

 そんな風に、受け取らざるを得なかった。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ──…

 成立したはずの覚悟と闘志に、音を立ててひびが入った。

 冷めきった血潮が、地の底めがけて落下していく。

 絶望と失望。

 入れ替わりにそのふたつが、俺の体内を満たしていった。

 怖気と恐れが、肩甲骨を撫でまわす。

 心の底から惚れてたオンナが、寄りにも寄って売春婦──…

 ヤクザ相手に肉体からだを売ってた、お袋と同じ汚れたアバズレ──…

 清らかな処女おとめどころか、どこのどいつとヤったか知れない、絵に描いたようなクソビッチ──…

 認めたくなかった。

 認めたくなかった。

 そんな事実、ひと欠片だって認めたくなかった。

 だけど、そんな小僧の哀願を理性の部分が拒絶する。

 のしかかってきた重圧が、左右の肩を押し潰そうとした。

 魔王の両手の力尽く。

 積み重ねてきた大事な何かが、みるみる壊れていくのがわかった。

 嘘だ、嘘だ、嘘だ──…

 言葉に出さず、ふたたび俺は呟いた。

 だがそれを否定する声は、この世のどこからも紡がれなかった。

 俺のそうした心情が藤田の奴にバレたんだろう。

 悪鬼のごとき面構えで、あいつはさらに挑発を続ける。

「そんな薫子が僕の前に現れた時、こんなラッキーはないって思ったよ。優しく微笑みかけてさえやれば、こいつは必ずいただけるってね。案の定さ。あのオンナ、ちょっと優しくしてやるだけで、あっさり股を開きやがった。チョロイなんてもんじゃない。あいつのむかしを知ってる奴らは、あいつのことを腫れものみたいに扱ってたしな。おかげさまで、ライバルなんていないも同然。そうでなくても大概のオトコは、あいつみたいに面倒なオンナを好んで抱きたいと思わないからな」

「……」

「いいか坊主。僕らみたいなエリートにとってはな、恋愛なんて遊びの一種さ。欲丸出しで寄ってくるメスどもの中から、必要な時、必要なコストで、必要な間だけ遊べる相手を、リスクを背負わず美味しくいただく。ま、貴族にとっての狩りみたいなもんだ。結婚相手は出世の糧にできたりするが、遊びオンナってのは、せいぜいジビエ料理にしかできないからな。料理って例えが適当じゃなければ、撃ってスッとする射的の的か? つまるところ、僕が気持ちよくなるために必要な、大人のオモチャでしかないんだよ」

 奴の口元が下品にゆがんだ。

 声のトーンが一段と高まり、見開かれた眼が得意げに輝く。

「そんな使い捨ての淫乱マンコが、寄りにも寄って、愛して欲しい?、大事にされたい?、幸せな人生を送りたい、だって? はははははッ! 増長するのも大概にしろって思わないか? ヤクザの情婦だったゴミオンナが、愛人として扱われるだけでも存外の幸運だというのに! それも、選ばれしエリートであるこの僕にだ! それともまさか、自分のような肉便器が誰かに愛される価値のあるオンナだとでも心のどこかで思ってたのかね? だとしたら、こいつはとんだお笑い草だ! 思い上がりも甚だしい。淫売は、どこまで行っても所詮は淫売。何をどう取り繕ったところで、淫売それ以外の何者にもなれやしないのにな。なあ坊主、おまえもそう思うだろ? こんな使い古しのワケアリが、まともな幸せを手に入れるなんてできるわけない。おまえも普通のオトコなら、そう思わないわけなんてないよな? どうなんだ? ええッ?」

 藤田の放つ詰問に、俺は何も答えられなかった。

 こいつの言ってることは正論だ。

 何ひとつ否定することができない。

 そんな風に圧倒されてく自分自身を、どうやってもリカバリできなかった。

 イケメンの放つ勝ち組のオーラ。

 否が応にもそれは、俺の心根を侵食しつつあった。

 オトコとして、いやオスとしての自分が決してたどり着けない領域に、いまこのクソ野郎は君臨している。

 悔しいけど勝てない。

 勝てない。

 絶対に勝てない。

 俺は、こいつに絶対勝てない。

 混乱するオツムが、いまにも白旗を掲げようとしていた。

 情けなく、惨めで、蔑みの対象でしかない自分自身を、自ずから認めようとしていた。

 だが不思議なことに、そういうおのれを受け入れようとしないもうひとりの俺も、時を同じくして存在していた。

 そのもうひとりの俺は、目の前で勝ち誇る魔王に対し、その発言を肯定しないという形でもって最後の抵抗を試みていた。

 藤田の奴は、俺より早く、それを悟った。

 もうひとりの俺の存在を、本能のレベルで認識した。

 奴の両目にサディスティックな光が宿った。

 このオトコは俺そのものにではなく、もうひとりの俺を支える小さな想いに向け、あからさまに照準を定めた。

「坊主。おまえ、あのオンナのことをどこまで知ってるんだ? 身体の関係はあったりするのか?」

 嫌らしく微笑み奴は問う。

「まあその様子だと、まだそこまでの段階には行ってないみたいだな。若造らしい、いわゆるプラトニックラブって奴か? ははは。いいねいいね、あの極上の据え膳を前にして手を出さないとは、実にたいした自制心だ。感心するよ。だとしたらちょうどいい。あいつを知らない初心なおまえに、美味しいネタを教えてやるよ。

 おまえ、『ミミズ千匹俵締め』って聞いたことあるか? 薫子のはな、そう呼ばれてる最高級の肉壺なんだ。百人斬りを三往復したこの僕でさえ、生だと二分ももたなかった。並みのオトコなら、三擦り半でも快挙だろうな。あんなの一度味わってしまえば、ほかのオンナじゃ物足りなくなる。ヤクザが手放さないのも納得の名器さ。文字どおり、金の卵を産む雌鶏だったろうな。

 もちろん、それ以外の部分も絶品だったよ。歯の浮くような台詞を囁いてやったら、あのオンナ、喜んでケツの穴まで舐めやがった。経験値の高い極道どもから、よっぽど念入りに仕込まれたんだろうな。NGなしの風俗嬢でも、あれほどのプレイはできないぜ。まさしく絵に描いたような淫乱情婦さ。オトコを昇天させるために生まれてきた、プレミアブランドの肉奴隷だ。

 なあ坊主、よく聞け。あのオンナはな、おまえみたいな一般庶民に扱いきれるようなタマじゃないんだよ。あいつのことをなんにも知らない初心な小僧に、囲いきれるようなメスじゃないんだよ。薫子はな、あいつのことを知り尽くしてる僕のようなエリートじゃなきゃ、決して満足させられないオンナなんだ。そいつを理解できる程度のオツムがあるなら、身の程知らずな暴挙はやめて、全部忘れて身を退きな。それが引いては、おまえのためだ」

 藤田の台詞が朗々と、鼓膜の奥を震わせる。

 あたかもそれに応じるみたいに、俺の脳裏のディスプレイでは、淫らな動画が再生されてた。

 それは、薫子自身が主演を務めるモザイクなしのアダルトビデオだ。

 その作中であのオンナは、何人もの見知らぬオトコに、おのれの「性」を委ねてた。

 舌を伸ばし、相手のキスを求める薫子。

 乳房を揉まれ、次第に呼吸を乱してく薫子。

 下着の上から愛撫を受けて、眉根を寄せて喘ぐ薫子。

 オトコのアレを優しく頬張り、満足そうに微笑む薫子。

 深々と女性自身を貫かれ、悦楽の表情を魅せる薫子。

 絶叫とともに昇り詰め、射精を子宮で受け止める薫子。

 そして、我が身に子作りの形跡を残したまま、次の相手を迎える薫子。

 艶めかしくも、なおおぞましいその姿。

 それこそが、藤田の野郎が告げてきた「俺の女神」の正体だった。

 ショックなんてもんじゃなかった。

 知らぬ間に、涙が頬を伝ってた。

 冷たくて、やたらと重い涙滴だった。

 一方で、俺の息子は獣の滾りを見せている。

 オトコとしての消せないさがが、迷いを断てと訴えてるんだ。

 俺は、こんなオンナに憧れてたのか──…

 脳裏に浮かんだあいつの濡れ場。

 揺れる巨乳に興奮しながら、同時に俺は激しい自己嫌悪に襲われていた。

 そりゃあ、初めっから覚悟はしてた。

 いくらなんでも未経験てことはないだろうと、もとより腹をくくってた。

 過日の夜の出来事から、その身を汚されてた可能性だって、全然のレベルで受け容れてた。

 だけど、ここまでの事情は予想すらしてなかった。

 まさしく青天の霹靂だ。

 頭の中がグルグル回って、ネガティブな感情だけが次から次へと押し寄せてくる。

 俺は、寄りにも寄ってこんなオンナを崇めてたのか──…

 寄りにも寄ってこんなオンナに恋してたのか──…

 はは、はははは──…

 莫迦だ、

 莫迦だ、

 俺って奴は、なんてオンナを見る目がないんだ──…

 乾いた笑いが喉の奥から漏れ出してきた。

 急速に気力のすべてが失せ消えていく。

 藤田とけんを合わせていられず、ガクリとこうべを垂れさせた。

 眼から溢れる液体が、下へ下へと流れ落ちた。

 薫子、薫子──…

 最後に残った想いの丈が、あいつの名前をふり絞るように繰り返した。

 なんでだよ、なんでだよ──…

 なんでおまえが、なんだよ──…

 おまえがじゃなかったら、俺だって、俺だって──…

 泣き言を洩らす純白の俺。

 そんな俺自身を、漆黒の俺が罵倒する。

 なあ、俺の言ったとおりだったろ?

 三次元オンナなんかにうつつを抜かして舞い上がってた結果がこれだ。

 清らかな二次元ヒロインと違って、三次元オンナなんてみんなさ。

 山崎あかねが特別だったんじゃない。

 あいつこそが、典型そのものだったんだよ。

 薫子だって例外じゃない。

 ただそれだけのことさ。

 むしろ、それが証明されてよかったじゃないか。

 この世の中に女神なんているわけがない。

 いるとしたら、それは創作物の中だけだ。

 さ、現実がわかったところで、もといた世界に戻ろうじゃないか。

 傷付くことも傷付けられることもない、優しく平和な二次元の園へ──…

 漆黒の誘惑に駆られ、漂白された両足がゆるりと踵を返そうとする。

 だがその足元が、次の刹那にピタリと止まった。

 折れつつあった俺の背骨を、鮮烈極まる過去の記憶が電光石火に刺し貫いたからだ。


『君、誰? あたしに何か用?』

『大丈夫よ。あんな悪趣味なクルマ、忘れようにも忘れられないから』

『楠木圭介くんだっけ。あたし、「大橋薫子」 よろしくね』


 降臨してきた女神の美貌が、俺のハートを鷲掴みにする。

 それは、俺とあいつが初めて会った日の情景だった。


『君、ジムカーナやるのは初めてなんでしょ? だったら一度は実地で見ておいたほうがためになるわよ』

『ジムカーナって競技は、見る競技じゃなくって参加する競技よ。どう? よかったらあたしの横で、コースを一周してみない?』

『しっかり掴まっててね。振り回されて怪我でもされたら、それこそ、あたしが困るから』


 優しく微笑む女神の目線が、俺の気持ちを激しく揺さぶる。

 それは、あいつに誘われた俺が初めてジムカーナ場に行った日の情景だった。


『とりあえずさ、終わっちゃったことをいつまでもグジグジ言ってても仕方がないから、ここはひとまず、建設的な行動をしましょ。ね?』

『いいこと、圭介くん。往生際の悪い君に、大人のオンナが教えてあげる』

『君とあたしとの立場をね、ここではっきりさせときたかったの。でも可愛いでしょ? 選ぶのに時間かかっちゃったんだから』


 小悪魔めいた女神の声音が、俺の小耳をふんわり撫でる。

 それは、俺があいつと約束した罰ゲームを初めて受けた日の情景だった。


『さっきのオトコは絶対無理でも、君とだったらベッドインしてあげてもオッケーかなって、いまちょっとだけ思っちゃったんだけどな』

『おぼえてなさい! この借りは、いつか必ず倍返ししてあげるんだから!』

『彼氏でもないのに、この薫子さんと選りすぐった愛の歌をデュエットできるのよ。君も一応オトコなら、そのことに少しは感動しなさいな』


 少女のような女神の無邪気が、俺の性根を刺激する。

 それは、俺があいつへの想いを意識した、その初めての日の情景だった。

 続けざま、千春さんから送られたあの言葉が、生々しくも蘇ってくる。


『惚れたオンナを守るかどうかってのは資格じゃなくって権利だぞ。それを理解しないで自分の立場に目を背けてるようじゃ、おまえさんには男としての価値がない。もしおまえさんが本気で恋を実らせようと思ってるなら、大事な権利を放棄して足踏みなんかしてるんじゃないよ』


 そこで映像が切り替わった。

 次に俺が認めたのは、客のいないアイリッシュパブで潰れて眠る薫子だった。

 そんなあいつを自宅に連れて帰った夜。

 俺は、その細首に巻かれたシルクの布を発見した。

 何度も何度も悩みながら選んだ、紫色した地味なスカーフ

 それは、この俺が想い人のために購入した、心を込めたプレゼントだった。

 そう、この俺が想い人のために買った、を込めたプレゼントだった。

 違うッ!

 その現実に立ち戻ったとき、首筋から後頭部にかけ、轟音とともに雷鳴が走った。

 違うッ!

 違うッ!

 違うッ!

 こんなのは違うッ!

 自分自身に俺は叫んだ。

 俺は、いったい何を思い違いしてたんだ!

 俺は、俺は……

 こんな俺になりたかったんじゃない!

 こんな俺になりたかったんじゃない!

 こんなのは、俺のなりたかった俺じゃない!

 こんなのは、俺のなりたかった俺じゃないんだァッ!

 はっきりと、その結論を自覚する。

 アドレナリンが溢れ返り、急激に体温が上昇した。

 熱膨張に耐え切れず、左右の肩が小刻みに震える。

 なんだこいつは、とでも思ったんだろうか?

 俺に生じた異変を察し、藤田の奴が顔をしかめた。

「どうした坊主?」

 嫌味たらしい質問を、こちらに向かって投げかけてくる。

「惚れたオンナの正体がわかって、ショックのあまり気でも触れたか?」

「惚れたオンナの正体……か」

 俯いたまま、その問いかけに俺は答えた。

「それが、どうした」

 圧倒的な藤田の気圧が、そいつを聞いてわずかに陰る。

 ひるんだ、というわけじゃないんだろう。

 訝った、というのがむしろ正しい。

 だがそのタイミングを見計らって、俺はあいつに噛みついた。

 言葉の刃をあいつの胸に、渾身の力でもって突き立てた。

「それがどうしたってんだッ! このクソボンボンのトンチキ野郎ッ!」

 大喝が喉の奥から迸り出る。

 弾かれたように顔を上げ、奴の両目を睨みつけた。

 それは挑戦状だった。

 俺というオトコが初めて投げる、他のオトコへの手袋だった。

「薫子の奴がヤクザの情婦だったって? それがどうしたッ! そんなの俺には関係ねえッ! 俺にとってのあいつはなッ、いまもむかしもこれからもッ、『大橋薫子』以外の何者でもねえんだよッ!」

 歯をむき出しにして俺は続ける。

「藤田とか言ったか? あんたさっき、この俺がホントウの薫子を知らねえって抜かしやがったよな? ああそうさッ! あんたの予想どおり、俺はまだ、あいつとセックスしちゃいねえよッ! 順番から言やあ、キスだってまだだッ! それどころか、いまのいままでオンナとヤったことのねえ、正真正銘の童貞だよッ! だからなッ、あいつがどんな喘ぎ声を出すのかとか、どんな抱き心地をしてんのかとか、アソコの中がどんだけ気持ちいいのかとかなんて、これぽっちも知る由がねえよッ! ましてやテメーらみたいなクソ野郎がオモチャにしてきた薫子の姿なんて、経験不足で想像すらできねえよッ!

 だがなッ!

 その代わりにこの俺はッ!

 澄まし顔して俺を見下す『薫子』の奴を知ってんだッ!

 悪戯猫みたいに俺をおちょくる『薫子』の奴を知ってんだッ!

 他人ひとの目気にせず莫迦笑いする『薫子』の奴を知ってんだッ!

 膨れっ面してグチグチ愚痴る『薫子』の奴を知ってんだッ!

 真面目腐ってステアリングを握る『薫子』の奴を知ってんだッ!

 テメーみてえなイケメン野郎に啖呵を切る『薫子』の奴を知ってんだッ!

 そして何よりもッ!

 この俺はなッ!

 あいつの作ってくれたハンバーグカレーの美味さを知ってんだッ!

 そんな俺に向かって『おまえは薫子を知らない』だとォ!

 ざけんなッ!

 俺に言わせりゃ、ホントウの『薫子』を知らねえのはテメーらのほうだッ!

 ベッドの中のあいつしか知らねえくせに、偉そうなことほざいてんじゃねえやッ!

 そんなテメーらごときに、あいつのことを莫迦にさせねえッ!

 俺の女神を莫迦にさせねえッ!

 俺のオンナを莫迦にさせねえッ!

 絶対に、莫迦になんかさせねえッ!

 聞こえなかったかッ!?

 だったらテメーの足りない脳味噌でもわかるように、もう一度だけ言ってやらあッ!

 いいかッ!

 よく聞けッ!

 テメーみてえなクソ野郎がッ!

 俺の大事な『薫子』をッ!

 その薄汚ねえ口先で、莫迦にするんじゃねえッッッ!」

 ガツン!

 台詞の終わりを待たずして、俺の額が奴の顔面を打ち据えた。

 生まれて初めて発射する、戦うための全力の頭突きだ。

 鈍い音と感触の直後、藤田の奴は、「ぐあッ」っと後ろに仰け反った。

 呻き声を放ち、両手で顔の真ん中を押さえる。

 その寸隙を利用して、俺は自由を取り戻した。

 あいつの下から抜け出して、その真ん前で立ち上がる。

 前後して、憎悪の焔が奴の瞳にゆらりと宿った。

 ムシケラ同然だと思ってたオトコから、まさかの反撃を被ったんだ。

 そりゃあ怒るのも当然だろう。

 チンピラ紛いの口振りで、あいつは俺を恫喝した。

「小僧ッ! こんな真似して、タダで済むと──」

 だが、それでも俺はひるまなかった。

 奴の怒りは、想定内のそれだったからだ。

 「動くんじゃねえッ!」と、凄む藤田をすかさず一喝。

 ポケットの中からを取り出し、奴に向かって突き付けた。

 それは、手の中に納まるサイズの電子機器だ。

 エリート面したイケメンの顔が、その存在を知って蒼ざめる。

「あ……ICレコーダー」

「ご名答」

 不敵に笑って俺は言った。

「悪ィとは思ったが、この公園に入る前からの会話は、ことごとく録音させてもらった。つまりだ。こいつのメモリーには、あんたが薫子を口説いてる様子や口走った暴言、あとあんたの奥さんに対するホントウの気持ちって奴が根こそぎ記録されてるのさ」

「くッ!」

「おおっと、動くなって言ったのが聞こえなかったか?」

 鼻を鳴らして優位のほどを主張する。

「最近のスマホにはな、SOS機能っていう便利なものが付いてんだ。そいつをさっき、あんたの目を盗んで使わせてもらった。要するに、だ。あと五分も経たねえうちに、公的機関の白黒セダンがこの場所めがけてスッとんでくるって寸法なのさ」

「嘘を吐くな! ハッタリだ!」

「試してみるか?」

 不敵に笑って俺は告げた。

「俺の言ってることが嘘だと思うんなら、さっさとかかってくればいいじゃねえか。あんたお得意の暴力って奴でさ、こいつを奪いにくればいいじゃねえか。だが、これだけは言っとくぜ。俺がいっくらヘタレでもな、五分かそこらの間なら、こいつを守りきることぐらい朝飯前のミルクティーだ。で、そんな俺をボコってる様を駆けつけてきたポリスに目撃されちまった時、あんた、連中相手にどんな言い訳するつもりなんだい? まさか、生意気なガキを躾けてる最中だ、なんてごまかしが通用するとでも思ってるのかい?」

 歯噛みしながら藤田は黙った。

 ただし、観念したって風には見えない。

 むしろ、必死になって悪知恵を働かせてるって感じだ。

 そんなあいつに、俺は助け船を出してやった。

 最後通告という名前の助け舟を。

「なあ藤田さんよ。ここはおとなしく取引といこうぜ」

「取引、だと?」

「そうさ」

 俺の要求はド直球だった。

「あんたがこの場で二度と薫子にちょっかい出さないって約束してくれるんなら、こいつはこのまま封印しといてもいい。ゆすりのネタになんざ使う気はねえし、あんたが約束を守っててくれる限り、余所さまに聞かれる場所で再生公開するつもりもねえ。もちろん、他人を使って悪さするってのも、お互いナシが前提だ。どうだい? あんたにとっちゃ悪くねえ話だと思うんだがね。遊び相手のオンナがひとりと積み重ねてきた社会的地位。あんたにとって、果たしてどっちが大事なんだい?」

「おまえの言葉を信用しろとでも言うつもりか?」

 声を震わせ藤田が応じる。

「公開しないというおまえの言葉を?」

「ま、信じるも信じないもそっちの勝手さ。そういう状況に、いまのあんたは追い詰められちまったんだからな」

 不意に生じたエリートの隙。

 俺はそいつを見逃さなかった。

「あとこいつは言うまでもないことだが、もしあんたがここで首を縦に振らなかったら、このデータは光の速さでネットの海に放流だ。加えて明日の朝一番に、俺が直接あんたの職場に表敬訪問する。夕暮れ時には家庭訪問もだ。さぁて藤田さんよ。賢いあんたなら、容易に想像つくんじゃね? こいつの中身を聞いちまったあんたの家族や同僚が、いったいどんな反応見せるものなのかをさ」

「やれるわけがない!」

 奴の口から咄嗟に反論が飛び出した。

「そんなことをすれば、薫子のほうだってただじゃすまないんだぞ!」

 わかってる。

 レコーダーの感触を確かめながら、俺は自分に言い聞かせた。

 そんなことは、言われるまでもなくわかってる。

 知られた不貞の結末は、薫子のほうにもブーメランとなって突き刺さる。

 いかに騙された結果とはいえ、所帯持ちと関係しちまったのはあいつ自身の責任だ。

 必死に隠そうとしてきた自身の過去も、白日の下に晒されるだろう。

 娑婆のオンナとしての未来だけでなく、せっかく手にした医師としての誉れも、あるいは手放してしまうことになるかもしれない。

 藤田の奴は、そこを突いた。

 さながら、「おまえにその責任が取れるのか?」とでも言いたいのだろう。

 だがそれでも、俺はためらわなかった。

 揺るぎない決意をもって俺は叫ぶ。

「そんときは、俺が一生あいつの面倒を見る! 文句あるかァッ!」

 怒涛の意志が小細工なしに奴を討った。

 ようやくのことでこの手に掴んだ、オトコとしての権利の行使。

 そいつを喰らった藤田のオーラが、見る見るうちに萎んでいった。

 そうとも。

 奴はこの時、はっきりと悟ったのだ。

 覚悟を終えた相手には、もうどんな駆け引きも通用しないのだということを。

 そいつを証明するように、ぎらついていた藤田の目から前触れもなく光が消えた。

 堕ちる目線を追うようにして端正な顔も俯いていく。

 その姿は、まるで恭順を示した軍艦だった。

 敗北を認め抵抗をやめた、投降兵の有様だった。

 少し間を置き、「わかった」とだけ奴は応えた。

 その両肩が、あからさまに震えていた。

 そうさせていたのは、屈辱なのか悔恨なのか。

 イケメン医師は答えを出さず、トボトボと帳の奥へと歩み出す。

 体制を整えるためにではない。

 尻尾を巻いて逃げ出すためにだ。

 戦いは終わった。

 でも俺は、奴の背中が闇の向こうに見えなくなるまで、そこから視線を逸らさなかった。

 緊張感と臨戦態勢を持続させつつ、戦意のほどを漲らせ続けた。

 藤田がこの場で回れ右してから、数十秒が経過した頃だろうか。

 耳障りなサイレン音とともに、複数の赤いランプがこちらめがけて近付いてきた。

 SOS通報を受けて駆けつけてきた、公的機関の連中だ。

 クソ重たい安心感が、俺の背中にのしかかってくる。

 緊張感が急速に途切れ、臨戦態勢が異音とともに解除された。

 守り切った!

 その実感が俺の五体を強かに打った。

 守り切った!

 守り切った!

 守り切ったぞ!

 興奮が噴き上がってくるのと同時に、いきなり目の前が暗くなる。

 前後して「圭介くんッ!」という薫子の悲鳴が、左右の鼓膜を貫いた。

 膝から力が抜けたのは、その瞬間の出来事だった。

 次の刹那、糸の切れた操り人形みたいに、俺の身体は真下に向かって崩落した。

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