第四十四話:見知らぬ天井

 意識覚醒した刹那、初めて視界に飛び込んできた光景は、乳白色した見知らぬ天井だった。

 暗がりの中、かろうじて見て取れるだけのその存在。

 あまりに型通りすぎていてもう少しひねりというものが欲しくはあったが、現実自体がそうだったのだから、俺としては、そのとおりに表現するしか術がない。

 飾り気など探そうとしても微塵もない、文字どおり、無味乾燥な部屋の頂。

 そんなものが実在する空間を、浅学にも俺は、たったひとつしか知らなかった。

 そうか──と、無抵抗のまま得心する。

 俺は、病院に担ぎ込まれたんだ。

 浮かび上がった結論が、たちまちのうちに確固たるものとなる。

 たぶんだが、藤田の奴にボコられたことで、あの場で俺は、ぱったり意識を失ったんだ。

 緊張の糸が張り詰めてた間は心が身体を支えてたけど、そいつが切れた瞬間に、生体の持つセーフティーモードが全速力で発動したんだ。

 体験したのは初めてだったが、こういうのは、たぶんよくあることなんだろう。

 漫画や小説で語られることのある脳内麻薬がどうとかいう現象は、おそらくこういうのなんだと思う。

 うん。

 格闘家でもないのに、なんとも得難い経験をさせてもらった。

 これはのちのち、創作活動に役立ちそうだ。

 はは……はははは……

 乾いた笑いが、喉のあたりを震わせる。

 オトコとしての情けなさが、胃の腑の奥を鷲掴んだ。

 一応言い訳しておくが、持って生まれた喧嘩の弱さを卑下してるってわけじゃない。

 わけじゃないんだが、それでもやっぱり、俺の中でオスとしてのプライドがへし折られた事実を、否定することはできなかった。

 Y染色体の持ち主として、対立相手に腕力の差を見せつけられるっていうのは、控えめに言っても不名誉の極みだ。

 ましてや、その確認作業を意中のメスが見ている前で展開されたのだから、のしかかってくる屈辱感は、ただのそれとは比べものにならない。

 生物学的序列の決定。

 ものの見事にマウント取られた、自分という存在の認識。

 それが為し遂げられるや否や、無意識のうちに身体が半身を起こそうとした。

 そのアクションは、楠木圭介という半端な野郎に残された、ちっぽけな、あまりにちっぽけな反骨心の表れだった。

 起きた事実を、あとになって拒もうと図る、児戯に等しい反抗だった。

 俺は、まだ負けちゃいないぞ。

 闘いは、まだこれからだ。

 負け惜しみ以外の何物でもない無様な台詞をおのれに投げつけ、俺はふたたび立ち上がろうとした。

 自分の意思で。

 自分の両足で、だ。

 でもその決断は、他人の意思に阻まれた。

 薫子だった。

 一瞬のちに、すべてを悟る。

 そう。

 俺の女神は俺の寝ていたベッドの脇で、俺の様子を注意深く見守っていてくれたのだ。

 突っ張っていた気持ちが失せ消え、入れ替わりに、ドキリと鼓動が高まった。

 と同時に、堪えきれない羞恥心も、へそのあたりから突き上がってくる。

 ほんの先刻、自分が放った啖呵の羅列を、怒濤のように思い出したからだった。

 俺のオンナ──…

 俺の女神──…

 俺の薫子──…

 こいつに対するその手の発言を、あの時俺は、いったい何度繰り返しただろう?

 傲慢?

 高慢?

 増上慢?

 身の程知らずにもほどがある。

 首から上に熱い血液が上昇した。

 部屋の明かりが消えていたのは、まさにもっけの幸いだった。

 そうでなければ、俺は彼女の目線の先で、茹でダコみたいな間抜け面を晒してしまったことだろう。

 とはいえ、その幸いは、汁の苦さを緩和するだけに留まった。

 肝心要な問題は、そこにあったわけじゃあなかったゆえだ。

 背筋を震えが縦貫する。

 あれらの台詞を、こいつがどんな風に受け取ったのか。

 ひょっとして、ドン引きされたんじゃないだろうか。

 「こんな奴に好意抱かれてたなんて、キモッ」とか思われたんじゃないだろうか。

 答えを知るのが怖すぎて、俺は身体を硬直させた。

 ターゲットを直視できず、視線を横へと反らせてしまう。

 だが結論からして、そいつはまったくの杞憂だった。

 この時、俺の女神は俺だけを見つめ、俺のことだけを気にしていてくれたのだった。

「安静にしてなきゃダメ」

 泣きそうな声で、あいつは言った。

「あんな目にあわされたんだもの。何かあっても不思議じゃないわ。お願いだから、検査結果が出るまでおとなしくしてて」

 女性らしさを凝縮した白くて綺麗なあいつの両手が、確かな思いを携えて、左右の肩を優しく押した。

 声を出すこともできず、俺はただ、向けられてくる大きな瞳を、やんわり見つめ返すしかなかった。

 あんな目、か──…

 そのセンテンスを耳にしたとたん、俺の脳裏で、藤田の奴に殴られ蹴られる薫子の映像が、生々しくも再生された。

 断言する。

 ひとりの男として、それは見るに堪えないシロモノだった。

 表現しがたい悔しさが、俺の臓腑にカンフル剤を叩き込む。

 我慢できずに俺は言った。

「あんな目にあわされたのは、おまえだって同じだろ?」

 再度身体を倒しつつ、薫子に向かって俺は続けた。

「俺のことなんかより、自分のことを大切にしろよ」

「自分の、こと?」

「そうさ」

 あいつの疑問符に短く答える。

「おまえ、オンナなんだからさ」

「あら」

 わざとらしく相好を崩し、俺の女神はお茶を濁す。

「一応、気遣ってはくれるんだ」

「あ、あたりまえだろ」

 どもりながら、俺は応えた。

「オトコなんかと違ってさ、オンナには、守るべきところが多いだろ? もし顔に傷でもつけられてたら、笑い事じゃすまないだろうが」

「うふふ」

 それを聞いた薫子の顔が、たちまち恵比寿のそれへと変わる。

「もしそうなったら、圭介くん。君があたしの面倒見てくれるの?」

 そいつは、先刻放った俺の宣言、その履行を確かめるかのようなクエスチョンだった。

 大胆過ぎる問いかけに、一瞬言葉を失う俺。

 前後して、女神の笑いに陰が宿る。

「冗談よ」

 断ち切るように、あいつは言った。

「いまのあたし、そんなことを君に言える立場じゃないもの。その代わり、大人のオンナがチェリーボーイに教えてあげる。いいこと。オトコのひとが思ってるのよりずっとずっと、オンナってのはタフにできてる生き物なの。肉体的にも、精神的にも、ね。そうじゃなきゃ、とてもじゃないけど産みの苦しみに耐えることなんてできやしないわ。それにね──」

「それに?」

「心の痛みに比べたら、身体の痛みなんて全然──」

「心の痛み……か」

 知らず知らずのうちに、俺の口調は薫子のそれにリンクしていた。

 改めて天井を見上げ、自分の気持ちを整理する。

 不意に湧き上がってきた問いかけを、言葉にすべきかどうか迷ってしまったからだ。

 それは、いまのこいつが一番聞かれたくない内容だろう。

 問われたところで、答えを返したくなどないシロモノだろう。

 俺は、そのことを理解していた。

 十二分に理解していた。

 理解した上で、それでもなお、俺はその質問を奴に投げた。

 そうしなければならないと、天啓めいたものが降臨してきたゆえだった。

 普段の俺では、絶対できないその決断。

 だが、あとになってよくわかった。

 その決断こそが、まさに俺の人生を決定付けた、神の一撃そのものだったと──…

「なあ薫子」

 感情を込めずに俺は尋ねた。

「おまえのその心の痛みって奴だけど……それがなんなのかを知る権利が、俺にはあると思うんだ」

「そうね」

 薫子の声には、重い諦観の色が混じっていた。

「いまの君には、むかしのあたしを知る権利がある。本当に、それを聞きたいと思ってるのなら」

「聞かせて……くれないか?」

「わかったわ」

 苦笑いを浮かべたのち、俺の女神は淡々と語り始めた。

 それは、大橋薫子というひとりのが経験した、この世の地獄の物語だった──…

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