第四十二話:薫子の秘密

「藤田……さん」

 奴を認めた薫子の身体が一瞬のうちに硬直した。

 いかり気味のその肩が、いまあからさまに震え出してる。

 口から零れた藤田という名前が、このオトコの持つそれなんだろう。

 俺の脳裏に、千春さんから得た情報が稲妻のごとく蘇って来た。

『あのの前に現れたのは、そんなクソ野郎ケダモノのひとりだった。別の病院に勤めてる、背が高くてイケメンで、患者からも好かれてるエリート医師だって言ってたよ。そいつは瞬く間に当時の薫子ちゃんを見初めて、歯の浮くような台詞と一緒に、果敢に攻め込んできたんだと』

 一字一句が頭の中を流れるたびに、握る拳に力がこもった。

 心拍数が増大し、肺腑の奥でマグマが滾る。

 そしてそいつは、この一節をもって頂点に達した。

『あたりまえさ。そのオトコは既婚者だったんだからね』

 こいつが、俺の薫子を食い物にしやがったクソ野郎か!

 口内で、奥歯がギシリと唸りを上げた。

 憎悪にも似た感情が、視線となって奴を撃つ。

 それは、いままで抱いたことのある激情とはまったく違うものだった。

 義憤、というのとも少し違う。

 上手く説明できないけれど、間違いなく未経験の憤りだった。

 瞬きするのも忘れて、奴を睨み続ける俺。

 端から見れば、親の仇を見るような、と評されたかもしれない。

 だが藤田という名前らしいその男は、そんなものなど意に介せずの姿勢を取った。

 間を置くことなく、オンナ受けしそうなハニースマイルを構築する。

 自信と不遜とに満ち溢れたその表情。

 真正のオンナたらしとは、こういう奴のことを言うんだろうか。

 あかねの彼氏のイケメン野郎などとは、まさにオスとしての格が違った。

 その傍若無人な有様に、俺は思わず気圧されてしまう。

「会いたかったよ、薫子」

 両手を差し出し、藤田は言った。

 やはり、俺のことなど眼中にないって感じだ。

 揚々と胸を反らし、薫子目指して前進してくる。

「悪いとは思ったんだけど、どうしても我慢できなかった」

 そんな優男の舌が、言い訳めいた台詞を紡いだ。

「薫子。僕がこんな真似をしでかしてしまったのも、ひとえに君を愛すればこそだ。話し合おう。そうすれば君も、すべてが誤解だったってわかってくれるはずだ。僕にとって妻は妻で君は君。どちらもともに大切で、手放したくない存在なんだ。妻がいるから君をないがしろにするなんてことは絶対にない。神かけて誓うよ。たとえ何が起ころうとも、僕は君を守りきる。信じてくれ」

 その台詞は、自分の側にだけ一方的かつ天文学的に都合のいい内容だった。

 そもそも余所のオンナに手を出す妻帯者が、何を根拠に「信じてくれトラスト・ミー」なんて言えるんだろうか?

 少なくとも俺には、質の悪い冗談だとしか思えない。

 要するにこいつは、詭弁とごまかしだけで過去のすべてを押しきるつもりでいるのだ。

 裏切りの発覚を「違うんだ!」の連呼だけで乗り切ろうとするクズ連中と、いったい何が違うというのだろう?

 どれほどオスとしてのレベルが高かろうとも、俺からすれば侮蔑の対象以外の何物でもない。

 相手サイドがこちらをどう思っていようとお構いなく、だ。

「近寄らないで!」

 藤田の顔面に薫子の怒声が炸裂したのは、その直後のことであった。

 そいつは、俺がこれまで聞いたことのないような勢いだ。

 鋭く、苛烈で、感情的。

 舌鋒とは、まさにこれのことを言うのか。

 嫌悪の情もせきららに、拳を握って薫子は叫ぶ。

「顔も見たくないって言ったはずよ! いますぐここから消えないと、次はストーカーとして訴えるから!」

 女神の放った拒絶の言葉。

 その内容は、まったく誤解のしようがない。

 人語を解さぬ野猿であっても、その意を違えるのは不可能じゃないかと思われた。

 だがこの藤田というオトコは、その不可能を一瞬にして乗り越えた。

 鼻で笑って奴は応える。

「次は、ということは、今回はまだ大丈夫だってことだね」

 圧倒的な手前勝手を発揮して、藤田はさらに間合いを詰めた。

 どんな神経してやがるんだ、こいつは?

 俺は、たちまち呆気にとられた。

 鋼鉄の剛毛を生やしたマッチョすぎる心臓。

 こんなに自己中心的な人間は、フィクションの中にもそうそういない。

 まさしく「現実は創作より奇なり」と言ったところか。

 先制射撃を難なく弾かれ、薫子の瞳がゆらゆらと揺れた。

 そのたじろぎが、手に取るようにわかる。

 まるでヘビに睨まれたカエルだ。

 このふたりの間にいったい何があったのか。

 その具体的な内容を知る立場じゃないけど、このことだけは実感できた。

 薫子は、まだこの野郎藤田のくびきを断ち切れてない──…

 そう。

 チンピラ相手にあれだけの啖呵を切れた薫子が、この野郎には同じ態度を取れてない。

 毒舌吐くことにためらいのない薫子が、こいつの押しに圧倒されてる。

 理解の根拠は、そのふたつだけで十分だった。

 俺の女神が窮地に陥ってる!

 心が身体に出動を命じた。

 狂信者の出番、ここに来たれりってところだ!

「待てよ!」

 有無を言わせず、俺はふたりの間に割って入った。

 肩を怒らせ、捕食者プレデターの前に立ちはだかる。

「あんた、いったい誰なんだ!? 薫子に何の用だ!?」

 詰問に近い強気の口調だった。

 胆力だけは負けまいと、奴の両目を睨みつける。

 自分のモノだと思ってるオンナを呼び捨てにされた。

 その事実がよっぽど気に食わなかったんだろうか。

 クソ野郎の顔がはっきりと歪んだ。

 俺の至近で足を止め、虫けらを見る目をこちらに向ける。

「薫子、だって?」

 嘲るように奴は言った。

「君こそ、いったい彼女のなんだ?」

「あたしの彼氏よ」

 問いかけに返事したのは薫子だった。

 自分の脇に俺を下がらせ、代わりに藤田と対峙する。

 驚きが、俺の背中を刺し貫いた。

 薫子こいつの彼氏?

 この俺がか?

 耳を疑うその発言。

 脊髄反射で否定の言葉がこぼれかける。

 だが女神の肘がそれを阻んだ。

 これは演技だ。このまま付き合え──っていう意味だろう。

 がっかりした気持ちがないわけじゃなかったが、考えてみればあたりまえのことだ。

 託された彼氏役を務めるべく、俺は阿吽の呼吸で背筋を伸ばした。

 そいつを見越して薫子が告げる。

「紹介するわ。このひとが、あたしの彼氏・楠木圭介。若いけど立派に自立してるクリエイターよ。今年の春から正式に、大人のお付き合いさせてもらってる。もちろん、結婚を前提に、ね」

「こいつの彼氏の楠木圭介だ」

 胸を反らせて俺は名乗った。

「もう一度聞く。あんた、俺の彼女に何の用だ?」

「彼氏、ね」

 鼻で笑って藤田が応じる。

「まだコドモじゃないか。このレベルのオトコが君のオンナを満足させられるとは到底思えないな」

 俺の全身を奴の視線が這いまわった。

 上から下まで、それこそナメクジみたいにねっとりと、だ。

 そいつはまるで、奴隷を値踏みする商人みたいな嫌悪感をもたらす眼差しだった。

 明らかに、藤田は俺のことを下に見てた。

 いや、下に見てたどころの話ではない。

 恐らくは同じ人間としてさえ見てなかった。

 鼻につく選民思想が、態度の隅々から感じ取れた。

 ムカつく奴だ。

 不快感が熱量に変わり、こめかみのあたりがビクビクと動いた。

「お生憎さま」

 そんな相方を宥めるように、薫子の腕が俺の左に巻き付いた。

「このひとはね、あなたみたいにオンナを道具として見てないの。誠実に一途に、ただまっすぐに、あたしのことだけを見ていてくれる。オンナとしてのあたしじゃなく、人間としてのあたしを一心に求めてくれる。あなたのように、都合のいいおもちゃを欲しがるだけのコドモじゃないの」

 言いながら、豊かな乳房を押し付けてくる。

 これはたぶん、意識して見せ付けてるんだ。

 下手をすれば挑発と受け取られかねないシロモノだった。

 いや実際、薫子は奴を挑発していたのかもしれない。

 奴の自尊心プライドを傷付け、過去の仕打ちの意趣返しをしていたのかもしれない。

 それが証拠に、藤田の唇が奇妙な角度に捩れて上がった。

 背負った空気がドス黒く変わる。

 激しなかったのはさすがと言えるが、そうやって平静を装うのにも限界があった。

「薫子」

 大きく息を吐きながら、表情を整え藤田は言った。

「ここじゃあなんだから場所を移そう」

「構わないわ」

 その遣り取りのあと俺たちが向かったのは、そこからほど近い場所にある緑豊かな市民公園だった。

 広さのほうはかなりある。

 いわゆるレクリエーション公園という奴だ。

 あとになって調べたところ、東京ドーム三つ分の面積があるらしい。

 時間が時間だから当然と言えるが、人気のほうはまったくなかった。

 背の高い樹木も多く、外からの視線も奥の方には届かない。

 仕切り直しの舞台に藤田の奴が選んだのは、そんな敷地の中心部だった。

 咄嗟に嫌な予感がして、俺はポケットの中に手を突っ込んだ。

 ここはどことなく、あかねに呼び出されたあの公園に似ている。

 いや、雰囲気だけならそっくりだ。

 頭の中の片隅で、警報装置が鳴り響いた。

 歩きながら、ポケットの中にあるを弄る。

 やがて目の前に、冷たい街灯が照らし出すわずかな空間が現れ出た。

 そこには、据え付けられた茶色いベンチが、ぽつんと寂しく自己主張している。

 藤田の奴が振り返ったのは、ちょうどそいつの真ん前だった。

 その場で少し息を吸い、奴は俺の女神と向かい合う。

「ここでなら、僕の本心を伝えられる」

 クソ野郎は、芝居がかってそう言った。

「薫子。考え直してくれ。僕は心から君を愛している。そのことは、これまで何度も証明してきたはずだ。妻と僕とは政略結婚。教授の娘である妻にとって、僕は単なる生活の糧でしかないし、僕にとって妻は、単なる出世の道具でしかない。妻が妊娠したのも、義実家が跡取りを求めたからだし、妻との生活を優先させたのも、そうしなければ偽りの家庭が壊れてしまうからだ」

 立て続けに放たれる藤田の声は、次第次第に哀願めいたものになってきた。

 両手の動きは大仰で、目尻には涙らしきものまで浮かび上がっている。

「薫子! 僕の人生にとって必要な女性は妻じゃない! 君だ! 僕は君を放したくない! 一生君を大切にしたい! 君がいなければ、僕という男は駄目なんだ! 君の温もりを感じられなければ、生きているという実感がどうしても湧かないんだ!

 そうだ、薫子! 子供を作ろう! 僕と君との絆の証に、僕と君との子供を作ろう!

 僕には妻と家庭があるから君と結婚できないが、君と子供を作ることはできる。法的な父親になってあげることはできないが、君の産んでくれた僕の子供を、大きな愛で包んであげることはできる。もし独りで子供を育てるのが不安だというのなら、誰か別に父親役を紹介しよう。なんなら、そこにいる彼氏との関係を容認してもいい。君は、僕とは別の男性に生活を支えてもらえばいい。その代わり、君の心と身体は僕が責任もって支え続ける。女性の喜びと幸せとを、僕が永遠に与え続けてあげる!

 薫子! 天地神明にかけて誓うよ! 君を不幸せになどしない!」

「大言壮語は聞き飽きたわ。寝言は寝てから言ってちょうだい」

 藤田の演説が終わるのを待つように、薫子が氷の刃を口から吐いた。

「いまの語りを意訳してあげましょうか? このあたしに『ボクチンにだけ都合のいい性奴隷になってくれ』ってことでしょう? 中出しセックスで女を孕ませる気満々でも、産まれてきた子に責任を持つのは御免被る。それどころか、その面倒をほかの男に押し付けて、自分は美味しいところだけをいつまでも摘み食いだけしていたい。いざとなったら切り捨てること前提で、自分だけは汚れず痛まず傷付かずにいたい──…

 莫迦にしないでよッ!」

 俺の女神が大きく前に踏み出した。

 聞いたことない絶叫が、喉から外へと迸り出る。

「あなたみたいなクズを一瞬でも信じた自分が呪わしいッ! あなたみたいなクズに一時でも身を任せた自分が汚らわしいッ! 妻は妻、君は君? 心から君を愛してる? 君を不幸せになどしない? いったい何人にその台詞をほざいてきたのッ! あたしだけじゃないわよね? あなたに妊娠させられて病院を去った看護師は、五人や十人じゃきかないものね? お金の力で揉み潰してきた気でいるんでしょうけど、知られてないとでも思ってるのッ!

 地位とお金で初心なオンナをおもちゃにして、責任も取らず、産まれる前の新しい命を何人も何人も抹殺させて罪悪感の欠片も持たない──…

 そんな不誠実なあなたが、寄りにも寄ってこのあたしを『幸せにしてみせる』ですって?

 莫迦にしないでよ、嘘吐きッ!

 そんな戯言、信じられるわけないじゃないッ!

 いったい、どの面下げてたらそんなことが言えるわけッ!?

 恥知らずッ!

 鉄面皮ッ!

 あたしはねッ、あなたみたいな生粋の詐欺師なんかに、自分の時間をもう一秒だって費やしたくないのよッ! 人生の黒歴史を、もういちページだって重ねたくないのよッ! 消えてよッ! いなくなってよッ! あたしの前から、未来永劫消え去ってよッ!」

 体裁を整えようともしてない激情。

 俺は、こんな薫子を初めて見た。

 そいつは、俺の知るあいつとはまったく別の、だが紛れもなく、実在するあいつそのものの姿であった。

 猛り狂う女神の両目が、憎悪と憤怒に血走ってるのがわかった。

 この目で見ることができなくても、その肩と背中が物語っていた。

 藤田の奴と鼻突き合わさんばかりの距離で、あいつは興奮のあまりフーフーと息を漏らす。

 俺はそんな想い人の様子を、黙って見ていることしかできなかった。

 的確なサポートをしてやるには、この手の経験値が不足しすぎていた。

 だから俺は、この時、藤田の野郎の豹変に気付くことができなかった。

 奴の目付きが鉛の色に変化するのを察知することができなかった。

 ぶらりと両手を下に下ろし、冷たい口調であいつは尋ねる。

 それが最終通告であることを感じ取ることができなかった。

「いまのが君の結論なんだね?」

「そうよッ!」

 その出来事が起きたのは、薫子の返答が終わる、まさにその瞬間のことだった。

 ガッ!っという鈍い音とともに、薫子の長身が倒れ込んだ。

 受け身を取ることも適わず、地面の上に薙ぎ倒されたのだ。

 我が身に何が起きたのかを、あいつは理解できなかったようだ。

 きょとんとした表情を浮かべつつ、右手の指で口元の異常を確かめる。

 生暖かい液体が、その先端を紅に染めた。

 血液だった。

 口の中が大きく切れ、そこから溢れた鮮血が唇を割って流れ出たのだ。

 薫子の転倒理由。

 それは藤田の野郎だった。

 俺は見た。

 あろうことか奴は、目の前の薫子めがけて右のフックを叩き込んだのである。

 なんの前触れもない純粋な暴力。

 そいつは、かつての俺が味わったそれより、数段上の悪意であった。

「この売女ばいたァッ!」

 藤田の右のつま先が薫子の腹部に襲い掛かった。

 躊躇も容赦も、そこにはまったく見られなかった。

 続けざま、自分勝手な罵倒の豪雨が俺の女神に降り注ぐ。

「おまえのごとき淫売がッ、この僕からの好意を断るだとォ? ふざけるなァッ! 自分をいったい何様だと思ってるッ! 僕のようなエリート医師に抱かれるだけでもオンナにとってはこの上ない僥倖だというのに、寄りにも寄ってそれ以上を欲しがるだとォ? しかも、あろうことか僕以外のオトコを相手にィ? このッ、身の程知らずのアバズレめェッ! おまえのようなッ、売笑婦がッ、人並みの幸せをッ、手に入れられるわけなんてッ、ないじゃないかッ! おとなしくッ、性欲解消の生オナホに殉じていればッ、この僕がッ、愛人として飼ってやるだけでなくッ、望んでも叶わなかったママにまでしてやろうと言っているのにッ、それをッ、それをッ、それをおまえは拒むのかァッ! この分をわきまえないクソビッチがァッ!」

 革靴に包まれたつま先が、かかとが、文字どおり薫子の全身を滅多打ちにした。

 最初に喰らった一撃がまともに胃袋を捉えたのだろうか。

 俺の女神は、嘔吐しながら地面の上をのたうち回った。

 海老のように身体を丸め、両手で頭を抱え込む。

 悲鳴を上げたりしないのは、その行為がたったひとつの抵抗だからだ。

 魂だけは、絶対こいつに屈しない。

 その高らかな宣言を、このオンナは無言のままに歌い上げた。

 歯を食いしばって歌い上げてみせた。

 だからこそ、藤田はさらに激高した。

 服従を拒む薫子の姿勢が、奴の怒りに多量の油を注いだんだ。

「やめろォッ!」

 俺の両足が戒めを解いたのは、それから数秒後のことだった。

 畜生ッ! なんですぐ飛び出して行けなかったんだよッ!

 臆病な自分を責め立てながら、なけなしの勇気を身体中から絞り出す。

 藤田の野郎にそのままタックル。

 奴の胸倉に力の限りむしゃぶりついた。

 いまの俺じゃ、喧嘩でこいつに勝てっこない。

 だからこそ、いまやれることを精一杯やるんだ。

 そう。

 いまは少しでも、少しでもこいつを薫子の側から遠ざける。

 たとえみっともなくても構わない。

 結果としてボロクソにやられても構わない。

 それこそが俺の、この俺の、なさねばならないことなんだ。

 そいつはもう、誰が見たって安っぽすぎるヒロイズムだった。

 でもこの時は、その思いだけが俺を背中をただひたすらに押し続けていた。

「邪魔をするなッ!」

 藤田の左手が、俺の髪の毛を鷲掴みにした。

 間髪入れず、右の拳が顔面を襲う。

 左目に被弾。

 衝撃とともにまぶたの裏で火花が散った。

 眼鏡が割れて、足元に落ちる。

「圭介くん!」

 俺の名を呼ぶ薫子。

 だが、そいつに応える余裕はなかった。

 無理矢理引きはがされた俺に、藤田のキックが押し寄せた。

 膝だった──と思う。

 土手っ腹を突き上げられ、俺は無様にひっくり返った。

 間髪入れず、藤田の奴が追撃を仕掛ける。

 最愛のひとの目の前で、俺は暴力の餌食となった。

 いったい何発殴られたのか。

 いったい何発蹴られたのか。

 数えることもできなかった。

 嵐が収まり気が付いた時、視界の中にあったのは俺を見下ろす藤田の野郎の姿だった。

 一方的に殴られ蹴られ、短時間のうちに俺はのされてしまったのだ。

 薫子の悲鳴が、どこか遠くで響いていた。

「自分のオンナにいいところ見せたかったんだろうが、ザマァないな」

 勝ち誇った藤田が、仰向けの俺に馬乗りとなる。

 ニヤニヤと笑いながら、胸倉を掴み上げてきた。

 力が全然入らない。

 まともに腕を動かすことすらできなかった。

 そんな俺に向け奴は言った。

「よ~くおぼえとけ坊主。これが大人の世界の正義って奴だ。おまえみたいな負け組が分不相応なオンナに手を出したら、こんな風に相応のリスクを背負う羽目になるのさ。今回痛い目見て、たんまりと思い知っただろ? 薫子はな、おまえみたいな若造に扱いきれるオンナじゃないんだよ」

 その口の端からは、嫌らしい笑い声がふつふつと漏れ出していた。

 それは紛れもなく悪魔の嘲笑。

 人の破滅を楽しみ喜ぶ、魔界の住人の顔付きだった。

 とてもじゃないけど、俺みたいなのが太刀打ちできる相手じゃなかった。

 でも、だからといって退くことなんてできなかった。

 ここで退いてしまったら、俺が俺でなくなってしまう。

 ただ情けないだけの、負け犬オタクに成り下がってしまう。

 それだけはできなかった。

 断じてできなかった。

 だからこそ、俺は奴からの要求を目力で拒んだ。

 薫子から手を引け、という傲慢極まる要求を断固たる意志で拒絶した。

 そのことを、あいつ側でも察したのだろう。

 藤田の野郎はなお破顔して、ゆっくり顔を近付けてきた。

「真摯だな坊主。それほど薫子あいつに惚れ込んでるのか?」

 不気味に笑ってあいつは言った。

「まあ、おまえみたいなのがあいつに入れ込んでしまうのも仕方がない。あれだけのルックスにあれだけの身体だ。経験不足の若造がわざわざ手玉に取られにいくのも、まずはやむを得ないところだろうよ」

「……」

「そういえば、聞いたことがあるぞ。最近のアニメや漫画じゃ、おまえぐらいの年代のオトコが年上の女にチヤホヤされるストーリーが流行ってるんだってな。美人でナイスバディで、そのくせなぜか男っ気のない、時には処女だったりする純真な年上オンナ、か。ハハハ! そんなオンナを、あの薫子に重ねたか? 確かに夢見るだけなら簡単だな。童貞だって、容易くオンナをイかせてやれる。だが夢ってのはな、初めから潰えるためあるんだよ。この僕が、そんなおまえに教えてやる。おまえの惚れたあのオンナが、本当はどんなオンナなのかを。あのオンナの過去に、いったい何があったのかを、な」

「やめてェッ!」

 何かを紡ごうとした藤田の口を、薫子の絶叫が一閃した。

「やめてッ! 言わないでッ! そのひとにだけは知られたくないッ!」

 打ちのめされた身体が動けばいまにも藤田に飛び掛かって来そうな、まさにそれほどの勢いだった。

 魂からの叫びっていうのは、このことなのかと感じてしまう。

 だが、いまそれはまったくの無力だった。

 藤田には翻意の向きなど微塵もない。

 もっとも俺は、あいつが隠そうとしているあいつの過去を、正しく認識してるつもりだった。

 あいつがむかし、性犯罪の被害者になったこと。

 力尽くで貞操を奪われ、激しく傷付き涙したこと。

 俺はそのことを知っていた。

 少なくとも、知っているつもりだった。

 だからいま、藤田がそれを暴露したところでいっさい動じないだけの自信があった。

 来るなら来い!

 真正面から受け止めてやる!

 そんなことぐらいで、この想いを揺るがせたりなんてするもんか!

 しかし藤田が告げた現実は、俺の予想をはるかに超えるものだった。

「いいかよく聞け小僧。おまえが惚れてるあのオンナはな──」

 「やめてェッ!」っという薫子の哀願をふたたび無視し、藤田の奴は決定的なひと言を俺に告げた。

「ヤクザの情婦だったんだ」

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