第四十一話:人生のバックボーン
団らんの締めは、決まって一杯の珈琲だった。
それも必ず、薫子の奴がその手で挽いた厳選豆を使った奴だ。
そのせいかどうかは知らないが、あいつ愛用のコーヒーミルも、いまや我が家の台所が居場所となってる。
持ち帰られてる形跡など、これっぽっちもない。
おかげさまで、ここ最近の俺には、そいつに関する新たな日課が出現していた。
持ち主たる薫子が帰宅したのち、その存在をしばしの間眺めてるってのがそれだ。
これがこの場所にある限り、俺の女神は必ず我が家にやって来る。
そんな確約を得たもんだと、この時の俺は、なんの根拠もなく思い込んでた。
未来が約束されていれば、来るべき時間の使い方を独りで妄想したくもなる。
例えて言うなら、上向いた景気と個人消費みたいな関係だ。
次の晩飯は、どんなメニューになるんだろう?
あいつは俺に、どんな表情を魅せてくれるんだろう?
そんなしょうもないことに想いを費やす自分自身を、正直、ちょっとだけだが可愛いと感じてしまう。
ちなみに、今日薫子が淹れてくれた珈琲は、キューバ産の「クリスタルマウンテン」っていうブランドだった。
当の本人はとっくに忘れちゃってると思うんだが、その銘柄は、こいつが俺と初めて会った日に出してくれたそれと同じだ。
『楠木圭介くんだっけ。あたし、「大橋薫子」 よろしくね』
過去の台詞が、見る見る脳裏に蘇る。
立ち上る香気と湧き起こる回想とをほんのちょっぴり堪能してから、コーヒーカップに口を付けた。
もちろんのこと、砂糖もミルクもいっさい入れない。
むかしの俺では考えられない趣向だった。
みずみずしい酸味が、口の中いっぱいに広がる。
思わず舌先がしびれるほどだ。
断言する。
それは、去年のいま頃なら想像すらできてないひとときだった。
人生って奴は、予想外の積み重ねを経ちまうものなんだなァ──…
気が付いたとき俺は、数日前に
◆◆◆
「エピソードの追加と最終話の描き直し、ですか」
そう確認してきた岡部のオヤジ。
その表情は、不思議なほどに穏やかだった。
「それはつまり、物語のエンディングを変更するということですね?」
「そう思ってもらって構いません」
奴の疑問に俺は答えた。
「いまさらとは思うんですけど、なんとかなりませんか?」
「ほかならぬ先生の頼みです。なんとかしましょう」
画面の向こうでオヤジが笑う。
「もとより私は、あの打ち切りのようなエンディングは、体裁的によろしくないと思っていたのですよ。ただ、作者である先生自らが乗り気でないストーリーを無駄に延長するのも無粋かと考えまして、あえて黙っていた次第なのです」
「そうですか。すいません。ご迷惑かけて」
「いえいえ。先生が謝ることなどありません。クリエイターに成長を促すというのも、プロの編集にとっては重要な仕事のひとつですから。それより──」
「それより?」
「悩み事は上手く解決したようですね。おめでとうございます」
オヤジの言葉が、俺の心臓をチクリと刺した。
ギクリと我が身を震わせて、脊髄反射で問い返す。
「なんでわかったんです?」
「クリエイターの心の具合は、直近の作品上に現れるものだからですよ」
岡部のオヤジは、そう答えた。
「それぐらいのことがわからないようでは、到底プロの編集とは呼べません。もっとも、ただ給料をもらっているだけでプロフェッショナルを名乗る編集も、いまのご時世、多々いるものではありますがね」
俺は俯いて頭を掻いた。
人間力での完敗を率直に認める。
その感情は、これまでの俺が一度たりとも覚えたことのない、鮮烈極まるそれだった。
うまい言葉が思い付かないけど、ぐうの音も出ないとは、まさにこのことなのだろう。
苦笑とともに黙り込む俺に、岡部のオヤジは語り掛ける。
「先生。先生は、私がいつぞやお話ししたリアリティーとバックボーンの話をおぼえておられますか?」
「リアリティーとバックボーンの話、ですか?」
「はい。リアリティーとバックボーンの話です」
キョトンとする俺に、奴は続ける。
「創られたストーリーに説得力あるリアリティーを与えるのは、ゆるぎないバックボーンの存在である、という話です」
「ああ」
目を見開いて俺は応えた。
「思い出しました。今年の春のことでしたよね?」
「思い出していただいて幸いです」
改めて岡部のオヤジが破顔した。
「あの時、私は先生に、物語におけるバックボーンの重要性についてお話させていただいたと思います。至極大雑把に申し上げるなら、重厚なストーリーを練り上げるにはワールドの根幹となるリアリティーが必要で、そのワールドの根幹となるリアリティーを構築するためには、その筋金となるバックボーンが不可欠という内容だったと記憶しております」
奴は言った。
「では先生。創作におけるストーリーとは、いったいなんのことなのでしょう? 読者の心を震わせる物語とは、いったい何を模したものなのでしょう?
私は、それが人生ではないかと思うのです。
ひとは、ひとの人生、すなわち生きざまを見ることで、さまざまな想いに迫られます。それは感動なのかもしれませんし、怒りなのかもしれません。あるいは嫉妬なのかもしれませんし、絶望なのかもしれません。
その人生が足を置く世界そのものを、あえてワールドと位置付けるとしたら、その根幹となるリアリティーとは、現実世界の何に値するのでしょう?
それは、登場人物たちがそれぞれ積み重ねてきた経験なのではないかと、私は常々考えるのです。そして、その経験を背後で支える筋金入りのバックボーンとは、これすなわち、登場人物たちが乗り越えてきた挫折の数なのではないかとも思えるのです」
「挫折の……数?」
「ええ、挫折の数です」
語り部の言葉は、もはや編集者のそれを超えていた。
「バックボーンとは、英語で背骨のことを意味します。先生。先生は超回復という言葉をご存知でしょうか? 一度折れてしまった骨は、それが再生するときに、より強度を増して蘇るというアレです。
ひとという存在は、多かれ少なかれ挫折というものを経験します。そしてその挫折を苦しみながら乗り越えることで、ひとは以前の自分よりも確実に一枚、大きくて強い存在へと成長を遂げるのです。
私はですね、先生。その繰り返された超回復の歴史こそが、ひとの生きざまに筋金を入れる、たったひとつのバックボーンなのではないかと考えるのです。
もちろん、この世の中には才能に溢れた人間が数多おり、神に愛され過ぎたがゆえに、ただの一度も挫折や苦難を経験しなかった成功者も確実に存在することでしょう。そのような天才や、そのような天才に憧れる者たちの目から見れば、挫折に苦しみ、苦難にあえぐ才能なき凡人は、評価するに値しない、有象無象に過ぎないのかもしれません。
ですが先生。私は、そのような才能溢れた天才たちの人生に、いっさいの興味を覚えないのです。
考えてもみてください。手にしたいと思うものすべてが、あらかじめ用意してあるような人生。自分から手を伸ばすまでもなく、あらゆる望みが自動的に叶えられる人生。神仏に愛されたがゆえに、求めたもののことごとくを、それら超常の存在がわざわざお膳立てしてくれるような人生──…
そんな薄っぺらな人生とは、いわゆる家畜の生き方と、いったいどれほど違うというのでしょう?
贅を尽くした高級料理。それは確かに、舌が蕩ける美味なのでしょう。誰もが一度は口にしたいと願う、それだけの価値が本当の意味であるのでしょう。
ですが、それしか知らない幸福者は、その高級料理を心の底から美味しいものと認めることができるのでしょうか? たとえ認められたとしても、それを恒常的に楽しめる自分自身を、幸福者だと思うのでしょうか?
私は、とてもそうとは思えません。なぜなら、ひとを感動させるに至るハードルとは、およそ客観的な基準で語られるものではないからです。
先生。健闘の末に自分の手で掴み取った結果とは、客観的な頂点と比べて、本当に劣るものだと思われますか? とある競技で優勝できなかったという結末が、果たして無意味なものだと思われますか? それらに基づく小さな物語が、ひとの心を震わせないと断言できると思われますか?
そんなわけなどありません。たとえ些細な幸せでも、それは、時としてひとの感動を呼び起こします。大勢の決したリングであっても、熱心な観客は、最後まで勝負を投げない拳闘士を、終了のゴングが鳴るまで見詰め続けるものです。なぜでしょう? それは、自らの意志で困難に抗い、目の前の頂に全力で上り詰めんとする者の姿こそが、何者かに与えられた一番の椅子よりもはるかに美しく、輝いて見えるからなのです」
ディスプレイの向こう側から、オヤジの目線が俺を刺した。
「先生。あなたはいま、ひとつの壁を乗り越えられました。少なくとも、私の目にはそのように映っています。その偉業は、あるいは他者から見て、取るに足らない児戯の類に映るのかもしれません。ですが、立派に胸を張ってください。人生とは、あなたの築く生涯とは、ほかの誰のためのものでもない、あなたひとりのために存在する、かけがえのない
「長話ですね」
なんだか背筋がくすぐったくなって、俺は思わず茶々を入れた。
「なんだか、自分に言われてる話じゃないみたいだ」
「申し訳ありません」
岡部のオヤジが頭を下げた。
だが、その顔付きに悪びれた様子など微塵もない。
むしろ、生徒の悪巧みを事前に察したベテラン教師を思わせるほどだ。
「ところで先生──」
そんな俺の間隙を知ってか知らずか、思い出したように奴は言った。
「先生が心奪われた女性とは、いったいどのような方なのですか?」
「えッ!?」
さすがの俺も、このひと言には驚かされた。
そんなことを匂わす発言なんて、これまで一度もしたおぼえがなかったからだ。
「実は、カオルゥが登場した時より、そうではないかと疑っていたのです」
してやったりとばかりに、岡部のオヤジは畳みかけた。
名探偵の口振りで、種明かしがなされる。
「それまでの先生は、女性の描き方がテンプレートで、あまりにも白々しかったですからね。ああこれは、きっと生身の女性との接点ができたのだな、と推測したのです」
おまえはポアロかホームズか?
言葉を失い硬直する俺。
そんな俺に向かって、奴は優しく語り掛けた。
「ですから先日、先生からの原稿をいただいたおり、これは失恋なさったのかなと思いました。ですが、その予想はいい方向に外れたようですね。大変に良いことです」
畜生。このオヤジには敵わないな。
改めて、そんな本音が顔色になって出る。
わざわざ鏡を見なくても、それをはっきり自覚できた。
「良いひとなのですか?」
質問が来る。
だけど俺は、それへの回答をごまかそうとは思わなかった。
照れ笑いを構築しながら、「いい、オンナです」とだけ、奴に応えた。
もちろんその時、堂々と胸をそびやかすことも忘れなかった。
「それは良かった」
オヤジの目尻が垂れ下がった。
誤解のしようがない、祝福の言葉だった。
小刻みに数回頷き、さらなる台詞を送り付けてくる。
「では、先生。まだ年若いあなたに、年配の私からひとつだけ、人生のアドバイスというものを及ばずながら送らせていただきます。
先生。私が先ほどお話しした人生のバックボーン。それは、この世に生きるほとんどの者たちが持っていてあたりまえの代物です。それはつまり、いまこの瞬間の誰かをその人物たらしめているすべての要素は、そのことごとくが該当する人物のバックボーン、すなわち、いくつもの挫折が丹念に積み重ねられたことで、ようやく形作られたものに相違ないということです。そのことは、ちゃんとご理解いただけてますね?」
「はい」と肯定する俺に、岡部のオヤジは「結構です」と満足そうに瞬きをする。
「であればこそ、あえて忠告差し上げます」
そのやり取りを受け、堅苦しくも奴は言った。
「もし自分以外の誰かを好ましく思った時、その時は潔癖であってはいけません。光あるところに必ず影があるように、人間は、綺麗事だけでは生きていけないのです。大切なのは生きているいま、そしてこれから訪れる未来であって、その誰かがバックボーンとして積み重ねてきた過去の事象ではないということです。そのことを、くれぐれも忘れないでいてください。それこそが、誰かと一緒の人生を歩むために必要な、最良の心構えに違いないのですから」
◆◆◆
「そういえばさ」
過去に赴いていた俺の意識をいきなりいまへと引き戻したのは、やや唐突な薫子からの呼びかけだった。
いつまでも見詰めていたくなるような柔和な笑顔を浮かべつつ、こいつは俺に問いかけてくる。
「この間貸してくれた小説。続きはまだ出てないの?」
「ああ、『青フレ』の八巻か」
間を置くことなく、俺は答えた。
「もう完結してるから、なんなら全巻貸してもいいぞ」
「そうね。じゃあ、お言葉に甘えようかしら」
「ハマったか?」
「見事なほどにね」
言いながら薫子は、椅子の背もたれに体重をかけた。
「ああいった
「ひでぇ。俺の仕事の一環だぞ」
「ごめんね。でもさ、実際に読んでみるとそんな印象とは大違いで、少なくとも君が貸してくれたあの本は、結構読み応えのある内容だったわ。特に、あの火刑のくだりが悲しくってね」
「あそこか」
薫子の言葉に、俺は同意の意志を呈した。
こいつの言う「火刑のくだり」っていうのは、「青フレ」八巻で描かれたフレデリカの回想パートを指している。
それは、彼女がまだ普通の人間だった時分のこと。
魔女狩りという暴風雨が吹き荒れるさなか、フレデリカの夫と一人息子は、悪魔信仰の疑いをかけられ火炙りにされてしまったんだ。
もちろんそれは冤罪で、異端審問官の言いがかりによるものだった。
フレデリカの夫は、いまで言うところの発明家に近い存在だ。
既存の発想や宗教的常識に捕らわれないさまざまな道具をこしらえることで、近隣の農家から何かと重宝される人物だった。
そんな彼はある日、錬金術師が持っていた異国の書物を読み解くことで、失われていた農業技術を再発見した。
そして十年に及ぶ試験期間を経て、指導する農家の収穫を、ほとんど倍増することに成功したんだ。
そうした成功に目を付けたのが、近場の村の村長だった。
奴は卑劣にも、彼の功績を横取りしようと試みた。
早い話、フレデリカの夫が開発した新型農法を独占し、楽をして私腹を肥やそうと企んだってわけだ。
それだけじゃない。
奴は彼の美しい新妻であるフレデリカまでをも、手中にしよう目論んだ。
だがそのためには、彼女の夫とひと粒種とが、どうしても邪魔になる。
奴が欲しかったのはフレデリカの身体だけであって、心などではなかったからだ。
そこでこいつは見知った異端審問官の手を借りて、それらを抹殺しようと計画した。
計画はとんとん拍子に上手く行き、ふたりはともにいわれのない罪を着せられ、火刑台へと送られた。
異端審問官の力とは、それほどに強力なものだったんだ。
愛する夫と愛する息子が悲鳴を上げて焼き殺される姿を、妻であり母であるフレデリカが声もなく見つめ続ける地獄の情景。
パイプオルガンの音を背景に展開するその場面は、アニメ史上屈指の鬱シーンとして、ネット上で評判になったくらいだ。
そして邪魔者を排除した村長は、傷心したフレデリカを手籠めにせんと襲い掛かる。
その時彼女は、奴の口から直々に、事の真相を知らされることとなるのだ。
激高したフレデリカは、そんなケダモノを燭台を用いて撲殺。
次いで、愛する者たちの後を追って自死の道を選ぼうとする。
だがまさにその矢先、慟哭に導かれ降臨してきた
この作品における
だから彼は、復讐のための力を、邪悪に抗う強い力を切望するフレデリカと、あえてひとつの取引をする。
それは、望む力と不老不死の肉体とを与える代わり、忘却という神の救いを奪い取るという、なんとも過酷なものだった。
この設定は「青いひとみのフレデリカ」という作品の最大テーマとして、最後の最後まで一貫して描かれていた。
たぶんだけど、今回薫子の奴がハマったのは、この作品の、そういうヘヴィな部分だったんだと思う。
いやこの場合、ダークな部分と言い直したほうが適切か。
つまるところ、人間の持つ薄汚い素顔が容赦なく描かれてるこのエピソードを、あいつはある種のリアリティーとして受け止めたんじゃないかと、俺は思ってしまったってわけだ。
だとしたら、そいつは随分喜ばしいことなんじゃないか。
本能的にそう感じた。
何を隠そう、俺がこの作品の仕事をもらって一番良かったと思えたのが、本作八巻を中心に展開する、これら過去パートの部分なのだからだ。
だからこそ、俺は無性に嬉しかった。
想い人と感性を共有してるっていう可能性が、クリエイターとしての深い部分を、ドラムみたいに乱打していた。
かなり怪しいニヤニヤが、どう努力しても止まらなかった。
薫子からそんな様子を訝られつつ、有意義な時間は刻一刻と過ぎていく。
気が付けば、時計の針は夜の十時を指していた。
「結構長居しちゃったわね。そろそろお暇するわ」
言いながら、ゆるりと腰を上げる薫子。
女神の退場をギリギリまで見送るのは、俺にとっての恒例行事だ。
もちろん、約束していた「青フレ」の続巻を根こそぎ貸すのも忘れない。
薫子の「インテグラ」は、俺の「パルサー」と並んでガレージの中に停まっていた。
感傷だが、随分とさまになってる光景だと思う。
言葉にするなら、
いや、その例えはさすがに図が乗りすぎてるってもんだな。
苦笑する俺をよそに、あいつは愛車に乗り込んだ。
間を置かずスターターが回され、セルモーターが起動する。
いつもならここでエンジンが目覚め、俺の女神は俺の神殿を後にしていく。
そう、いつもならそうなるはずだった。
しかしながら、今宵はそんな風にならなかった。
主の意志に反して、「インテグラ」の心臓がひたすら沈黙を守ったからだ。
「バッテリーかしら?」
何度キーを捻ってもかからないエンジンを、早々に薫子は見切った。
「そろそろ替え時だとは思ってたんだけど」
「JAF呼ぶか?」
「別にいいわ」
俺の提案を、女神はさらりと拒絶した。
「明日、兄さんに取りに来てもらうから。悪いけど、それまで預かっててくれる?」
「お安い御用さ」
ふたつ返事で俺は応えた。
「でも、帰りの足はどうすんだ? 泊まってくんなら、布団ぐらいは用意するぞ」
「そう言ってくれるのは嬉しいんだけどさ、あたし、実はそろそろ生理なのよねえ」
デリケートな単語を、あっさりこいつは口にした。
「とーぜん生理用品なんか持ってきてないから、もし始まっちゃったら大惨事よ。あたしね、初日が特に酷いの。君の家の至るところに、真っ赤な血溜まりこしらえちゃうかも。ま、君がそれでもいいって言うんなら、泊ってってあげても、あたしは別に構わないわよん。いまの君、『ボク、独り寝は寂しいの』って顔中使って訴えてるし」
「んなわけねーだろ!」
「あははははッ」
子供みたいに薫子が笑った。
「そうよねえ。君ぐらいの年のオトコの子が、あたしみたいな美女との添い寝で自制心保てるはずがないもんね。うかつにそんなことしようものなら、朝まで延々犯されて、思いっきり種付けされちゃいそう。あ、でもいま生理前だから一応危険度は低いのか。良かったわね、圭介くん@チェリーボーイ」
「何が良かっただッ! ひとを性犯罪者みたいに言いやがって!」
阿吽の呼吸で、求められた役割を俺は演じた。
「これでも俺は紳士だッ! そんなふざけた真似なんてするもんかッ! 莫迦にするなよッ!」
「怒った? ほんの冗談よ」
整えられた指先が、俺の鼻先をちょんと突っつく。
畜生。
心の中で、俺はぼやいた。
完全に遊ばれてる。
いまに始まったことじゃないけど、これじゃあまるでガキ扱いだ
でも、それが決して不快じゃなかった。
知らず知らずに笑顔が浮かぶ。
薫子が、そいつを受けて笑って言った。
「ま、莫迦な話はこれまでにして、今日のところは送ってってくれればそれでいいわ。迷惑かけるけど、ゴハン作ってあげたんだから、それぐらいはいいでしょ?」
「問題ない。ちょっと待ってろ」
奴の希望をふたつ返事で了承して、俺は愛車のカギを取りに戻った。
エンジンに火が入ったのは、それから数分も経たないうちのことだ。
俺の「パルサー」に薫子が乗るのは、最近だとジムカーナの練習走行時が唯一の機会だった。
だから、こうしてこいつを助手席に座らせるのは、俺にとって「牛虎」に行った時以来の体験となる。
甘い女神の体臭が、嫌でも車内に立ち込めた。
ひくつく鼻孔を悟られぬよう、素早く愛車を発進させる。
最高のオンナと一緒に、夜の市街地をのんびりドライブ。
間違いなくそいつは、ありふれた世間を離れた異世界の知見だった。
ウインドウ越しに流れていく街灯の類が、まるで流れ星みたいに見える。
心臓が高鳴るのを、どうやっても止められなかった。
でも、ふたりきりのそうした時間は、あっという間に過ぎ去ってしまう。
「パルサー」が、薫子のマンション前に到着してしまったからだ。
「ありがと」
クルマから降りる直前、俺の女神は微笑みを見せた。
「ここまででいいわ。ご苦労さま」
「エントランスまで送ってくよ」
一秒でも長くこいつといたくて、俺はそんな申し出を口にした。
後付けの理由を提示する。
「最近は何かと物騒だしな。変な奴とかに待ち伏せされてたら、おまえも嫌だろ?」
「あっら~。いっちょまえに、あたしのナイトになってくれるってわけ?」
悪戯っぽく薫子が応じた。
本音の部分を見透かされたようで、思わず顔に血が上る。
「悪いかよ」
「ううん」
咄嗟に飛び出す憎まれ口を、しかしこいつは受け止めてくれた。
「お言葉に甘えさせてもらうわ」
予想外の反応だった。
心より先に身体が動く。
ひと足早くクルマから降り、素早い足取りで助手席側に回った。
路肩部分からマンションのエントランスまでは、正直言って十メートルもない。
口ではああ言って見たものの、実際は何も起きるはずがないと高をくくっていた。
その人影が、俺たちの背後に現れるまでは──…
「薫子!」
聞き覚えのあるオトコの声が、俺の女神の名を呼んだ。
反射的に振り向く薫子。
俺もまた、それと同時に後ろを向いた。
そこに立っていた発言の主は、背の高いひとりの男だった。
カジュアルなスーツに身を包んだ、いかにもオンナ受けしそうな優男。
名前なんて知らない。
どこのどいつかも知らない。
だけど、俺はそいつの姿を知っていた。
そう。
そいつは、俺の見ている前で薫子の唇を奪った、あの不届き野郎に間違いなかった。
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