第十六話:電車でGO
結局その日は、暗くなるまで薫子に引っ張り回される形となった。
出かける際に使用した交通機関は、よりにもよって「鉄道」だ。
通勤通学の利用客が少ない週末の日中とはいえ、あたりまえだが、俺たち以外の乗客は、それなりの数存在している。
それはすなわち、女装した俺の姿を、それだけの面々が目撃するということを意味していた。
冗談じゃないぞ。
ここでバレたら、俺の人生、一巻の終わりだ。
ボックス席の隅っこで目立たないよう身を縮めている俺に向かって、隣に座る薫子が囁くように告げてきた。
「圭子ちゃん。そんなに小さくなってたら、かえって人目に付いちゃうわよん」
「い、いまさらなのは承知してるけどさ」
そんなあいつに俺は応えた。
「なんでクルマじゃねえんだよ。街に出るのに、わざわざ電車を使わなくたっていいじゃねえか?」
あえて
しかも、実に無責任な発言まで付け加えて、だ。
「大丈夫大丈夫。そうそう簡単にバレやしないって」
「適当なこと言うなよ。どこにそんな根拠があるってんだ?」
「あら? 自分の審美眼が信じられないっていうの」
ビビリを止めない俺の真横で、薫子がすっと美脚を組み替えた。
「だとしたら、クリエイター失格レベルの大問題じゃない」
奴の答えに、俺は唇を噛み締めた。
うぐぐ、という呻き声が、自然と小さく漏れ出してくる。
残念ながら、この時の俺には、それ以上の対応が思い付かなかった。
膝の上で、握った拳に力がこもる。
そう。
薫子の手でバッチリ化粧を極められ、
美少女クラスであるかと問えば断じてそうではないのだろうが、それでもなお、オトコであることを疑われるレベルでは絶対になかった。
なんとも哀しい話だが、あの時ほど、自分の華奢な肉体を恨めしいと思ったことはない。
白い肌。
長い手足。
整った顔付き。
突き出したバストに、引き締まったウエスト。
それらは確かに作り上げられた虚構の品々であったのだけれど、だからといって、その魅力を完全否定することなど到底俺にはできなかった。
白状するがそれは、鏡の前に立たされた瞬間、自分自身が思わず見惚れてしまうほどのものだった。
その現実は俺にとり、ある種の屈辱にほかならなかった。
だが一方、このことで、女装レイヤーの気持ちが少しだけわかったような気もした。
上手く言葉にできないけれど、あえて言うなら、現実逃避というか変身願望というか、とにかくそのあたりについての充実感とでも言うべきだろうか。
その喜びが、垣間見えたよう思えたのだ。
そして同時に、化粧ひとつでここまで化けることのできる現代女性の変身技術に、俺はそら恐ろしいものを感じてしまっていた。
知識としては持っているつもりだったのだけれど、いざ現実を目の当たりにすれば、その衝撃は尋常のものではなかった。
いや、と俺は思い直す。
思い起こせば、この恐ろしさは、随分前に味わったことのあるものだ。
そもそもオンナって奴は、いともたやすくその本質を偽れる。
素顔を隠して、まったく別の人格を易々と装うことができるんだ。
その巧妙さを知れば、怪盗ルパンも土下座して負けを認めるに違いない。
少なくとも俺はそのことを確信していたし、その確信を撤回するつもりなどさらさらなかったはずだった。
俺はむかし、その現実を痛いほどに味わったことがある。
もちろん、胸焼けするくらい、なんて生やさしい表現のできる体験じゃあない。
それこそ、食あたりとノロウイルスとがタッグを組んで襲いかかってきたような、それは思い出したくもない生き地獄だった。
だから俺は、それ以降、オンナって生き物をまるで信頼しないよう心掛けてきた。
当然、いまだってその心境に変化はない。
変化はないどころか、より生き様に近付いていると言ったほうが真実だろう。
実のところ、俺が電車に乗るのを嫌がったのは、この恥ずかしい姿を赤の他人に見られたくないっていうのが単一の理由ではない。
オンナどもの手で痴漢の濡れ衣を被せられたくないっていう、もうひとつの強い理由もあったのだ。
そう。
頭の中ではそれが杞憂なんだとわかっていても、身体の中の芯の部分が、そうした事実を納得してはくれなかったんだ。
ボックス席の通路側に腰掛けたいまの状況にあっても、俺は無意識の警戒感を解くことができなかった。
若い女がすぐ側を通過するたび、羞恥心とは別の何かが俺の身体を硬直させる。
とても表だっては説明できない、実に情けない話であった。
そんな緊張に嘖まれながら、ちらりと横の薫子を見る。
窓際の席で外を見ているあいつの顔が、俺の目には、なぜだかとても楽しげに映った。
かすかに鼻歌までもが聞こえてくる。
まるで遠足に行く途中の小学生みたいだ。
こいつ。ひとの気も知らないで──…
それが無性に腹立たしく思えて、俺は口先を尖らせた。
そこからぷいっと目を逸らし、腕組みしながら眉間にしわを刻み付ける。
いまに見てろ。いつか必ず、ぎゃふんと言わせてみせるからな。
見る見るうちに、屈辱が闘志に変わっていくのがわかった。
俺と薫子を乗せた電車が目的の地に到着したのは、それから十数分後の出来事だった。
半数以上の乗客に混じって、俺たちふたりも降車する。
駅のホームで人混みに紛れたせいか、喉元に巻いてある革のベルトが息苦しかった。
指先でわずかな隙間を作りながら、俺は薫子に向け問いかける。
「なあ、この首輪みたいの、どうにかならないのか? さっきから、どうにもこうにも息苦しくって」
「残念ながら、どうにもならないわね」
一刀両断、薫子は言った。
「そういうので可愛い喉仏隠しとかないと、君が男の子だっていうのが、即効みんなにバレちゃうでしょ? 女装癖の変態さんなんだってまわりに知られたくなかったら、少しぐらいの窮屈は我慢なさいな。あと言っておくけど、それ首輪じゃなくって、チョーカーっていう立派なファッションアイテムなんだから」
左の耳元を掻き上げながら、あいつは口の端を綻ばせた。
「どう? ひとつ賢くなったでしょ?」と上から目線で付け足してくる。
「チョーカー、ねえ」
悔しいけれど、俺は本音を暴露した。
「おまえのいうとおり、確かにひとつ賢くなったわ」
こう言ってはなんだが、俺はイマドキオンナのファッション事情に、これぽっちも興味がない。
興味がない事柄を経験・知識として溜め込もうとしないのは、俺の持ってる大きな短所だ。
クリエイターとしての俺が異世界ファンタジーを自作の舞台に選んだのも、ぶっちゃけ言えば、それが最大の理由だった。
こことは違う別世界であるのなら、存在するリアルに縛られる必要性は全然ない。
ある意味、自分勝手にさまざまな要素を決められるし、余所から突っ込みが入っても、「この世界ではそうなんだ。そうなんだから、そうなんだ」と容易く払いのけることもできる。
その手軽さと気持ちよさとが、俺を現実世界から遠ざける推進力となっていた。
だが一方で、いまみたいなちょっとした知識の詰め込みが快いと思えてしまうのも、抗うことのできない事実だった。
俺の知らない何かを知ってる別の誰かが、その知識と経験の一端を、俺の頭脳にインストールしてくれる。
そういうのをありがたいと思える自分を認めるのは、嫌なことではまったくなかった。
知らず知らずのうち、そういう気分が顔に出ていたんだろうか。
薫子が、冗談めかして俺に言った。
「でしょー。感謝しなさい」
軽くその肩をぶつけてくる。
「うるせえ。恩着せがましくするな」
脊髄反射で、反発の言を俺は放った。
「しかしこれ、言っちゃ悪いが奴隷の首輪にしか見えねえぞ。ホントにファッションアイテムなのか? 俺を謀ってるんじゃないだろうな?」
だが、それに対するあいつの返事は、「さァ?」という要領を得ないものだった。
すかさず俺は、突っ込みを入れる。
「さァ……って、おい!」
「だって──」
奴は答えた。
「それ、アダルトグッズの通販サイトで買ったんだもの」
「ア……アダルトグッズぅ!?」
思わず大声を出しそうになる俺を、鋭く薫子がたしなめる。
「莫迦! 大きな声出さないの!」と小声でぴしゃりと叱りつけ、続く言葉は耳元で紡いだ。
「君とあたしとの立場をね、ここではっきりさせときたかったの。でも可愛いでしょ? 選ぶのに時間かかっちゃったんだから」
「やっぱりこれ、首輪なんじゃねえか」
声を潜めて俺のほうからもやり返す。
「俺は犬か? 犬なのか? 冗談じゃねえぞ。俺の尊厳を返せ」
「犬? まさか。そんな可愛らしい存在じゃないわ。
呆れたように薫子は言った。
「そう。今日の君は、丸々一日、あたしのシ・モ・ベ。そういう意味では、そのチョーカーが首輪だっていうことに間違いはないわ。下僕とご主人さまというお互いの立場を、きっちり確定させるための、ね」
こッ……このドSオンナめッ!
その台詞を聞かされた俺は、トサカに血が上るのを感じ取った。
だが次の瞬間、こういうのを含めた今日のすべてが罰ゲームなんだっていうことを、光の速さで思い出す。
感情的な奔流をぐっと喉奥で押さえつけ、胸の奥へと送り返した。
忘れるな、この屈辱を。
これが敗北だ。敗北なんだ。
俺はそう、自分自身に言い聞かせた。
大仰すぎるのはわかっているが、それでも俺は、重い言葉をおのれの中に積み重ねた。
臥薪嘗胆。
この屈辱をバネにして、いつか倍返しにして叩き付けてやるためにだ。
◆◆◆
薫子と連んで駅を出た俺は、それに続く数時間、それこそ繁華街の至る所をペットのように引き回された。
そして俺ひとりなら絶対行かない女の園で、徹底的な羞恥プレイをゲップが出るほど味わわされた。
女性用下着売り場では、たったひとりで放置され──…
トイレタイムでは、レディースルームを強要され──…
若い女性でいっぱいのお洒落なカフェでは、あろうことか甘ったるいクリームあんみつを薫子と一緒に食わされる羽目に陥った──…
周囲からの目線を避けることなど、到底できない所行だった。
なんといっても、人目を惹くこと甚だしい、
そんなのと行動をともにしている俺が他人の視界に入らないわけなど、ゼロコンマ以下の確率だった。
事実、短い間に何人ものナンパ野郎が、俺たちふたりに声を掛けてきた。
そのどいつもこいつもが、軽薄そのものといった感じのチンピラ野郎だった。
たいした実力もないくせに、溢れる自信だけは人一倍。
まあ、それぐらいの莫迦オトコじゃなければ、この薫子に声を掛けるだなんて絵に描いたような無謀を実行に移せるわけもないのだろうが。
それにしたって、何が「君たち姉妹? お姉さんは綺麗系だけど、妹さんは可愛い系だね。ふたりとも、いま時間ある? うひひ」なんだろうか?
おまえらが薫子狙いのゴロツキ風情だってのは、第一印象でお見通しなんだよ。
「将を射んとすれば、まず馬から射よ」でこっちのほうにも気を回したんだろうが、その手は桑名の焼きハマグリだ。
「キメェ! とっとと失せやがれってんだ、このチンカス野郎ども!」
俺は、ただちに一歩前進。
ドスを効かせて拒絶の台詞を吐こうとした。
「キメェ」をアタマに持って行ったのは、威嚇のためじゃなく本心からだ。
連中の目には一応オンナに見えてるんだろうが、俺は生物学上も社会学上も、嘘偽りないれっきとしたオトコである。
無論、同性愛のケなど欠片もない。
そんな俺が野郎どもから「可愛いね、うひひ」なんて口説かれたところで、色好い返事など出すわけもない。
だが結果的に、そうした啖呵を俺が切ることにはならなかった。
俺が口を開こうとしたその矢先に、薫子の奴が冷たい罵声を飛ばしたからだ。
迫り来るナンパ野郎たちに向かって薫子は、激することなく淡々と悪態を吐いた。
まさに完膚なきまでという表現が相応しいくらい、徹底的に相手の人格を攻撃し、丁重に几帳面に、欠片も残さずその自尊心を打ち砕いた。
微塵も感情のこもらない、ただ理屈と因果だけを言い含めた静かな罵倒がこれほど相手を打ちのめすとは、正直思ってすらもみなかった。
これとひとたび比べたら、ヤクザ者の恫喝なんて、ガキの挑発にしか聞こえないだろう。
男たちの顔が見る見る真っ青になっていくのがわかった。
だが、奴らが実力行使に出ることは、幸いにして一度もなかった。
いかに猿並みの知能しか持ち合わせていない連中であっても、衆目が集まるさなかで不法行為に及ぶまでの度胸は、さすがに装備してなかったと見える。
それはまさしく、言葉の
徒手空拳で挑みかかって、それで攻略できてしまうような代物ではない。
捨て台詞を吐きながら無様に敗走していく男たちの背中が、どこか物悲しく見えてしまう。
正直、相手が悪かったとしか言いようがなかった。
レベルが違いすぎたせいで、いい勉強にすらならなかっただろう。
負け損とは、まさにこのこと以外の何物でもなかった。
「まったく」
都合三回、同じような態度でナンパ男どもを撃退した薫子が、俺の前で呆れ果てたように溜息を吐いた。
「一体全体どんな育ち方をしたら、ああも考えなしに生きられる単細胞生物が出来上がるのかしらねェ。ノリとイキオイでオンナを口説けた成功体験があんな連中を産んでるのだとしたら、ひょっとして、あたしたちオンナの責任も重大なのかしら?」
「ああ、おまえらオンナの責任は大きい」
隣に並んで歩きながら、俺は薫子の疑問に答えた。
「おまえらオンナがああいったオトコを欲しがるからこそ、あんな風なオブラートより軽くて薄い無責任オトコが量産されるのさ。自業自得だ」
「あら、言ってくれるじゃない」
苦笑いして、あいつは言った。
「チェリーボーイのくせに」
「俺が童貞だろうがそうじゃなかろうが、正しいことは絶対に正しい」
負けずに俺は言い返す。
「漫画とか同じさ。需要があるから、初めてそこに供給があるんだ。読者が求めてない作品は、どれだけ高品質で、かつ情熱と魂が溢れていても、売れずに市場から淘汰されてく。オトコだってそうだろうよ。オンナがそういうオトコを求めるから、希望どおりの存在が恋愛市場で生き残って、ばかばか数を増やしてく。早い話、世の中にまともなオトコが見当たらないってあとになってわめくくらいなら、初めっから、その『まともなオトコ』って奴を優遇してやればよかったのさ」
「結構耳が痛い話ね」
薫子がそれに応じた。
「でもその理屈だと、そういった莫迦オンナを増殖させた大本の理由は、当のオトコがそれを求めたからってことになっちゃわない?」
うぐッ、と言葉を失う俺。
言われてみれば確かにそうだ。
需要と供給のうち、その片方だけが独立して存在できるわけなどない。
コインの裏表みたいなもんだ。
だがこの時、俺はその正論を肯定しようとしなかった。
もちろん、奴の言い分が正しいことぐらい、頭の中ではわかってた。
でも積み重ねてきた感情が、それを認めようとはしなかった。
なぜそうなのかは自分の中で整理できてた。
それを認めてしまったら、俺の寄って立つところが一気に崩れ落ちてしまうからだ。
だから、俺はあいつに反論しなかった。
持論を持ち出しもしなかった。
ただただ黙って俯いて、歩き続けることしかできなかった。
アスファルトを見下ろしながら、奴の側で立ち続けることしかできなかった。
そんな俺に、薫子が追い討ちをかけてくることはなかった。
少しだけ間を置いて、呟くように口を開いたのがすべてだった。
「卵が先か鶏が先か……か。いまの状況で男女ともども痛い目見てるのは、喧嘩両成敗って奴なのかもね。自分が見えていないのは、男も女も同じかァ……」
そう言いながら、あいつはそっと空を見上げた。
あたりはすでに、夜の帳が降り始めている。
そんななか、満天の星空に見下されながら俺たちふたりは、並んで帰路へと就いたのだった。
◆◆◆
追伸。
俺が着ていたワンピースと女物下着は、「プレゼントだ」ということで、そのまま手元に残された。
また、薫子の買った「おニューの下着」っていう奴も、「作画資料に使ったら」ということで、お土産代わりに持たされた。
今回の件であいつが何をしたかったのか、ますます俺にはわからなくなった──…
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