第十五話:楠木圭子、爆誕

「なんだァ、こりゃあァァァァァァッ!」

 けたたましい叫び声を上げつつ、俺は脱衣場を飛び出した。

 もちろん、まともな衣類など身に着けていない。

 腰に巻いたバスタオルで、ただ下半身をカバーしているのみだ。

 常識的に考えて、それは異性の前に平然と出られるような格好じゃなかった。

 少なくとも、まともな羞恥心を持っている人間ならそのはずであった。

 だがこの時の俺は、そんな一般常識をまったくかなぐり捨てていた。

 炸裂する感情が、俺の心身を一匹の獣に変えていたからだった。

「あらあら、圭介くん。そんな姿でどうしたの?」

 ソファでテレビを見ていた薫子が、ちらりと俺を一瞥し、続いてそんな台詞を放った。

 すべてを承知しているとでも言いたげな、余裕たっぷりの態度だった。

 膝上に抱えたポテトチップスの袋から、中身を取り出し口へと運ぶ。

 そのたびに発生するパリパリという音が、やけにわざとらしく聞こえてしまう。

 こちらを向こうともしない奴の態度が、俺の怒りにガソリンを注いだ。

「どうしたの、じゃねえッ!」

 俺は叫んだ。

「なんだよ、あの服はッ! どっから見ても女物じゃねえかッ! 俺の着てた服をどこにやったッ!?」

「あら、着替えは着替えでしょ? 何か問題でも?」

「大ありだッ! おまえまさか、この俺に女物の服を着ろって言うんじゃねえだろうなッ!?」

「まさかも何も、そのとおりだけど?」

「冗談じゃねえッ! 大の男が女の服なんて着られるかッ!」

「そんなこと言われてもね~」

 しらっと薫子は言ってのける。

「あれ以外に、君の着る服なんて我が家にはないわよん」

「あれ以外に……って、俺の服はどうしたッ!?」

「洗濯機に入れちゃった」

「テッメェェェッ!」

「まあまあ、落ち着きなさいな、圭介くん」

 身体を捻ってこちらを向き、あいつは俺に明言した。

「もう君もわかってるんでしょうけど、あの服を着るっていうことが、今回の罰ゲームの内容よ。あたしね、君みたいに線の細い男の子が恥ずかしそうに女装してる姿を、一度でいいから生で見てみたかったの」

「ぐぎぎ」

「まあ、君がどうしてもあたしとの約束を反故にするって言うんなら、それはそれで仕方がないわ。君という人間がその程度のものだったってことで、あたしの中で整理付けちゃうから。洗濯機から自分の服を取り出して、さっさと家路に就きなさいな。服が乾くまでの間ぐらいは、この部屋にいさせてあげる。でも、お互いの関係はそれでオシマイ。あたし、根性なしの負け犬なんかに、これっぽっちも興味ないから」

 ニイッと笑って薫子は詰め寄る。

「一応確認しとくけど、罰ゲームありの勝負事を受けたのは、あくまでも君の意思よ。あたしのほうは、もともと君のリベンジなんて受けるつもりなかったんだから」

「そりゃあ……そうだけどさ」

「いいこと、圭介くん。往生際の悪い君に、大人のオンナが教えてあげる」

 奴は言った。

「物事にはね、必ず義務や責任ってものがついて回るの。君はあたしへのリベンジマッチを望み、あたしはその引き替えとして君に条件を提示した。そして君はそれを了承し、あたしとの契約関係を成立させた。これによって、あたしの側に約束事を果たす義務が生じる一方、君の側にも提示された条件に従う責任が生じるってわけ」

「そ、そんなこと、言われなくてもわかってるさ」

 勢いをくじかれた俺が、目線を逸らしてボソリと言った。

「男に二言はねえよ。見くびってもらっちゃ困る」

「男に二言はない……ね」

 それを聞いた薫子の目に、冷たい光がさっと宿った。

「嫌な言葉。もし本当にその戯言を信じてるのなら、口先だけじゃなく、ぜひ行いで示してもらいたいものだわ」

「おまえに言われるまでもない。やったろうじゃねえか」

「あらそう。じゃあ、よろしく確かめさせてもらうとするわ」

 奴は告げた。

「まずは、あの服を着ることからね」

 かくして俺は、人生初の女装行為にチャレンジする羽目になった。

 いったい何が哀しくて、十九にもなった日本男児が女物の下着ブラとパンツを身に着けなければならないのだろう。

 赤っ恥とは、このことか。

 いそいそと脱衣所に引っ込み、かごの中に鎮座する可愛い衣類をまじまじと見る。

 改めて思えば、女物下着を手にしたのは初めての経験だ。

 作画用資料としても、実物を使用したことは一度もない。

 深々とひとつため息を吐き、俺は覚悟を決めてパンツを履いた。

 未体験ゾーンの締め付けが、俺の股間を刺激する。

 しかしまた、女性用のパンツって奴は、なんでこんなに窮屈なんだろう?

 そりゃあ、成人男子が履くことなんてもとより考慮していないのだから当然なんだけど、息子の部分が収まり悪くて仕方がない。

 普段俺が使ってるようなトランクスタイプなら全然女も苦労しないだろうに、なんで連中はこんなタイトな下着をわざわざ選択するのだろう?

 続いてブラも身に着けて、レモンパッドで膨らみを偽装。

 サイズが無駄に巨乳なのは、何かの嫌がらせなんだろうか。

 畜生。

 なんでまた俺は、こんなにも手際よくブラの着用に成功するんだろう。

 フィクションの世界だと、童貞はホックの外し方ひとつにすら苦労するってのが定番なんじゃないのか?

 自分の無駄な器用さに、ほとほと嫌気が差してくる。

 そして、トドメとばかりにピンクのワンピースを着込んだ俺は、大股で薫子の前に歩み出た。

 ドスドスという足音を、相手に向かって聞こえるように響かせる。

「どうだ。おまえの言うとおり着てやったぞ。これで文句はないな」

 両手を腰に胸を張り、俺は轟然と言い放った。

 たとえなりがこんなのであっても、男の矜持を忘れるわけにはいかないのだ。

 左右の頬が熱を持つのを意識して無視。

 険しい顔付きを維持したまま、ソファに座ったライバルの前で、足を開いて仁王立ちする。

 その瞬間、薫子の瞳がきらきらッと光るのを、俺ははっきり視認した。

「かッ……かわいいッ!」

 あいつの口が、突如そんな言葉を発射した。

 左右の頬を両手で挟み、くねっと身体を二、三度捻る。

 感極まったとばかりに、震える声で奴は続けた。

「そのワンピースね、絶対君に似合うと思ってたのよ。サイズもぴったりみたいだし、わざわざ新品用意しただけのことはあったわ」

「新品って……おい」

「そこは驚くところじゃないでしょ」

 立ち上がりざま、薫子は言った。

「せっかくの晴れ舞台なんだもの。あたしのお古でごまかすわけにはいかないじゃない。そもそも、あたしと君じゃ服のサイズが合わないし、君の身体にジャストフィットする服を新品で用意するのは、至極当然のことだと思うんだけどな」

「いや、そうじゃなくってだな。おまえいま、俺の身体にジャストフィットって言ったけど、なんで俺のサイズを知ってんだ?」

「あら、おぼえてないの?」

 俺の疑問に奴は答えた。

「こないだのジムカーナで、君の身体をギュッてしてあげたでしょ。あれでおおよそのところを確かめたの」

「あの時か!」

 言われてすぐに思い出した。

 確かにあの時、俺は薫子から予期せぬ抱擁を受けている。

 だがそれだけで俺のサイズを推し量ったという薫子の発言には、正直信憑性を感じられなかった。

 もしそれが本当なのだとしたら、こいつのセンスは、俺の中にある「普通」のレベルを、はるか彼方に超えている。

 とはいえ、それ以外に奴が俺の身体を計測しうる機会など、ひとつも思い出すことができなかった。

 あてずっぽうの直感が適中しただけと考える手もあったんだろうけど、むしろそっちの方が、俺の感覚的には受け入れられない事実だった。

 こいつ、バケモノかよ。

 しばしぽかんと立ち尽くす俺。

 美人で、巨乳で、女医さんで、しかも大会上位の競技ドライバー。

 それだけでも、もう「どこのラノベのヒロインだよ」と言いたくなるような設定だってのに、まったくもってこいつときたら──…

 天はひとに二物も三物も与えるんだな、と、平等幻想の崩壊を奥歯でギリリと噛み締めたくなる。

 そんな俺の両肩を薫子がやんわり押したのは、それから数秒後のことであった。

 「じゃあ、あたしも急いで準備するから、君はここでおとなしく待っててね」と、半ば無理矢理ソファに座らせ、奥の部屋へと姿を消す。

 準備?

 なんの準備だ?

 俺が訝ること数分間。

 余所行きに着替えた薫子が、かごを片手に戻ってきた。

 ぴしっと整った白のブラウスと、黒一色のタイトスカート。

 それは、俺とこいつが初めて会った時のそれと、ほとんど一緒の出で立ちだった。

 色合い的には、かなり地味。

 傍目には、理知的な女医さんというイメージより、むしろ堅苦しい女教師って感じに受け取られるかもしれない。

 黒いパンストに覆われた美脚が、異常なくらいに艶めかしかった。

「さーて。時間もないことだし、さっさと始めちゃいましょうか」

 開口一番。

 ルージュを引いた薫子の唇が、そんな台詞を宣った。

「始めるって、何をだよ?」

 尋ねる俺に奴は応える。

「そんなの決まってるじゃない。おけしょうよ。お・け・しょ・う」

「おけしょう──って、お化粧のことかァーッ!?」

「あったりまえじゃない。女の子はね、お出かけする前にきちんとお化粧するものよ」

 叫んだ俺に、さも当然と薫子は告げた。

「まさか君、アニメや漫画の女の子みたいに、現実の女の子も普段はすっぴんで暮らしてる、なんて妄想ファンタジーを信じてたんじゃないでしょうね?」

「い、いや待て。争点はそこじゃない!」

 俺は必死に自説をねじ込む。

「その、お出かけってのはなんだ!? お出かけってのは!? まさかおまえ、この俺に、この格好のまま外出しろって言うんじゃないだろうな!?」

「莫ッ迦ね~。女装した君をひとりで外出させて、あたしにいったいなんの楽しみがあるって言うの?」

 両手を腰に、呆れた口調で薫子が言った。芝居がかって頭を振る。

「まったく、これだからチェリーボーイは駄目なのよね。いいこと圭介くん。その程度のことも洞察できないから、『十九にもなってオンナのひとりも知らないのか? それでもオトコか、この童貞』って罵られて不愉快な思いをしちゃうのよ。少しは反省したらどうなの?」

「俺を童貞って罵るのも不愉快な思いをさせてるのもおまえ自身だっていう自覚はあるのか?」

 嫌味を口にしながらも、内心では、ほっと胸をなで下ろす俺。

 いまの発言を聞く限り、どうも薫子は、俺を衆目に晒すつもりではないらしい。

 だとすれば、この女装という名の黒歴史は、自分とこいつの心中だけになんとか封じておけそうだ。

 そんな安堵が、ついつい顔に表れたのだろうか。

 「やーねえ、細かいことを気にするオトコは」とケラケラ笑って、あいつは応えた。

「ま、初めから君に拒否権なんてないんだからさ、ここは黙って、あたしにすべてを任せちゃいなさい。大丈夫。心配しなくても、ちゃあんと責任持って、立派な綺麗どころに仕立ててあげる。それに──」

「それに?」

「男の子がガチの女装でお買い物に出るだなんて、そうそうできる経験じゃないわよん。圭介くんてさ、一応プロの漫画家なんでしょ? だったらこういう経験も、芸の肥やしになって、あとから作品に活かせるんじゃないの?」

「か、買い物ォッ!?」

 俺は思わず大声を上げた。

 奴の発言が、先の予想を百八十度裏切ったからだ。

 薫子はさっき、俺をひとりで外出させる気はない、的なことを、はっきり断言してみせた。

 そのこと自体は、決して聞き間違いなんかじゃない。

 だが結果的に、その解釈は完全無欠に間違っていた。

 そう。薫子は、俺を外出させる気がなかった、のではなかった。

 あくまでも、俺を外出させる気がなかった、だけなのであった。

 冗談じゃないぞ。

 すべてを察した俺の背筋を、圧倒的な怖気が走った。

 そのケを持たないノーマル男子が女装したまま街中を征くだなんて、それこそ悶絶ものの変態行為だ。

 繊細極まる俺のハートが、受け止められる所行じゃない。

 脊髄反射で俺は叫んだ。

「そんなの聞いてないぞッ!」

「そりゃそうでしょうね。いま初めて言ったんだもの」

 あっけらかんと、薫子は言った。

「実はあたしね、おニューの下着とか、新発売の化粧品とか、そろそろ仕入れなくちゃけないな~って思ってたところだったの。ほら、あたしって産婦人科医でしょ。君も知ってのとおり、産婦人科医と小児科医は全国一律人手不足で、なかなか休みが取れないのよ。だ・か・ら、あたしの立場だと、たま~にある貴重な休日は、これを有効活用する必要があるってわけ。君も立派な社会人なんだから、それぐらいのことは十分理解できてるんでしょ?」

「俺には、まったく関係ないッ!」

 一気に俺は吐き捨てた。

 弾かれるように立ち上がり、薫子の目を睨み付ける。

「予定があるだの休みがないだのってのは、百パーセントそっちの都合じゃねえかッ! 無関係な俺を巻き込むなよッ!」

「賭けに負けた側が偉そうなこと言わないの」

 肩に置かれた薫子の両手が、ふたたび俺を座らせた。

 鼻付き合わすほどの至近距離で、あいつは俺に説教を垂れる。

「敗者は勝者に従うものよ。それが相手からの強制だっていうのならいざ知らず、今回の件は、誰あろう君自身が言い出したことなんだから。そこんとこ、ちゃんとわかった上でいまの発言してる?」

「あうう……」

「いいこと圭介くん。君はね、自分自身が求めた賭けに、力及ばず敗れたの。だからこそ君は、君自身のささやかなプライドのためにも、いまは勝者の理論に服従しなくちゃならないわけ」

「……」

「それとも何? 君っていう子は、口から出任せ上等な、そんなデタラメなオトコだったっていうことなの? 敗者の誇りも主張できない、そんなちっぽけなオトコだったっていうことなの? そんな君の本質を見抜けなかった、あたしのこの目が節穴だったっていうことなの? さあ、いますぐはっきり答えなさいな」

 断言できる。

 それは、ぐうの音も出ないほどの正論だった。

 そうとも。

 俺は紛れもなく、こいつとの勝負に負けた。

 誰の目から見ても明らかな、言い訳できない敗北を喫した。

 それも、サイコロの目が変な方向に転がったからではない。

 それは、圧倒的に俺の実力が足りなかったゆえの結末だ。

 だがそれだからこそ、奴の言うとおり、俺は胸を張らなくてはならなかった。

 自分の負けをうやむやにして、恥を晒すわけにはいかなかった。

 次は勝つ、という不屈の意志を、勝者に見せ付ける必要があった。

 たとえその見返りが、のちのち夢に見そうなほどの辱めであっても、である。

「わかった。俺が間違っていた」

 大きく頷き、俺は答えた。

 悔しいけれど、それこそがベストの選択だと思えてならなかった。

 「好きにしろ」と続ける俺に、不敵に笑った薫子が応じる。

「さすがは圭介くん。あたしが見込んだだけのことはあるわ」

 目を輝かせつつ、あいつは言った。

「じゃあまずは、その無駄なオケケをソリソリしましょ。ヒゲはもちろん、眉毛もワキも指もスネも、それこそ露出してるところは隅々まで、ね」

「な……なるべく、お手柔らかに頼む」

「ふふふ……安心しなさい、圭介くん。これからあたしが、君の知らないオンナの嗜みって奴を実地でレクチャーしてあげる。これはね、頑固な君が、新しい自分に生まれ変わるための儀式なの」

「儀式?」

「そうよ。頭の硬い『楠木圭介くん』が、とっても可愛い『楠木圭子ちゃん』に生まれ変わるための立派な儀式」

「あ、はは……」

「怖がることはないわ。お姉さんと一緒に、危ない世界に行きましょうね」

 そう言いながらシェーバー片手に迫る薫子。

 その妖しい姿を目の前にして、俺はさっそく、先の決断を激しく後悔するのであった。

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