第十四話:罰ゲームの正体

「かッ、かッ、かッ、薫子ォォォォォォッ!」

 高級アイコをたっぷり頭上に被った俺は、怒濤の抗議を口にした。

 もはや冷静な判断などできる心境じゃなかった。

 音を立てて立ち上がり、真横のあいつに向かい合う。

「わざとだなッ! わざとやりやがったなッ!」

 肩を怒らせ、俺は怒鳴った。

 眼鏡レンズを貫き放たれた、憤怒の視線が奴を刺す。

 額にしたたる液体のことなど、まったく気にもならなかった。

 当然ながら、汚れた衣類の様子についても、完全無欠に同様だ。

 だが、薫子は怯まなかった。

 「蛙の面に小便」とは、まさにこの様相をことを言うのだろうか?

 某菓子メーカーのマスコットみたいに、あいつはペロッと舌を出した。

 そいつはまさに挑発だった。

「まっさかァ。そんなこと、あるわけないじゃないのォ」

 白々しくも奴は言った。

 掌が、肩のあたりで上を向く。

 声色の中に、誠実さなど欠片もなかった。

 喧嘩売ってる態度とは、このこと以外の何物でもあるまい。

「ざっけんなァッ!」

 ふたたび俺は絶叫した。

「どこをどう見たって、わざと以外に考えられない状況だろうがッ!」

「ま、お尻の穴の小さいこと。さっすがはチェリーボーイ。裏切り疑惑とは違うんだから、オンナが言ってることを素直に受け入れるってのも、オトコの大事な器量のひとつよ」

 すました風に薫子は応える。

「とりあえずさ、終わっちゃったことをいつまでもグジグジ言ってても仕方がないから、ここはひとまず、建設的な行動をしましょ。ね?」

「勝手に終わったことにするなッ! 俺にとっちゃあ、現在進行形の修羅場だッ!」

「この程度で『修羅場だ』なんて言ってるようじゃ、まだまだ修行が足りないわね。圭介くん@チェリーボーイ」

 そう言い残して、くるっと回れ右をした向けたあいつは、どこからか手早くタオルを持ってきた。

 バスタオルより、余裕でひとまわりは小さいサイズ。

 いわゆる、スポーツタオルっていう奴だ。

 そんな代物を、あらかじめリビングの中に用意していたのだろうか。

 だとしたら、随分と手際のいい話だ。

 さっきの一撃が間違いなく故意のそいつであることを、俺はこの時確信した。

 そして、久方ぶりの屈辱に、思わず唇を噛み締めた。

「いつまでそこに突っ立てるつもり?」

 怒りに震える俺の頭に、薫子が、ばさりとタオルを投げかけた。

 どうやら、これで拭け、という意思表示らしい。

 というより、それ以外の意味に捉えるのは、俺のオツムじゃ不可能だった。

 洗い立て特有のいい香りが、俺の鼻腔を優しくなでた。

 ささくれだった感情が、不思議と穏やかさを帯びてくる。

 やけくそ気味に、俺は頭をそいつで拭いた。

 乱れる髪を厭う意思など、これぽっちも浮かばなかった。

 自分で言うのもなんだけど、ガキの振る舞いそのものだった。

 そんな俺を黙って眺めていた薫子が、にこっと笑って提案した。

「圭介くん。よかったら、お風呂入っていらっしゃいな」

「風呂?」

「ええ、そう。上手い具合に、いまちょうどお風呂が沸いてるのよ。お湯に浸かってさっぱりすれば、気持ちのほうも、すこしは落ち着くんじゃない?」

 あっけらかんと薫子は言った。

「残念ながら、あたしの使った残り湯だけど、この際、贅沢は言えないでしょ? その汚れちゃってる君の服も、上がってくるまでの間に、あたしが染み抜きしといてあげる。こういうのは、早めにしとくと跡が残らないのよ。ね、ひとついい勉強になったでしょ?」

「恩着せがましくしやがって」

 薫子の言い分に、俺は口先を尖らせた。

「そもそも、おまえがこんな莫迦な真似しでかさなきゃ、俺がそんな勉強する必要なんてなかったんだぞ。自分が立派な加害者だってこと、ちゃんと認識してんのか?」

「あらあら、執念深いこと」

 呆れたように奴が言う。

「でもまあ、そういう真っ当な執念深さなら、あたしは全然大歓迎よ。何かと諦めが悪いのは、競技者として、とっても大事な資質だもんね。その調子で、G6ジムカーナのほうも頑張りなさいな」

 まるで子供のようにあしらわれ、俺は脱衣場へと追いやられた。

 どうやら、俺がこの家で入浴を済ませるっていうことは、あいつの中では既定事項になってるらしい。

 くそッ。

 呪詛の言葉を吐き出しながら、それでも俺は、奴の意向に従った。

 合理的な判断をしたからじゃない。

 ここで片意地を張ることが、かえって自分の負けを認めてるみたいで格好悪く思えたからだ。

 余り広いとは言えない脱衣場の中で、俺はいそいそと服を脱いだ。

 それらのすべてを、貴重品とともに、かごの中へと放り込む。

 貴重品と言っても、価値がありそうなものなどほとんど持ってはいなかった。

 一万円に満たない金額しか入れていない財布と、愛車「パルサー」の鍵、それと例のICレコーダーあたりがかろうじて、と言ったところか。

 学生時代の経験則で、俺は、カードの類を持ち歩かないように心掛けていた。

 ああいうものはあれば確かに便利だが、予期せぬ悪意と遭遇した時、受ける傷口を広げる機能も持ち合わせている。

 すべては、メリットとデメリットを勘案した上での決断だった。

 もちろん、実生活で受ける少々の不利益は、全部納得ずくでのことだ。

 だから、薫子が俺の持ち物を盗み取るかも、という可能性を、俺は考えてすらもいなかった。

 たかだか数千円の現金と年代物の中古車両パルサーGTI-R、それに加えて、どこででも簡単に手に入るICレコーダーのごときなどは、高所得者であるあいつにとって、取るに足らない価値でしかないからであった。

 そんなミジンコみたいな利益のために、あいつは罪を犯すまい。

 それは俺にとって、揺るぎない確信ですらあった。

 だからこそ、早々に全裸となった俺は、そのまま浴室へと踏み込んだ。

 窃盗に対する警戒心など欠片も持たなかった。

 堂々と中折れの扉を開け、タイルの上に一歩を刻む。

 続く刹那、よく手入れの行き届いたバスルームが俺の目の前に出現した。

 清潔感溢れる輝きが、疲れた目玉には妙に眩しい。

 勝手知ったる我が家の風呂場とは、まさに雲泥の差だと言える。

 それだけは、ド近眼の俺にもはっきりわかった。

 俺は、これだけ綺麗な浴室を維持する自信を持てなかった。

 いや、それは断じて俺だけの話じゃあるまい。

 よほどの綺麗好きでもない限り、こういうのはオトコの業ではないはずだからだ。

 偏見かもしれないが、俺はこの時そう思った。

 そう思う自分を否定できなかった。

 なんだかんだ言って、やっぱりあいつも「オンナ」なんだなァ──…

 そんな感想を抱きながら、俺はバスタブのフタを除けた。

 間を置かず、湯船の中に足先を浸す。

 入浴剤が使われているのか、ほのかな匂いが、お湯からふわりと立ち上った。

 快い花の香りだ。

 湯温は少し温めに感じる。

 だがそれは、あくまで個人差の範疇だ。

 文句を言うべきことじゃないのは、最初から承知の上の話であった。

 ザブンと大きく音を立て、遠慮しないで肩まで浸かる。

 まずは身体を洗ってから、という入浴時のマナーは、頭の中から消え去っていた。

 ここが他人の家だという現実を、ころっと忘れていたのであった。

 それをいきなり思い出し、急に決まりが悪くなる。

 思わず鼻まで湯船に潜った。

 その瞬間、花の匂いとは異なる何かが、俺の嗅覚を刺激した。

 これは確か、どこかで嗅いだことのある匂い。

 そうだ。

 間違いない。

 これは、「カーアイランドRd」で、薫子の「インテグラ」に満ちていた匂いだ。

 そう言えば、あいつ、残り湯がどうとかって言ってなかったっけ。

 ちょっと待て!

 ということは、何か?

 このお湯は、あいつの素肌が直接接したお湯だってわけか?

 なんてこった!

 その結論に達した時、青臭い妄想が、俺の背筋を駆け上がった。

 一糸まとわぬ絶世の美女が、俺の脳内に降臨した。

 背を逸らし、脇を晒して挑発する。

 官能的な魅惑のライン。

 「あっは~ん」という声が、どこからともなく響いてきた。

 血液が、股間の一部に流入する。

 オトコの本能が目を覚ました。

 知らず知らずのうちに、俺の右手が息子に伸びる。

 現実を、利き手の指が確認した。

 平常時と比べ、段違いなほどに増したその硬度を、だ。

 扉越しに薫子の声が響いたのは、まさにその瞬間のことだった。

「圭介く~ん、湯加減はどう?」

 罪のないハスキーボイスが、俺の後頭部を直撃した。

 背筋が震え、「うわッ!」と間抜けな声を上げてしまう。

 冷や水をぶっかけられたとは、この時のことを言うのだろう。

 慌てて俺は身をよじり、努めて冷静に返事した。

「あ、ああ。問題ない」

 言葉を選んで、俺は答えた。

「まさに、熱くもなし、温くもなし、って奴だ」

「そう。それは良かったわ」

 そんな俺に薫子が応じた。

「適度なお湯で身体を温め、その上で、全裸による開放感と自由な性の快楽を味わう。そんな男の子特有のバスオナニーには、気持ちのいい入浴が大前提にあるものね」

「だッ、誰がするかッ、そんなことッ!」

 顔を真っ赤にして俺は叫んだ。

「いッ、いまのは未遂だッ! あくまでも未遂だからなッ!」

「あらら……」

 それを聞いた薫子が、呆れたように声を上げた。

「圭介くんったら、本当にしようとしてたんだ。バスオナニー……」

「あ……あう」

 俺は、おのれの自爆を悟った。

 恥ずかしさの余り、ふたたび湯船に沈み込む。

 この状況では、何を言っても言い訳になってしまうだろう。

 それを即座に察した俺には、沈黙以外の選択肢はなかった。

「プッ」

 その直後、脱衣所にいる薫子が、漫画みたいに吹き出した。

 「アハハハハッ」と、けたたましい笑い声が、津波となって俺を襲う。

「いや~、まさかまさかとは思ってたけど、やっぱり圭介くんは圭介くんだったかァ」

 扉の向こうであいつは言った。

「でもまあ、性欲過多の若き童貞くんなら、そうなっちゃうのも仕方ないよね。そんなことさせちゃう、あたしの魅力が悪いんだもの。今回だけは許してあげる。でも、あんまりたくさん出すのはなしよ。お風呂場が精液臭くなるのも嫌だし、何より、生き延びた君の精子で望まぬ妊娠しちゃうってのも勘弁だから」

「俺がここで自家発電するっていうのは、おまえの中じゃ確定事項なんだな……」

「あら? 違うの?」

「あたりまえだッ!」

「本当に? 我慢しなくてもいいのよ」

「俺にだって、TPOわきまえるくらいの分別はある。莫迦にするな」

「な~んだ、残念」

 薫子が俺をからかう。

「なんなら協力してあげようって思ってたんだけどな」

「きょ……協力?」

「そそ。この薫子さんが、バスタオル姿で君の身体を洗ってあげるの。こう、ボディーソープを泡立てて、それこそありとあらゆる身体の部分を隅々まで」

 悪戯っぽく、あいつは言った。

「きっと気持ちいいわよ~。さすがに専門家のローションプレイには及ばないでしょうけど、それでもあたしみたいな美女がやってあげるんだから、破壊力だけはバツグンよ」

「……」

 奴の言葉に促され、俺の妄想は極限大まで膨らんだ。

 エロマンガだのAVだのでさんざん目にしたオンナの痴態が、ことごとく薫子の姿に置き換えられる。

 肉体の反応が上半身まで到達した。

 鼻腔の奥がチリチリする。

 そこから何かが流出しそうな気配を感じた。

 それと同時に、どっと溢れる鉄の臭い。

 間違いない。

 これは、鼻血という奴だ。

 な、情けねえッッッ!

 漫画のキャラじゃあるまいし、俺はいったい、なんてザマを晒しているんだッ!

 慌ててバシャバシャと顔を洗い、体液の落下を必死に阻む。

 脳内画像に興奮して鼻血を流すだなんて、俺は思春期の小僧かよ!

 だが、そんな自分を俺が不甲斐なく思ったその矢先、薫子がふたたび大きな笑い声を放った。

「やーねえ、冗談よ。冗談」

 単刀直入、あいつは告げた。

「恋人同士じゃあるまいし、そんなこと、年頃の異性にしてあげるわけなんてないじゃない。圭介くん。もしかして、ちょっぴり本気にしちゃったのかな?」

 悪かったな! ちょっぴりだけど本気にしたよ!

 心の中で抗議はしたが、それを声には出さなかった。

 それをやってしまったら、今後こいつに何を言われ続けるかわからない。

 ただでさえいまの俺は、薫子の前で数多の醜態を晒してしまっている立場なのだ。

 これ以上、俺の持ってるオトコの尊厳を崩壊させるのは、断固阻止しなくてはならなかった。

 ただ幸いなことに、奴からのさらなる追撃は発生しなかった。

 薫子は、「着替え、ここに置いておくから」という事務的な言葉を残して、パタパタと脱衣場をあとにしていく。

 着替え?

 着替えってなんだ?

 奴の言葉に俺は疑問符を掲げたが、まだそれを確認できる状況にはなかった。

 俺がその行為を成し遂げたのは、身体も髪もきっちり洗って、ふたたび湯船にたっぷり浸かった、そのあとでの話だ。

 風呂場から出て、置いてあったバスタオルで身体を拭いた俺は、その着替えと呼ばれたシロモノを、しかと目の当たりにしたのである。

 それは、肩が露出するタイプのワンピースに、レースの入った下着類だった。

 どこをどう見ても、女物の着替えだ。

 ご丁寧なことに、ブラに詰めるための専用パッドまでもが用意されている。

 俺はこの時しかと悟った。

 これこそが、この衣装を身にまとうことこそが、あいつの言ってた「罰ゲーム」ってものの正体なのだと。

「かッ、かッ、かッ……薫子ォォォォォォッ!!!」

 俺はその場で絶叫した。

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