第十三話:モカ・マタリ・クラシックス
俺がその地に辿り着いたのは、G6ジムカーナ「ファインアートRd」が開催された、その翌週の日曜だった。
時刻は、おおよそ十時半。
天候は、眩しいほどの快晴である。
さんさんと降り注いでくる陽光が、俺の頭上をちりちり焼いた。
この様子だと、昼を迎える頃にはかなりの気温になってるだろう。
ラフな格好をしてきた俺の、その判断を思わず絶賛したくなる。
「たぶん、このマンションだよな」
住所の書かれたメモを片手に、俺は下から上を見上げた。
目の前には、真新しい集合住宅が一軒、これでもかとばかりに仁王立ちしている。
バルコニー付きの、鉄筋コンクリート七階建て。
煉瓦の色の外壁が、どことなくシックな雰囲気を醸し出してた。
いま俺の立ってるところは、市街中心部から少し離れた場所に建つ、そんなマンションの真ん前だった。
マンションの名称は「ラ・メゾン
そこはかとなくだが、どこかで聞いたことのある名前である。
そのままあたりを見渡すと、建物のすぐ近くには、広い駐車場を備えたショッピングセンターが、ででんと店を構えていた。
全国チェーンのコンビニも、歩いて数分という場所にある。
地方鉄道の駅だって、かなりの近場に存在した。
直線だと、せいぜい二、三百メートルといったところか。
贅沢さえ言わなければ、実に住みやすい環境にあると言えた。
少なくとも、俺の住んでるところの比ではない。
地方都市の割にクソ高い家賃も、ある意味、納得のいくところだと思われた。
「薫子の奴、なんだかんだ言って、やっぱり高給取りなんだな」
かなりの阿呆面晒しつつ、俺は、ぽつりと独り言ちた。
「さすがは女医さん。そりゃ普通のOLの稼ぎなんかじゃ、こんなところで独り暮らしなんてできるわけないよなァ」
そう。
この家賃ひと月十万超えのマンションは、俺の
奴の居室は、最上階の707号。
俺のいる場所からだと、その部屋のバルコニー部分が見て取れた。
ネットで調べてみたところ、部屋の間取りは1LDK。
独身オンナがひとりで暮らすには必要十分の広さであった。
もっとも、ひとりで暮らすには必要十分、というレベルは、言い換えるなら、ふたり以上で暮らすにはいささか窮屈、という評価とイコールでもある。
あいつ、マジで付き合ってる
なんとはなしに、俺は思った。
あれだけの顔と身体だ。
少しばかり性格に難があっても、色気付いた男どもが寄ってこないわけなんてない。
しかも職業が医者で稼ぎがいい上、性的なハードルも随分低くうかがえてしまう。
オトコとしてあいつを口説かないでいる理由が、正直思い付かなかった。
俺のように解脱したオタクじゃなければ、あいつと親密交際することに不満なんて感じないだろう。
いや、たとえ俺と同じような人種であったとしても、いざ薫子を前にすれば、容易に宗旨替えすること間違いないのでは、とさえ思えてしまう。
だから俺は、いまのあいつが独り身であることに、強い違和感を覚えずにはいられなかった。
実はちゃんとしたパートナーがいるんじゃないかと、激しく訝しんでさえみせた。
だが次の瞬間には、そんな自分を俺は否定していた。
冷静になって考えてみると、正式に付き合っている相手があいつにいるのだとしたら、この俺が奴の住居に呼ばれるわけなんてないのだ。
いくら二次元におのれを捧げた重度のオタクなのだとはいえ、俺だって、生物学的にはれっきとした「男」なのである。
咄嗟の場面の腕力でオンナに劣るはずはないし、そうやって組み伏せた「女」に自分の子供を孕ませるだけの能力も備えている。
まともな彼氏を持つ「女」なら、そんな危険を犯すことなどあり得ない話だった。
たとえ自分自身が「安全だ」と信じている相手であっても、相方がその選択をどう思うかは、まったくの未知数だからだ。
複雑な思いがないわけじゃなかったが、俺は、そのことだけは、自信をもって断言できた。
そしてそれゆえに、いまのあいつに彼氏がいる可能性を、俺は頭の中から綺麗さっぱり放り捨てた。
そもそもそういうのは、俺が気にするような問題じゃなかった。
あいつに彼氏がいようといまいと、俺にはまったく関係がない。
俺と薫子は、所詮ジムカーナ競技で勝った負けたを競うだけの、そんな間柄でしかないのだ。
たとえその勝負に賭けられたのがあいつの貞操であったとしても、この俺は、それに意見を言える立場じゃなかった。
「よし」と小さく気合いを入れて、俺はマンションの入り口に歩を進めた。
俺が薫子からの呼び出しを受けたのは、昨日の夜のことだった。
午後八時すぎに、突如としてかかってきた一本の電話。
液晶画面は、見覚えのない番号を表示している。
普段の俺なら、そんな怪しい電話には完全無視を決め込んだだろう。
にもかかわらず、その日の俺は、自然とスマホに手を伸ばした。
それも、作画仕事の手を休めて、である。
締め切り日まで余裕があったこともそうなのだが、ちょうど気分転換が欲しかったタイミングであったのも強く影響した。
結果的にその判断は、この俺に新たな事件をもたらすことと相成った。
電話の主が、寄りにも寄って薫子だったからだ。
「ハァ~イ、圭介くん。グッド・イーブニーング。ジス・イズ・カオルコ=オーハシ。
電話を取った俺の鼓膜を、ハスキーボイスが一撃する。
「ピンク色した童貞らしく、今宵もちゃんと自己鍛錬に励んでたかしら? 男の子はね、誰もがみんな、長くて孤独な自主トレを経験した上で、大人の男になっていくのよ。君も一人前のオトコになりたかったら、そういう大事な課程を、絶対に端折っちゃ駄目。わかった?」
「まったく……誰かと思ったら薫子か。相変わらず膿んだオツムしてやがんな。少しはそういう思考から、離れて生活できないのかよ」
「圭介くん。
「はいはい。左様ですか、そうですか」
「そうよ。この世に産まれてくる子供たちにとって、自分の父母のセックスは、創世神話にほかならないわ。それを汚らわしいものみたいに忌避したり、いかがわしいものみたいに取り上げたりするのは、多くの新生児たちに対する真っ正面からの侮辱なの。ましてや、男女の聖なる営みに敬意を抱かず、単なる欲求解消の手段としてしか捉えていない、そんなふざけた連中に至っては……」
「薫子?」
「あ、ごめんなさい。本題に入るわね」
急に薄暗くなった声を狙ったように反発させて、薫子は、単刀直入、俺に告げた。
「例の罰ゲームの話なんだけど」
「ああ……」
来るべきものが、ついに来たか。
俺は思った。
「覚悟はしてる。約束だもんな。反故にするつもりはねえよ」
「なるほどなるほど。それはいい心がけね。さすがはチェリーボーイ。あたしが見込んだだけのことはあるわ」
「童貞は関係ねえだろうがッ! 童貞はよッ!」
「そうね。確かに童貞は関係なかったわ。ごめんなさい。圭介くん@チェリーボーイ」
ぐぎぎ……この年増女、何度も何度も童貞童貞連発しやがって。
この年になって経験ないのが、そんなに悪いことなのかよ。
畜生、なんと言い返してくれようか。
電話の向こうで歯ぎしりしている俺の様子を知ってか知らずか、薫子は転がるような口調で言った。
「で、話はもとに戻るんだけどさ。この一件、いくらこんな風に電話口で話してても、上手に内容が伝わらないと思うのよね。だから君、今度の日曜、あたしの
「えッ? おまえの家?」
「そ。あたしの家」
俺からの驚きをまともに受け止め、それでもなお、あっけらかんと、あいつは応えた。
「光栄でしょ? こ~んな美女のお家にお呼ばれするなんて、オトコにとっては願ってもない役得よ。この薫子さんはね、滅多なことじゃ自宅に他人を呼ばないの。だから今回のこのご招待は、いわば君という挑戦者への敬意の証。言い換えるなら、あたしからのウルトラスペシャル出血大サービスっていう奴なわけ」
「い、いや。ちょっと待てよ。いきなりそんなこと言われたって……」
「ああ、一応断っておくけど、今回のがいくら出血大サービスだからって言っても、別にその日があたしの生理日っていうわけじゃないから。そこんとこ誤解しないようにしておいてね」
「誰がするかッ!」
「あ、そう。じゃあ、問題はなんにもなし、と、いうことね」
「えッ? えッ?」
「早速だけど、メモの用意はいいかしら? あたしん
その後の会話は、一方的な薫子のペースで進行した。
もともと俺には拒否権なんぞないわけだから、それはある意味、仕方のない展開ではあった。
俺はあいつに促されるまま、手元の紙に奴の住所を書き綴った。
俺がいまこの場所に立っていられるのは、その情報があったればこその結果だ。
あの何事か企んでいそうな奴の顔付きを思い浮かべ、俺は、大股でマンションのエントラントに踏み込んだ。
気構えは、ご自宅訪問というより、いざ出陣にさえ近い。
薫子の住むマンションは、オートロック式のセキュリティが設けられていた。
天井から下がっている防犯カメラが、真っ直ぐに俺の姿を捕捉している。
恐らくだが、その映像は管理人室に送られているのだろう。
俺が怪しい態度を取れば、警備員なり管理人なりがすぐさま飛んでくるはずだ。
もっとも、正当な理由あってここを訪れている俺には、それを怖がる根拠などない。
間近に置かれたインターフォンを操作して、俺は堂々と707号室を、すなわち薫子のいる部屋を呼び出した。
間を置かず、聞き覚えのあるハスキーボイスがエントラントに響いてくる。
紛れもなくあいつの声だ。
歓迎の第一声が、俺の耳穴を貫通した。
「いらっしゃ~い、圭介くん。ちゃんと迷わずに来れたみたいね。偉いぞ」
「昭和のガキじゃあるまいし」
そんな薫子に向け、呆れ顔して俺は応えた。
「いまの時代にゃナビっていう文明の利器がある。正確な住所さえわかってるなら、小学生だって目的地に辿り着けるさ。他人を侮るのも大概にしとけよ」
「何よ。せっかく褒めてあげてるんだから、ここは素直に喜ぶべきところでしょ? そんな風にひねくれた反応ばかりしてると、人間関係こじれるわよ」
「へいへい。悪うございました」
「じゃあ、いまロック開けるから、そのまま上がってらっしゃいな」
少しだけ声を潜めてあいつが言った。
「あ、そうそう。扉を潜るのは、くれぐれも周りに変な奴がいないかどうか見回してからにしてね」
「変な奴?」
「オートロックを空けた途端、便乗して侵入してくる変質者がいるのよ」
俺の疑問符に薫子は答えた。
「電子セキュリティだって万全じゃないわ。事実、性犯罪の相当数は、被害者の自宅の中で起こってるんだから。こう言っちゃなんだけど、こと不法侵入者に関してだけは、気を付けるだけ気を付けても、まだ気を付けすぎってことはないわね」
「随分と物騒な世の中だな」
「そうよ。君はまだ知らないかもしれないけど、この世の中には、信じられないくらいの悪人が、それこそ雲霞のごとく棲息してるの。そんな連中からしたら、法律なんて、それこそあってないようなものよ。だからこそ、できる防御は自分でしっかりしなきゃあね」
そんなこと、言われなくても痛いほどわかってるさ。
薫子の台詞に、心の中で俺は応じた。
ズボンのポケットに右手を突っ込み、ICレコーダーの存在を確認する。
罠に対する警戒と心構えは、日頃からさんざんシミュレートしてきたつもりだ。
それが杞憂なのだと頭の中では理解できても、心の本質的などこかが、常に警告を出し続けていた。
オンナなんて生き物は、決して信用してはならないのだ──と。
だがそんな思いををおくびにも出さず、俺は足早に扉を潜った。
もちろん、周囲の様子に十分注意を払ってからだ。
数分後。
掃除の行き届いたエレベーターを経由して、俺は、
腹一杯に周りの空気を吸い込んでから、呼び鈴に向け指を伸ばす。
ピンポーンと、チャイムの音が軽快に鳴った。
しばらくして、分厚い扉の向こうから、ロックの外れる音がする。
「待ってたわよ、圭介くん」
ガチャリと開いた扉に続いて、ショートカットの綺麗どころが俺の視界に現れた。
言うまでもなく薫子だ。
これがこいつの室内着なのか、スウェットの上下を身にまとっている。
色はグレー。
当然ながら、色気なんてものはさっぱりない。
来客を迎えるための格好とは、到底言えない出で立ちだった。
にもかかわらず、その装いが異様に似合って見えるのは、こいつの着こなしが尋常でないからなのか、はたまた俺の美感がまるで普通じゃないからなのか、それとも実はその両方だからなのか、激しく理由に悩むところであった。
「お邪魔します」と一礼した俺は、一番奥のLDKへと通された。
その十畳ちょっとはありそうなフローリングの室内には、壁面に沿って本棚その他とソファが置かれ、それと対面するキッチンとの中間付近に、北欧風の椅子とテーブルとが余裕をもってレイアウトされていた。
飾り付けと言えるようなアクセントは、ほぼ最小限に抑えられていた。
目立つのは、棚の上に飾られた小さな盾がいくつかと、ガジュマルやパキラといった観葉植物が若干といったところか。
決して質素なわけではないが、だからといって華美でもない。
そんな微妙なバランスが、部屋全体の雰囲気を見事なまでに引き締めていた。
「まあ、いきなり本題っていうのもなんだから、まずはこの薫子さんが、アイスコーヒーでも煎れてあげるわ。今日は朝からいい天気だったから、君もそれなりに喉渇いたでしょ?」
この俺に椅子を勧めた薫子が、そんな内容を告げてきた。
向かい合う位置に着座して、テーブルの上に頬杖を突く。
「いくら口約束でも、やっぱり約束は約束だもんね。ちょうどね、モカのいいのが手に入ったところだったのよ。思い切って、今日はそいつを奮発しちゃうわ。感謝しなさいよ。この幸せ者」
「えッ? モカ? モカって確か、結構高いコーヒーだったろ? いいのかよ? 俺なんか相手に、そんなの消費しちゃって」
「アフリカはエチオピア産のモカ・マタリ・クラシックス。コーヒールンバで歌われた、あの有名な逸品よ。でもね、圭介くん。それは、君みたいなチェリーボーイが気にするようなことじゃないの。これもあたし流の、敵に塩を送るっていう奴なんだから」
俺を見詰めてそう言った薫子は、やがてわずかに目を細めた。
口の端が、悪魔の笑みを形作る。
その表情が女郎蜘蛛のそれに見えたのは、俺の自意識過剰なんだろうか。
「さて」と、ひと声発して席を立った薫子が、回れ右してキッチンに向かった。
アンティーク風のコーヒーミルを取り出して、ゴリゴリと豆を挽き始める。
マニアックなことに、それは電動ではなく、ハンドルが付いてる手回しのものだ。
豆を挽く薫子のヒップが、俺の視界で怪しく揺れた。
地味なスウェット越しにもかかわらず、オンナの「性」を主張する。
はっきり言って、目の毒だった。
盛りの付いたオトコなら、「誘ってるんじゃないか」と、誤解しかねない存在だ。
さすがにそのレベルには至らないにしろ、俺の中にあるオトコの部分も、反応を示さすにはいられなかった。
俺はそこから、意識して目を逸らした。
奴がコーヒーを煎れ終わるまでの間に、火照った身体を元に戻さなくちゃならない。
あいつがこちらを見ていないのをいいことに、部屋のあちこちへと視線を向ける。
断言するが、挙動不審もいいところであった。
そんな俺の目線が、とある一点を捕捉した。
腰の高さほどある、木で出来た本棚の上。
俺の目はそこに、小さな異物を発見したのだ。
それは、一体の「こけし」だった。
高さ二十センチに満たないほどの、いわゆるひとつの「伝統こけし」
直前には、まるでお供え物でもするかのごとく、茶碗がひとつ置いてある。
なんだ、あれ?
好奇心に駆られた俺は、おもむろに立ち上がって、その場所に向かった。
こけしの顔を一瞥したのち、茶碗の中身を覗き込む。
中に入っていたのは、乳白色の液体だった。
おそらく、これはミルクだ。
確かめるような真似はしなかったけど、俺はそのことを確信した。
強烈な違和感、とでもいうんだろうか。
俺は雷にでも打たれたように、そのまま数秒間立ちすくんだ。
金縛りにあったのだと、言い換えても構わない。
どうしてそうなってしまったものか、理由はさっぱりわからなかった。
心が、ではなく、細胞がそれを命じたのだ、としか、説明のしようがなかった。
そんな俺を軛から解き放ったのは、薫子の放つ切れのいいハスキーボイスだった。
後頭部めがけて飛んできたそれが、俺の背骨に筋を通す。
「圭介くん」
慌てて振り向く俺の視界で、振り返りもせず、あいつは言った。
「あたしブラック専門だから、君もブラックで我慢してね」
「あ、ああ。問題ない」
答えながらいそいそと席に戻る俺。
薫子が氷を入れたグラスをふたつ持ってきたのは、それからすぐのことだった。
ドリップしたばかりの熱々のモカを、ためらうことなくそこに注ぐ。
グラスの中の氷が溶けて、ホットなそれは、たちまちのうちにアイスなそれへと変貌を遂げた。
「さ、味わいなさいな」
自信満々な薫子に促され、俺はグラスに口を付けた。
コーヒー独自の酸味と香りが、舌と鼻腔を稲妻のごとく突き抜ける。
やはり、インスタント製品なんかとは格が違う。
別種の飲み物として分類すべきなんじゃないか、と真剣に思った。
「凄いな、これ」
俺は、感嘆の言葉を口にした。
「本物っていうのは、こういうのことを言うんだろうな」
「気に入ってもらえたみたいで嬉しいわ」
喜色を浮かべて薫子が応えた。
「世の中にあるすべてのものは、ことごとく次の二種類に分別できる。それは、本物と本物じゃない物の二種類──…」
「それ、どこの偉いひとの台詞だ?」
「大橋薫子っていう哲学者の台詞よ」
「ふん」
鼻で笑って俺は告げた。
「本物と本物じゃない物、ねェ。おまえの中じゃあ、本物と対になるのは偽物なんかじゃないんだな」
「そうね。偽物とは、ちょっと違うわね」
意味深な口振りで薫子は言った。
「本物だから、常に素晴らしいっていうわけじゃない。本物じゃない物だから、常に粗悪品っていうわけじゃない。でも偽物っていうものの中には、誰かの悪意が百パーセント混じってる。だからあたしは、本物じゃない物イコール偽物とみなすのには、本音で言うと反対かな」
「随分と小難しい話だな。哲学者かよ」
「あら? いましがた、はっきりそうだと言わなかったっけ?」
破顔した薫子が、グラスの中身を空にした。
艶っぽく「フゥ」とひと息吐きながら、満足気な表情で目を瞑る。
俺もまた、自分の分のコーヒーを、残さず胃の腑に送り込んだ。
正直言って、美味かった。
もう一杯欲しいと言いたいところだけど、それは贅沢というものだろう。
いや、それを言うなら贅沢ではなくワガママか。
ところがだ。
そんな俺の内心は、あいつの認めるところとなっていた。
間髪入れず薫子が、「お代わりいる?」と、俺に尋ねてきたのである。
「もらえるものなら」
奴の質問に俺は答えた。
それを受けた薫子が、微笑みながら席を立つ。
本気でもう一杯煎れてくれるらしい。
ありがたい。
俺はマジでそう思った。
高級な苦みは、麻薬に近い。
俺はそれを痛感した。
なるほど。
アラブの偉いお坊さんが、哀れな男にこれを勧めるのも納得の効果だ。
数分後。
しばらくキッチンで作業していた薫子が、トレイに乗せた逸品を俺の元まで持ってきた。
さっきみたいに、目の前で作ってくれるという形ではないようだ。
グラスの中には、すでにアイスコーヒー化したモカが、もうなみなみと注がれている。
「お・ま・た・せ」
妖しく瞳を輝かせた薫子が、俺を上から見下ろした。
奴の立ち位置は、俺のすぐ側。
わざわざそこまでやって来たあいつは、その場でグラスを手に取った。
ウェイトレスがするみたいに、それをテーブル上に置こうとする。
嫌な予感が俺を襲ったのは、その瞬間のことだった。
あいつがなんの前触れもなく、とんでもないことを口走り始めたからである。
「あらやだ。急にめまいが」
「!?」
誰にとっても棒読みにしか聞こえないその台詞。
それと前後し、奴の身体が不規則に揺れ始める。
ふらふらと左右に。
ふらふらと前後に。
もちろん、手に持ったグラスはそのままだ。
それゆえに、発生する惨劇は、まったく予想の範疇だった。
そしてそれは、瞬く間に現実のものとなる。
「きゃあ、ごめんなさい」
わざとらしすぎる謝罪とともに、あいつの手首がくるりと返った。
その場所は、寄りにも寄って、俺の頭のすぐ上だ。
続く刹那、琥珀色した液体が、俺の頭部に降り注いだ。
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