第十二話:ジムカーナ競技初参戦
世の中ってのは、思うように行かないことのほうが絶対多い。
それも、圧倒的に高い比率で、だ。
この俺はそうした現実を、ゲップが出るほど味わってきた。
人生というものに表と裏があるとするなら、そのどちらにおいても、俺はそうした現実に、叩きのめされ生きてきた。
だから何かに挑戦する時、俺は「成功した自分」というものを、極力想像しないよう心がけてた。
「成功した自分」って奴をひとたび期待しちまうと、それが実現しなかった時に、受けるショックがはっきり倍増するからだ。
それを実地で理解していた俺は、ゆえにこそ、常時「失敗した自分」というものを念頭に置くよう努力してきた。
あらかじめ「失敗した自分」を覚悟しておけば、仮にそのとおりの事態になったとしても、「ああ、やっぱり」で済ませられるというわけだ。
もしそのネガティブな予想が覆されたとしても、それはそれでまた問題はなかった。
想定していたマイナスが、予期せぬプラスに転じるのだ。
その場合は、この手にできる喜びも、またひとしおのものとなる。
たとえどっちに転んだとしても、俺にとって不利益はなかった。
こんな歪な思考パターンは、いまや揺るがすことのできない正攻法になっていた。
もちろん、そんな俺を非難する連中は、これまでの人生において星の数ほど存在した。
だが、俺にそう説教してくる奴らのほとんどは、綺麗事しか言わない偽善者だった。
この世の中に、偽善という言葉ほど醜いものはないと思う。
なぜなら偽善という奴は、それを主張している本人すらが善と信じてるものなんかじゃないからだ。
それはただ、言ってる奴らが他の誰かをぶっ叩くための棍棒でしかない。
奴らはひたすら自分たちの正しい立場を免罪符に、気に食わないほかの誰かを屈服させたいだけなのだ。
断言する。
偽善って奴は、ねじくれた自己承認の強制でしかない。
そう思っているからこそ、俺は、巷に溢れる偽善者どもが嫌いで嫌いでたまらなかった。
自分の正義に酔ってる奴らを、この手で排除したいとさえ思っていた。
無論、ひとたびそれを行えば、今度は俺が、奴らの立場に堕してしまう。
だからあくまで思っているだけに済ませ、俺は、そうした思いを行動に移そうとはしなかった。
やっちまえば負けだ、と頑固に信じてならなかった。
それこそが、あるいは俺の「正義」なのかもしれなかった。
話が随分脱線した。
世の中のことは何事も、思うように行かないことのほうが絶対多い。
俺はそうした現実を、いま痛いほどに味わっていた。
震える両手で支えているのは、文字だけが印刷されているA4の用紙。
その内容は、意味のある文章で構成されているわけではない。
むしろ、知らない者がこれを見ても、単なる文字と数字の羅列だとしか思わない代物であろう。
それは、今回のG6ジムカーナ第三戦「ファインアートRd」における、計測タイムのリザルトだった。
早い話、参加者の誰が何秒でコースを走り抜けたのかを記録した、その一覧の写しなのだというわけだ。
俺はその結果を目の当たりにして、おののく背筋を自覚した。
背筋だけじゃない。
ペーパーを持つ左右の手も、それを見詰める両の目玉も、俺の意志とは無関係に小刻みな振動を繰り返している。
揺らぐ視線が指していたのは、その紙の上の一点だった。
4WDクラス最下位の場所。
その位置に、それはもう燦然と、俺の名前は記されていた。
愛車「パルサーGTI-R」のそれと並んで──…
そう。
詰まるところこの俺は、記念すべきジムカーナ競技初参戦にて、見事どん尻という順位をゲットしたというわけなのだ。
言い換えるなら、エントリー台数二十台を超える4WDクラスの中で、俺より遅い参加者は、ひとりもいなかったということになる。
いまだから言うが、初めから嫌な予感はしていたのだ。
なんといっても、俺の「パルサー」が割り振られた4WDクラスってのには、あの「ランサー・エボリューション」や「インプレッサWRX」といった化け物グルマがゾロリと顔を並べている。
その絶対性能はともかく、相対的に俺の愛車は、それらモンスター相手に肩を並べられるスペックじゃなかった。
馬力・加速・旋回性能。
それこそもう、ありとあらゆる性能が連中に対して劣っていた。
だがそんな言い訳を口にするのは、男としてみっともな過ぎる行為だ。
愛車のスペックに文句があるなら、初めから、劣ったクルマでの勝利など目指さなければいい。
エントリー前の俺は、なんだかんだ言って自分のドラテクに相応の自信を持っていたし、そいつでクルマの性能差を十分埋められると考えていた。
だからこそ、俺はこのG6という競技の場にわざわざ足を踏み込んだわけであり、すべては俺の、俺自身の責任で行った決断であった。
当然ながら、その決断が妥当なものと俺本人は確信してたし、いつも以上に勇気を奮えば、上位入選だって全然手の届く位置なのだと、なんの根拠もなく思っていた。
それがどうだい。
手にした結果は、誰が見たって散々過ぎるものだった。
俺のひとつ上の順位、すなわちブービーの位置にいる
愛車に責任を背負わせるのは、はっきり言って筋違いだった。
すべては、ドライバーとしての俺が招いた、当然の帰結に過ぎない。
そうだ。
そのとおりだ。
自分自身でも嫌ってほどにわかってる。
このリザルトが証明するもの。
それは早い話、この俺が単なるヘタクソドライバーだったっていうこと、ただそれのみなのである。
大きく伸びた天狗の鼻を、これ以上はないってほどにへし折られた俺。
その真横では、けたたましい笑い声が断続的に爆発していた。
発生源は、いうまでもない薫子だ。
途中で張り出される計測結果をわざと確かめなかった俺に合わせて、奴もまた、最後のリザルト発表まで自分と俺との走行タイムを確かめようとはしなかった。
「そのほうが、サプライズな結果を楽しめるじゃない」というのが、あいつ自身の言い分だった。
でもたぶん、その本心は別のところにあったのだろう。
奴は間違いなく、この結末を予測していたんだ。
余談だが、あいつ自身は優勝こそ逃したものの、クラス二位という立派な成績を獲得していた。
それは、まさに惜敗だった。
一本目までは余裕のトップタイムだったのだが、二本目で、コンマ一秒差の逆転優勝を許してしまったのである。
とはいえ、その逆転を許した相手は、全日本ジムカーナにスポット参戦を果たすほどの実力者だ。
優勝を逃したことで薫子の評価に味噌が付くだなんて、あり得る話じゃ全然なかった。
むしろ俺には、その銀メダルの地位が輝いてさえ見える。
G6に設けられた「
それに文句を言うような奴は、少なくともこの会場には、ただのひとりもいないだろう。
実にたいしたオンナだと、正直言って俺は思う。
その薫子がいきなり俺の後ろに回り込んだのは、それからすぐの出来事だった。
「あー、おかしい」
片手で脇腹を押さえながら、奴は俺の肩越しに、ふたたびリザルトを覗き込んだ。
耳元で弾けるハスキーボイスが、俺の鼓膜を優しくまさぐる。
よく見ると、奴の目尻には、うっすらと涙まで浮かんでいた。
さっきのは装われた笑いなんかじゃなかった。
この女は、本気で俺を笑い飛ばしてたんだ。
莫迦にされた。
そのことを悟った瞬間、強烈な不快感が俺を襲った。
最下位という結果にともなうショックが収まり、入れ替わりに、激しい怒りが込み上げてきた。
プライドを傷付けられた痛みが、全身の筋肉を否応なしに硬直させる。
そして次の瞬間、そんな俺の心情をわかってなのかどうなのか、薫子は、なんともコミカルな言動でもって、俺の心を煽りに煽った。
「よくもまあこの程度の実力で、『薫子。今夜は俺の精液を、たっぷりおまえに注ぎ込んでやるからな。たとえ排卵日だろうが容赦しない。絶対に、俺のアレなしじゃあ生きられない身体にしてやる。しっかり俺の子を孕むんだぞ。わかったな。キリッ!』な~んてお莫迦な台詞が言えたものねぇ。さすがは妄想チェリーボーイ。大胆不敵な孕ませ宣言にビビるより早く、君のその、身の程知らずな肝っ玉のほうにビビっちゃうわ」
「誰も、んなこと言ってねーだろうがッ!」
振り向きざまに俺は叫んだ。
「そんなエロ漫画みたいな腐った台詞、勝手に捏造してんじゃねえよッ! おまえの膿んだ頭ん中じゃあ、この俺は、いったいどんな設定になってんだッ!? 完全無欠な名誉毀損じゃねえかッ! 謝れよッ!」
「まあまあ、落ち着きなさいな。ちょっとした要約って奴じゃない」
激高する俺に、しらっと薫子は言ってのける。
「そもそも君、勝負に勝って、あたしの身体で脱童貞したいんでしょ? だったらさ、さっきの発言内容は、君の気持ちと大きな違いはないはずよ。それとも何? まさか君って、裸同士の添い寝だけで十分満足しちゃうってタイプなの? どうなの? 圭介くん@チェリーボーイ?」
「ウギギ」
「まあもっとも、君の漫画の妄想セックスなんかと違って、あたしはしっかり、自分の身体を守るけどね。コンドームで。軽率に生エッチ許しちゃうような女の子は、そりゃあそれなりにいたりするけどさ、少なくともあたしは、好きでもない男の子供身ごもるだなんて重大リスク、完全無欠にゴメンナサイだわ。もちろん、そういった痛みをオンナに背負わせようとする、頭の軽い莫迦男たちもね。このご時世、そんな無責任セックスしようだなんてウォーキングペニスが発見されたら、人類社会のこれからのためにも、一人残らず捕獲して、さっさとアレをちょんぎっちゃえばいいのよ」
衣を着てない過激な言葉が、あたり一面に朗々と轟く。
こいつには、端っから秘め言にするつもりなんて、それこそ欠片もないようだ。
その冗談みたいな衝撃は、他の参加者たちの関心を嫌でもこちらに引き付けた。
なんと言っても発信元が、人目を惹くことこの上ないトンデモ美女の薫子なのだ。
そうした結果を予想するのは、この俺にだって簡単すぎる行いだった。
痛い視線が俺らふたりに集中するなか、薫子はなおも、罵倒を交えた独演会を継続する。
性的倫理を嘲る男女。
そして、そうした流れをあたりまえのように受け入れてしまう、軽率過ぎる一般世論──…
薫子は、それらすべてを徹底的にこきおろした。
袋小路に追い詰めた。
それなりの学がなければ反論すらできないだろう。
口調はいちいち暴力的だが、言ってることは正論だった。
少なくとも、俺個人としてはそう思った。
「だいたいねぇ。いまの世の莫迦男どもは、『ヤればできる』っていう現実に、向かい合う気が全然ないのよ。健康な女と避妊もしないでセックスしてたら、妊娠するに決まってるじゃない。でもそういった男どもはさ、いざお相手がご懐妊ってことになったら、今度はあっさり『堕ろしてくれ』ってなるわけよ。
まったく……ひとりのオンナとして言わせてもらえば、『千手観音が全力で中指立てるレベル』だわね。せっかく授かった新しい命を、いったいなんだと思ってるのかしら? 相手のオンナの人生も、これから生まれてくる新しい命も、両方支える気概がないなら、軽々しくセックスなんてするんじゃないわよ」
このあと薫子は、そうした無責任オトコどもをつけあがらせているイマドキオンナの態度をも、口を極めて罵った。
刹那的な快楽を求め、上辺だけの軽薄なオトコに身を捧げる、そんな現代女性の風潮を、それこそ徹底的に口撃した。
こいつの話す内容は、俺と同年代の女どもからしてみると、あるいはアラサー婆の大きなお世話に聞こえるかもしれない。
でもその根幹にあったのは間違いなく、自分の身体を大切にしない、同性たちへの気遣いだった。
それを聞いていて、俺は思った。
たぶん薫子は知ってるんだ。
現役の産婦人科医として、いくつもの堕胎現場に立ち会ってきただろう薫子は、そんな現状を嫌ってくらいに知り尽くしてるんだ。
だからこそ、こいつの厳しい言葉の裏には、そのひとつひとつに重みがあった。
ネット上の女叩きとは比べものにならない、事実に基づく説得力があった。
そう言えば、日本人の隠された死因第一位が実は「人工中絶」なんだっていう記事を、どこかで読んだおぼえがある。
正直、余り気持ちのいい話ではなかった。
もしそこに書かれていることが本当なんだとしたら、薫子の放つこの憤りも、あるいは当然のことなのかもしれないと思った。
「ところで圭介くん」
そんな薫子が突然話題を切り替えたのは、それから間もなくのことだった。
「君、約束のことはちゃんとおぼえてる?」
「約束?」
「あっら~、オ・ト・ボ・ケ」
にやりと笑って薫子は言った。
俺の身体に後ろから抱きつき、たわわなバストを意図して背中に押し付けてくる。
滅茶苦茶厚手なレーシングスーツ越しでありながら、なおそのボリュームは、俺の官能を狂おしいほどに刺激した。
甘く豊かなこいつの匂いが、激しくそれを後押しする。
畜生ッ!
これがリアルGカップの破壊力なのかッ!
「は、離れろよッ! 暑苦しいだろうがッ!」
起き上がってきた息子を精神力で二度寝させ、俺は、力任せに薫子の奴を振り払った。
わざとらしく大声を出し、奴に対して向き直る。
顔全体が火照っているのを自覚した。
実に実にみっともない。
大事なことだから重ねて強調する。
少なくともそれは、スマートな男の取るべき態度では絶対になかった。
「何よもう。ホントは嬉しかったくせにィ」
両手を腰に、軽いテンポで薫子が言った。
こっちの心中などまるでお見通しだ、とばかりに、その口元をにやっと大きく綻ばせる。
「いまさらごまかしたって全然無駄よ。君のその林檎みたいなほっぺたが、あたしに教えてくれてるわ。でもね、圭介くん。恥ずかしがることなんてなんにもないのよ。健全な若い男が、妊娠可能な女と接して思わずペニスを勃起させる。それって、男としての生殖機能がきちんと働いているっていう立派な証明なんだもの。君は知らないでしょうけど、むしろ男性機能的には、勃起不全の症状のほうが今世紀ではより大きな問題に──」
「勃起勃起って連発するなァッ!」
脊髄反射で俺は怒鳴った。
「そんなシモネタ全開の卑猥な単語、オンナが人前で口にするんじゃねえよッ! おまえの頭ん中にゃ、羞恥心って言葉がねえのかッ!? あーッ、畜生ッ! 聞いててこっちが恥ずかしくなってくるッ! おまえは自分のことを魅力的な女なんだって思ってるかもしれないけどな、その自己評価は完全無欠に間違ってるぞッ! いいか、よく聞けッ! そもそも魅力的な女ってのはだな、外見だけが決め手じゃねえんだッ! 魅力的な女ってのは、もっとこう雰囲気が上品で、貞淑で、清潔感があって──」
「あーあー、そんな童貞坊やの妄想話、聞く耳なんて持ってませんー」
しらけた口調で薫子が言った。
ぷいとそっぽを向きながら、右手の小指で耳穴を掘る。
「あたしはリアルな女だから、
「よーくわかってるじゃねえか」
うんうんと数度頷き、俺は応えた。
「身の程を知るってのはいいことだ。実にいいことだ」
「ほっほーう」
それを受けた薫子の両目が、妖気を帯びてギラリと輝く。
それは、圧倒的な反骨心の表れだった。
少しぐらいの侮辱なら、黙って腹に収めよう。
だが、本気で自分を侮る輩は、徹底的に再教育する。
そんなこいつの心の声が、瞳の後ろでちらついていた。
「チェリーボーイが偉そうに言ってくれるじゃない」
口調を変えて奴は言った。
半歩踏み込み、俺と至近で対峙する。
「じゃあ近いうちに、そのご大層な『理想の女論』って奴を、君から直接ご教授願うことにするわ。それも、たっぷりと時間をかけて、ね」
「望むところだ」
負けじと俺は言い返した。
こちらも半歩踏み込んで、互いの距離をさらに狭める。
胸突き合わす間合いとは、まさにこのことを言うのだろう。
周囲の視線を意にも介せず、しばし睨み合う俺と薫子。
火花を散らす視殺戦が、俺の背筋に冷や汗を呼ぶ。
大人のオンナの迫力が、ちんけなハートを圧倒したのだ。
畜生! 負けたくねェ!
だが俺だって、ここで屈するわけにはいかなかった。
勝ち誇った顔を意志の力で作り上げ、挑発的に宣言する。
「その時は、おまえの腐った脳内を、きっちり矯正してやるぜ」
「それはそれは楽しみなこと」
背中を反らして薫子が言った。
気迫で俺が押し勝ったのか?
いや違う。こいつの浮かべた顔付きが、そんな楽観を否定していた。
余裕の面を見せ付けながら、この女は、俺の言葉を右から左にスルーする。
そしてふたたび耳穴をほじり、せせら笑って俺に告げた。
「それじゃーまず、そーんなご立派な圭介先生には、あたしと結んだ約束を、ちゃあんと果たしてもらうといたしますかねー」
「約束?」
すかさず俺は奴に尋ねた。
「さっきから言ってる、その約束ってのは、いったいなんだよ?」
「そりゃもちろん、罰ゲームのことよ」
猫科の野獣の顔付きで、改めて薫子は俺に迫った。
「参加したG6で表彰台に上れなかった時、君には軽~い罰ゲームをやってもらう。兄さんの店で取り交わしたあたしとの約束、よもや忘れたとは言わせないわよん」
「あッ!」
俺は、思わず莫迦面を晒した。
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