第三話:絶世の美女

 髪型は、さっぱりと清潔感あふれるショートカット。

 鴉の羽根みたいに艶やかな黒髪が、日差しを受けて、綺麗な輝きを放っていた。

 少し気取った仕草で外されたサングラス。

 その奥から出てきたのは、見るからに気丈そうな、アーモンド型の両目と大きな瞳だった。

 長いまつげと左目尻の泣きぼくろとが、なんだか妙に色っぽい。

 そして、すっと筋の通った高い鼻と、真っ赤なルージュで彩られた肉感的な唇。

 それら、真っ先に美人の条件にあげられるパーツが絵に描いたようなバランスで配置されてるのを見た俺は、生涯初めて「息を飲む」っていう反応を実体験しちまった。

 ヒールを履いちゃいないのに余裕で百七十半ばはありそうなモデル顔負けのスタイルだって、もうドキドキものだ。

 作りものみたいな細い首に沿って視点を下げていくと嫌でも目に飛び込んでくるのが、白いブラウスを突き破らんばかりに隆起している釣り鐘型の大きなバスト。

 ぎゅっと引き締まった腰のラインが、そのボリューム感を倍増させてる。

 こんなシロモノ見せつけられたら、重度の草食系男子だって、その目を血走らせるに違いない。

 しかもだ。

 それに続く下半身までもがこれまた常識外れだったりするのだから、もう勘弁してくれとさえ言いたくなる。

 黒いタイトスカートとストッキングに強調された脚線美はもう生唾もので、現役のモデルが裸足で逃げ出しそうな感すらあった。

 ある意味で、オトコの妄想を凝縮して具体化した存在がそこにあった。

 そう。

 俺の見る限りコイツは、そんな風に言い切ってしまっても構わないくらい、とんでもないレベルの「美女」だったんだ!

 ヒロイン級の二次元乙女だって、これに太刀打ちできるかは正直言って微妙だと思った。

 二次オタをこじらせた俺が言うのだから間違いはない。

 あと、あえてこれだけは言っておかなくちゃならないことがある。

 それは、コイツがあくまでも「美少女」じゃなく、れっきとした「美女」だったってことだ。

 歳は、俺よりもひと回りほど上に見える。

 ざっと三十前後ってところか。

 一部の連中からすると、確実にBBAオバサン扱いだろう。

 でも俺には、そいつが短所に見えなかった。

 言っとくが、俺は年増好みなんかじゃ絶対にない。

 なんだかんだ言って、女の子は若いほうが断然綺麗だと思ってる。

 しかしだな。

 実際にこういった「オトナのオンナ」って奴を見ちまうと、そいつが金科玉条じゃないんだなってことを、どうしても実感してしまう。

 芸能界で活躍中の美少女系アイドルたちを新鮮さを売りにした高級魚の刺身に例えるなら、いま俺の目の前に佇むこの美女は、まさに超一級の料理人が手間暇かけてこしらえた最上の魚料理だった。

 その美女が、俺に向かって第一声を放った。

「君、誰? あたしに何か用?」

 事務的な誰何だった。

 でもハスキーボイスが耳の奥に心地良い。

 不覚にも俺はそう感じた。

 声優オタクのファン心理が、半分ほど理解できた気がする。

 思わず顔の筋肉が弛緩した。

 情けない限りだが、そんな間抜け面を晒した俺が自分自身を取り戻したのは、たっぷり数秒が経ったあとのことだった。

「お、俺の名前は楠木圭介」

 そこまで聞かれたわけでもないのに、なぜだかフルネームを名乗る俺。

 言い出しで、思わず少しどもってしまう。

 だけど、とにもかくにも最初の言葉を放った俺は、この女を対戦相手としてロックオンすることに成功した。

 強い口調でこう続ける。

「昨日の夜、見晴峠であんたに見事してやられたオトコだ! そこの『パルサー』に見覚えがあるだろう? よもや、忘れたとは言わさないぞ!」

「ああ、あのクルマ、君のだったのね」

 「インテグラ」と並んで停まっている俺の愛車にちらりとその目をやってから、この女は軽やかな口振りで言葉を返した。

 それも、小さく鼻で笑いながら、だ。

 続けざまにこいつは言った。

「大丈夫よ。あんな悪趣味なクルマ、忘れようにも忘れられないから」

「悪趣味だとォ!」

 その発言を耳にした瞬間、全身を流れる俺の血はあっというまに沸騰点へと到達した。

 黒縁眼鏡の下にある両眼から、スーパーノヴァの火花が飛び散る。

 前触れなく噴出した鉄砲水みたいに、俺の口は人語となった激情を一直線に迸らせた。

「莫迦にするなッ! もう一度言ってみろッ!」

「あら、怒ったの?」

 怒りで顔を真っ赤に染めた俺の様子をさもおかしそうに眺めながら、女は、端正なその口元を綻ばせる。

 紅い唇が新たに言葉を紡ぎ出した。

「でも、女の子のイラストをあんなに堂々とボディに貼り付けているクルマなんて、あたしだけじゃなく、ほとんどの人間が悪趣味だって言うと思うけど。違って?」

 激怒を越える真の怒りを、この時の俺は痛いほどに実感した。

 頭蓋骨の中に濃縮されていた熱い血が、雪崩のような勢いで背筋を走って虚空に消える。

 でもそいつは、決して俺自身が「冷めた」って意味合いを持っていたわけじゃない。

 その時までこの身体を突き動かしていた熱エネルギーが、それこそ一気に凝縮され、殺意に似た鋭利な刃物、例えるならドライアイスでできたロングソードと化したんだ。

 俺の顔面から瞬時にして表情が失せた。

 俺の愛車、そのサイドボディには、白い修道服をまとった愛らしい美少女が燦然と描かれてある。

 言うまでもなくそれは、愛しき俺の嫁、「フレデリカ=ファム=ファタール」の艶姿だ。

 同じようなイラストは、ボンネットとリアハッチにもきちんと隙なく描いてある。

 もちろん全部が、この俺自身の直描きだった。

 そう、俺の愛車「パルサーGTI-R」は、いわゆるひとつの「痛車」だったんだ。

 痛車。

 オーナーの愛するキャラクターがそのボディに描かれたクルマのことを、世間一般ではそう呼ぶ。

 それは、「痛い奴ですが、何か?」という自虐的な意味合いを持つ呼び名だった。

 いち時期からすれば随分と受け入れられてはいるんだろうけど、まだまだ十分キワモノ扱いされてる趣味だ。

 衆人からの視線もなかなかに冷たい。

 だけど、俺は胸を張ってそんな「痛車」のオーナーをやっている。

 だってそうだろう。

 俺は「俺の嫁」が大好きだ!

 大声でだって言える。

 そんなかけがえのない存在とともにする時間と空間とを増やすこと。

 そいつは、断じて恥ずべきことなんかじゃない。

 むしろ、単なる偏見で他人の趣味を莫迦にしてくる奴らのほうが、よっぽど人間的に問題あるんだろうと思ってるくらいだ。

 繰り返し言うが、俺の嫁、「フレデリカ=ファム=ファタール」は、「青いひとみのフレデリカ」っていう小説に出てくるヒロインキャラだ。

 小学生みたいな容姿を持った、齢数百年に至る魔女。

 プロとして俺が手がけた初仕事が、そんな彼女のキャラクターデザインだった。

 もちろん、「フレデリカ」ってキャラに惚れ込んだのはそれだけが理由ってわけじゃないけれど、この一件だけでも俺の思い入れがひとしおだってことをわかってもらえると信じている。

 このは、俺にとって「嫁」であり、「娘」であり、ともに戦場を生き抜いた唯一無二の「戦友」でもあるんだ。

 それほどの存在を、いま目の前に立つこの三次元女は、面と向かって「得体が知れない」とした。

 そう、明らかにしたんだ。

 たとえ本人が完全否定したって、その内容は明白な以外の何物でもない。

 許すわけにはいかなかった。

 断じて許すわけにはいかなかった。

 オトコには、決して退くことのできない一線がある。

 愛する者に対する侮辱を黙って看過することは、確実にその範疇に属するものだと俺は考えていた。

「撤回しろ」

 能面みたいな表情で半歩詰め寄り、断固とした意志を込めて、俺はこの三次元女に要求した。

「あのを『得体が知れない』なんて言ったこと、いますぐに撤回しろ!」

「嫌よ」

 要求は、にべもなくはねつけられた。

 取り付く島もないとは、まさにこのことだ。

 そして、続けざまに奴は言った。

 それは、一点も非の打ちどころがない正論だった。

「あなたがあの女の子にどんな感情を持っていてもそれはあなたの勝手だけれど、あたしがそれに同調しなければならないなんて決まりはこの世のどこにも在りはしないわ。

 あなたはあなた。あたしはあたし。あたしはあなたの考え方に介入しようとはこれぽっちも思ってないし、同時にあなたからの介入を受け入れようとも思わない。それは、お互いさまなんじゃないかしら?

 それとも何? あなたは自分の考えが絶対の真理だという客観的な根拠でも持っているの? もしそんなものを懐に忍ばせているのなら、ぜひともこの場で見せてもらいたいものだわ。真正面からの論戦をお望みなら、あたしは、いつだって大歓迎よ」

 ぐぬぬ~、と俺は思わず歯噛みした。

 この女が言うとおり、他人の趣味趣向を強制する権利なんて、俺は持ち合わせてなんかいない。

 いや、そもそもそんな権利を持っている奴なんてこの地上にいるはずないし、いてもらっても困る。

 事実、ほかの奴らに「フレデリカ」以外の「嫁」を押し付けられたとしても、毅然としてそれを拒絶する絶対の自信が俺にはあった。

 ぐうの音も出ない、とは、このことか。

 冷たい刃を片手に構えて武田勝頼正面突撃した俺は、敵の堅陣を目前に強烈なカウンターパンチを浴びたってわけだ。

 ひと言も言い返せない悔しさと一緒に、灼熱の塊が俺の鳩尾あたりに込み上がってきた。

 でもそれは、俺の新しい燃料にならなかった。

 あの冷たい怒りを知ってしまったいまとなっては、そいつはむしろ戦意の後退にすら感じられた。

 携えていたドライアイスの剣が、ぽっきり根本から折れてしまったような気がする。

 まるで、すれ違いざまにマタドールから一撃された雄牛みたいだ。

 だけど、この俺が渾身の力で角を突き立てるべきマタドールは、いまだひらひらと赤い布をはためかし、あからさまな挑発を続けている。

 ここはひとりのオトコとして、尻尾を巻いて逃げ出すわけにはいかなかった。

 いかに無謀と言われようとも、もはや徹底抗戦あるのみだ。

 俺はそう決断し、意図してその眼に力を込めた。

 そんな俺たちの間に割って入ってきたのが、「トレジャー」の店長、大橋悟さんだった。

 悟さんは、なぜだかまっすぐ三次元女のほうに歩み寄り、半分泣きそうな表情で、彼女に向かってすがりついた。

薫子かおるこ

 悟さんは言った。

「頼むから、面倒事ばかり持ち込むのはもうやめてくれ」

「あら兄さん」

 そんな悟さんを「兄」と呼び、この三次元女はからからと笑った。

 なんだなんだ?

 このふたり、ひょっとして兄妹なのか?

 嘘だろう!

 全然似てないぞ!

 思わず困惑の色を見せる俺を尻目に、奴は悟さんへと言い放つ。

「あたしは降りかかってきた火の粉を、軽くこの手で払っただけよ。面倒事を持ち込む気なんてさらさらないから安心して」

 その言い分を耳にして、悟さんが頭を抱える。

 おそらくは、似たような出来事がこれまで何度もあったのだろう。

 絞り出すような声で、悟さんはこれに応じた。

「その気がなくても持ち込んでくるんだから、余計にたちが悪いんじゃないか。とりあえず、このお客さんに謝ってくれ」

「ふ~ん。まあ、兄さんがそこまで言うのなら──」

 悟さんの要求を渋々受け入れたって態度を隠そうともせず、この「薫子」って呼ばれた三次元女は、俺に向かって輝くような笑顔を形作った。

「楠木圭介くんだっけ。あたし、『大橋おおはし薫子かおるこ』 よろしくね」

 そう名乗った三次元女は握手を求めるように右手を差し出し、こいつなりに謝罪の言葉を口にした。

「さっきは、つい本当のことを言っちゃってごめんなさい。あたし、ほら、嘘のつけない性格だから思わず、ね。わかるでしょう?」

「わかんねえし、そもそもそれ、謝罪になってねえよ!」

 まるで小莫迦にされたような気がして、俺は思わず叫び声を上げた。

 眉間にぎゅっとしわが寄る。

 でも、奴はそんな俺の激情を軽やかに受け流し、に~っと嫌らしく歯を見せて笑った。

 こちらの意向はガン無視し、ためらうことなく強引に、むんずと右手を掴み取る。

 そのまま俺の眼を覗き込み、たしなめるような口振りで告げてきた。

「あらまあ、ずいぶんとお尻の穴のちっちゃいこと。そんなんじゃ、女の子にはモテないわよ」

 ちょっと冷たい皮膚の感触が右手をぎゅっと包み込み、俺はどきりと身を震わせた。

 心臓の鼓動が高まる。

 動揺を隠すことができない。

 思えば、最後に生身の女性と触れあったのは、いったいいつの頃だったろうか。

 十年、いや確実にそれ以上さかのぼる必要がある。

 本当に、これぽっちも記憶がないんだ。

 それは、つやっと滑らかな肌触りだった。

 実際に触れたことなんてないから断言できないけど、シルクみたい手触りってのはこんな感じなんだろうか。

 お互いの掌を通じて、体温どころか血液の流れまでもが伝わってくる気さえした。

 ボンと頬骨が爆発する。

 顔だけじゃなく全身の筋肉が一斉に硬直した。

 姿勢はもう直立不動に近い。

 右手の指は伸びたまま強張って、奴との握手を頑なに拒んでいる。

「可愛いわね、純情少年」

 そんな俺の様子をからかうように、薫子は破顔した。

 畜生、情けねえ。

 俺はこの時、マジで自分自身を恥ずかしいと思った。

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