第二話:漫画家、ショップに行く

 俺って奴は、なんでこんなに莫迦なんだろう。

 心の底からそう思っちまった。

 いま俺の鼻先一メートルの距離には、ぴったり閉じられた防犯用シャッターが、その厳然たる佇まいを見せている。

 チューニングショップ「トレジャー・レーシングサービス」のガレージ入り口を塞いでいるネズミ色したバリヤーだ。

 隣接する事務所の中も真っ暗で、窓の外からうかがう限り、人のいる気配はこれっぽっちも感じられない。

 開店前だということは、一目瞭然な状況だった。

 そりゃそうだ。

 熱くなった俺が自宅の門を飛び出した時間帯は、いまだ午前の六時台。

 でもって颯爽とこの地に降り立ったのが、それから一時間も経たない午前七時台。

 そんな早朝から店を開けているクルマ屋があるなんざ、俺は見たこともなけりゃ聞いたこともない。

 まさしく、どこの誰に意見を求めたところで「あたりまえだ」の答えしか返ってこない、そんな案件に間違いなかった。

 阿呆面を晒して呆然と立ちつくす俺の足下を、一陣の乾いた風が、ひゅーっとつむじを巻いて吹き抜けていった。

 周囲に人目がなかったことを、俺は心底神に感謝した。

 文字どおり郊外にある閑静な住宅地帯。

 その中心部を南北に貫く古い県道に面した場所に、「トレジャー・レーシングサービス」は、本当にひっそりとその店舗を構えていた。

 建物の規模は比較的小さい。

 横文字で「チューニングショップ」なんて称するよりは、むしろどこにでもある「自動車屋」という表現のほうが格段に似合っていた。

 正直、「○○タイヤ」とか「××自動車商会」とかいう看板を掲げていたほうが、はるかにそれらしいんじゃないだろうか、と思ってしまう外見だ。

 事務所入り口に貼ってある営業案内を見ると、開店時間は午前九時になっていた。

 畜生。

 店が開くまで、まだ二時間近くもあるじゃないか!

 がっと路面に蹴りを入れる。

 ほとんど八つ当たりに近い。

 このまま帰ろうかと思わないわけじゃなかったけど、あえて俺は近場のコンビニで時間を浪費する道を選んだ。

 妙に小腹が空いていた。

 そういえば、まだ朝飯を食ってなかったっけ。

 愛車に乗り込んだ俺は、もと来た道を引き返し、国道沿いに建つコンビニエンスストアに鼻先を向けた。

 大型の駐車スペースを持つその店は、この時間帯であっても、それなりの数の来客がある。

 俺はそこでペペロンチーノのスパゲッティと日本茶のペットボトル、そして週刊の青年漫画誌とを購入した。

 駐車場の隅っこに停めた「パルサー」の運転席で掻きこむようにスパゲッティを胃に収め、時間までの暇つぶしとばかりに漫画誌のページを開く。

 最初に俺の目に飛び込んできたのは、某国民的アイドルグループのメンバーをモデルにしたグラビア写真の類だった。

 まあ、さすがに一線級の芸能人だけあってルックスは水準以上だし、スタイルだってなかなかのものだ。

 雑誌の看板とするには格好の素材だと認める。

 認めざるを得ない。

 しかし、しかしだ。

 俺は、この選択が実に不満だった。

 憤りすら感じていた。

 なぜなら、そのアイドルが巻頭を飾っているこの雑誌が、まがりなりにも「漫画雑誌」を名乗っているからだった。

 漫画の魅力で勝負しなくちゃいけないはずの漫画雑誌が、よりにもよって実在する芸能人で読者の注目を集めようとは、一体全体何事か!

 仮にも世を代表する漫画雑誌なら、表紙も巻頭も、ずばり漫画そのもので勝負すべきなんじゃないだろうか!

 俺はひとりの「漫画家」として、そいつが残念でならなかった。

 さらに言うと、俺は実在する三次元の女どもが二次元世界の乙女たちに勝るところなど何もない、と確信していた。

 むしろ、どこか勝るところがあるなら参考までに教えてくれないか、とすら思う。

 娑婆の連中は、したり顔で俺たち二次オタに語る。

 曰く、「二次元の女は、おまえらに微笑んじゃくれないぞ」

 曰く、「二次元の女は、おまえらに語りかけちゃくれないぞ」

 曰く、「二次元の女には、触れることなんてできないぞ」

 曰く、「二次元の女は、いざってときにおまえらを助けちゃくれないぞ」

 etcエトセトラetcエトセトラ──…

 でも、それは俺たちのような非モテのオタクにとって、主語を「三次元の女」に変えてみたって同じことが言えるんじゃないだろうか。

 三次元の女どもは、俺ら二次オタに微笑んでくれんのか?

 三次元の女どもは、俺ら二次オタに語りかけてくれんのか?

 三次元の女どもは、俺ら二次オタに身体を触らせてくれんのか?

 三次元の女どもは、いざというとき俺ら二次オタを助けてくれんのか?

 答えは「NO」だ。

 断じて「NO」だ。

 誰がなんと言おうとも、その結論だけは揺るがない。

 もし「YESだ!」と言い切る奴がいたとしたら、俺はそいつを精神鑑定にかけてみたい。

 だいたいだな、普段から俺ら二次オタを「キモイ!」と蔑んでやまない三次元女どもが俺ら二次オタに好意的な反応を示すだなんて、いったいどこのファンタジーで起こりうる出来事なんだ?

 「ありえないなんてことはありえない!」っていう名言も、まあ世の中に存在したりはするんだが、あいにくと俺は、天文学的に低い確率でしか降りかかってこない自然現象に一喜一憂する習性を持ち合わせちゃいない。

 哀しいかな、俺たち二次オタにとって三次元女から向けられる好意なんてものは、宇宙から降ってきた隕石の直撃にも等しい出来事にほかならなかった。

 そんなわけだから、求めるのは初めっから二次元キャラにしとけばいいんじゃね、と、俺なんかは思ってしまうわけだ。

 二次元世界なら、空から降ってくるのは隕石じゃなくって清楚で可憐な美少女だからな。

 しかもだ。

 いまを生きる三次元女なんて生命体は、俺の知る限り、その存在からしてろくなものじゃない!

 骨の髄から計算高く──…

 徹頭徹尾に残酷で──…

 圧倒的なまでに自分勝手──…

 「大事なのは相性よ」「やっぱり性格が一番ね」なんて綺麗事でパートナーを選ぶ素振りを見せながら、結局は「ただしイケメンに限る」という見えない一文を、きっちりそこに付け足しやがる。

 あるいは「ただし金持ちに限る」か。

 はっきり言うとだな、んだよ、三次元女どもは!

 「イケメン」「金持ち」そろい踏みの芸能界を見てみろよ。

 浮気・不倫・二股三股が、それこそあたりまえの世界じゃないか。

 なんでそうなるか、その理由は簡単だ。

 周りの三次元女どもが、そんな不貞行為を諸手を挙げて許しちまうからだ。

 相手が「イケメン」「金持ち」だったなら、不貞行為は全然OKってな。

 それに引き替え、二次元乙女のなんと健気で、なんと純真であることか。

 魂の清らかさで比べると、彼女らと三次元女とじゃ、森を流れる清流と下町の汚水溝ほどに差があるんじゃなかろうか。

 もっと言わせてもらうなら、二次元乙女に太刀打ちできるだけ美貌を、三次元女どもは持ち合わせちゃいない。

 仮に、そんなのを備えてる類い希なアイドルがいらっしゃったとしてもだ。

 そいつを目にすることができるのは、テレビや映画の中だけだろう。

 恋愛対象とするんなら、そいつらだって二次元乙女と変わりはしない。

 例えるなら、風景写真と風景画との違いみたいなもんだ。

 だからこそ、俺たち二次オタにとって二次元乙女は、まさしく「至高の存在」なのである。

 いや、あえて言おう。

 彼女らこそが「女神」である、と。

 薄汚れた三次元女など、もはや比較対象にすらならない。

 その光り輝く存在を、文字どおり「自分の嫁」にできるっていうのは、まさに俺ら二次オタにのみ許されたかけがえのない特権だった。

 そいつが「モテないオトコの負け惜しみ」だって言うんなら、いくらでもそう言えばいいさ。

 だけどな。

 もとを正せば、三次元女どもが俺たち二次オタのことをキモイキモイとうるせーから、こっちはわざわざ気をつかって、間に一線を引いたんじゃないか。

 それなのに、なんで健全な一般人を自称する連中は、いちいち俺たちの領域に首を突っ込んできては、上から目線で説教を垂れやがるんだ?

 おせっかいも、そこまでくれば迷惑だ。

 ちゃんと身の程をわきまえた俺ら二次オタの選択を偉そうに否定できるほど、おまえらパンピーは素晴らしい生き方って奴をしてるのか?、と文句のひとつもぶちまけたくなる。

 さて、そんなことを脳内で熱く主張しているうちに時は流れ、気が付けば時計の針は午前九時を指していた。

 車内のゴミをコンビニの店頭に置かれたゴミ箱へきちんと分別してから捨て、俺は、改めて「トレジャー・レーシングサービス」へと足を向ける。

 愛車を走らせること数分、「トレジャー」の店舗が住宅地の一角に見えてきた。

 シャッターが開いていることは、遠目からでも見て取れる。

 時間どおりに店は営業を始めてたみたいだ。

 実に好ましい。

 湧き上がる好感を心の片隅で弄び、俺は道沿いの駐車スペースに「パルサー」を停めた。

 両の拳を握り締め、小さく自分に気合を入れながらクルマを降り、大股で事務所の中へと歩を進める。

「おはようございます!」

 初っ端から舐められるわけにはいかない、とばかりに、俺は開口一番、大声で挨拶した。

 静まりかえった朝の空気が、びしっと音を立てて震え立つ。

 事務所の奥にあるカウンターの向こうから、ひとりの男性が、ひょいと目線をこちらに向けた。

 丸眼鏡をかけた実直そうな人物だ。

 当然、客がひとりで店番なんかしているわけもないだろうから、彼こそがここの店主なんだろう。

 思ったよりも、かなり若作りなひとだった。

 もっとも、いかに若作りとは言っても、その年齢は余裕で三十路の段階だろう。

 まだ二十歳前の俺と比べると、十歳以上は年上に見えた。

「いらっしゃいませ」

 男性が、俺の言葉に反応した。

 ちょっと気弱そうな雰囲気のする声質だ。

 外見同様、明らかに威厳が足りない。

 きょとんとした眼差しを隠そうともせず、このひとは俺に向かって言葉を続けた。

「はじめてのお客さまですよね。今日はどのようなご用件ですか?」

「いや、たいしたことじゃないんです」

 ずばっと短く前置きを入れ、続いて俺はこう告げた。

「今日は、ちょっと聞きたいことがあったんでここに来ました。構いませんか?」

 どうぞどうぞと勧められるままカウンター席に腰を下ろした俺は、矢継ぎ早に、あの「インテグラ野郎」に関する質問を飛ばした。

 会話のイニシアチブを手放さぬよう、早めの口調で畳みかける。

 あいつはいったい何者で、いったいどこに行けば会えるのか。

 もしこの店の関係者ないし常連であるのなら、いつここに来ればあいつの顔を拝めるのか。

 もちろん、見晴峠における奴との経緯いきさつについて、俺は、いっさいの隠しごとをしなかった。

 公道を暴走していたという違法行為についても、ありのまま彼に伝えた。

 明らかに非礼な真似をしているのだから、せめてそれぐらいは筋を通すべきだと頑なに信じたからだ。

 「トレジャー」の店主──差し出された名刺に「大橋おおはしさとる」という名前で記されたその男性は、眼鏡の奥で真面目そうな眼をそれこそぱちくりさせながら、俺の口から放たれた不躾な質問を、しばしの間聞いていた。

「え~、まあ、詰まるところ──」

 ひととおり俺の発言を聞き終えた悟さんは、いささか困ったような表情を浮かべて、こう尋ねる。

「君は、その、ウチのロゴが貼ってある『インテグラ』と、なんとかしてもう一度バトルしたい、というわけなんだね」

「そのとおりです!」

 カウンターに拳を叩き付けんばかりの勢いで俺は即答した。

 ずい、と大きく身を乗り出して迫る。

 悟さんの口から大きなため息が漏れだしたのは、その直後だった。

 右の手がおもむろにその広めの額へ伸び、同時にこうべが左右に振られた。

 間を置いて、消え入るようなか細い声で彼は呟く。

 だから、やっかいごとはごめんだ、と、あれほど──…

 俺の耳がおかしくなければ、悟さんの唇は、間違いなくそんな言葉を紡いでいた。

 その発言が何を意味しているのかを俺が察する暇もなく、軽快なエンジン音が店の外から轟いてきた。

 来客か、と肩越しに振り向いて、俺は窓から外に目を向けた。

 どんな奴がここの客層なのか、純粋に好奇心を刺激されたからだった。

 そして、すぐさま奴を見た。

 いままさに俺の「パルサー」に並べて停車しようとしている、白い「インテグラ・タイプR」を、だ。

 そのサイドボディには、あの忘れようにも忘れられないド派手なロゴが燦然と自己主張を果たしている。

 間違いない。

 あの「インテグラ野郎」のクルマだ!

 俺の脳裏に、昨晩のバトルが鮮明に蘇ってきた。

 マグマのような闘争心が、じわりと背筋を這い上る。

 次の瞬間、俺はばっと弾かれるように席を立つと、その速度を維持したまま店の外へと躍り出た。

 ちょうどエンジンを止めたばかりの「インテグラ」まで素早く駆け寄る。

 一秒でも早く奴に手袋を投げ付けたい。

 まるで引き絞られたロングボウみたいに、心の内圧は臨界寸前の領域だった。

 でもその直後、圧力計の針は、持ち主の意に反して急降下を開始する。

 すっと目の前に姿を見せたが、外へ向かって吹き出そうとする、ありとあらゆるすべてのものを一気に飲み込んでしまったからだ。

 それはまさに、ブラックホール並の物凄い吸引力だった。

 振り上げた拳もそのままに、豆鉄砲食らった鳩みたいに呆然と立ちすくんだ俺は、ただぽかんと口を開けながら、を眺めていることしかできなかった。

 恥ずかしながら、まるで「絶世の美女」って奴に微笑みかけられた純情少年みたいな有様だった。

 いや、ここで断言しよう。

 いまの表現は、ちっともになっていない。

 なぜなら、俺の意識を余すことなく強奪してみせた──すなわち、あの「インテグラ」から降り立ったドライバーこそ、いままで俺がお目にかかったことのない、紛う方なき「絶世の美女ファムファタール」そのものだったからだ。

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