G6第一戦:ルーズドッグRd
第一話:俺の名は、楠木圭介
「畜生、駄目だ! どうやっても描けねぇ!」
そう叫びながら、俺は手に持った鉛筆を頭上高くに放り投げた。
削ったばかりの芯先が、突き刺さらんばかりの勢いで天井に当たる。
いつもなら手際よくぱぱっと切ることのできるネームも、現段階では進展状況がゼロのままだ。
作業机の上に広げてあるA4用紙が、差し込む朝日を浴びて妙に眩しい。
午前六時。
見晴峠でのバトルに惨敗し、最悪の気分のまま帰宅した俺は、そのむしゃくしゃした感情を一気に昇華しようと、間を置かず創作作業に取りかかった。
「ピポパ」の締め切りには、まだ十分以上の余裕がある。
ここで焦る必要性などは、実のところ、どこにもなかった。
だがしかし、こんなもやもやを消し去って心の落ち着きを取り戻すのに有効な行為を、残念ながら、ふたつしか俺は知らない。
峠攻めと創作活動、そのふたつだけである。
その片割れが、あろうことかさらなるいらつきを生み出す原因となっているのだ。
俺にとって残された選択肢がもう一方のそれしかないんだってことぐらいは、万人に納得してもらうほかなかった。
ちなみに俺は、面倒臭いことは早々に片付けちまうのを本分としている。
ショートケーキのイチゴに初っ端から手を付けるのと同様、夏休みの宿題を無理して序盤で終わらせるのと同様、物事を後回しにすることが嫌いだったからだ。
これまで俺が与えられた締め切りを違えたことがないのは、そういった性格が最大要因なんだって断言していい。
だから、商業作家となる以前、そう同人作家として漫画やらイラストやらを描いていた時代から、俺は仕事の手が早いことで有名だった。
ひとたび受けた仕事は、期日にかなりの余裕を持って、きっちり仕上げて提出する。
そいつが「仕事師」としての俺、その評価を高める一因となってくれたことに疑いはなかった。
ただしそいつは、俺という人間がいついかなる時も滞りなく活動できる創作マシンだってことを意味しちゃいない。
むしろ俺はその反対で、好不調の波にさらりと従うことをのみモットーとしてきた。
ノリの悪い時に無理をして、しょうもない作品を仕上げてしまうのが根本的に嫌だったからだ。
こんな枯れた精神状態の時は何をやってもうまくいかない。
俺は、そいつを熟知していた。
そもそも創作活動なんてものは、クリエイターの内圧が高まらない限り、そう易々と伸展するはずもないんだ。
流れ作業みたいに淡々と面白い物語を生み出せる作家がいたとしたら、そいつは本当の天才か、さもなくば、あっちの世界にイっちまっている奴のどちらかに違いない。
もちろん、この俺はそのどちらでもないわけだから、テンションが低いうちはろくな仕事ができない自分を、半ば肯定的に捉えるしかなかった。
確かにそいつは、一応プロフェッショナルとして飯を食っている人間にとっちゃ、決して誉められた姿勢じゃないだろう。
しかし、である。
同時に、「ストーリー」を「クリエイト」するって作業が精神論だけでどうにかなるってモンじゃないことぐらいは、素人にだってわかるはずだ。
もしどうにかなるっていうんなら、そいつはある意味、「才能」って奴の全否定に直結する。
考えてもみろ。
そこいらから連れてきた適当な連中の背中をピシピシ鞭打つだけで良質な作品がゴロゴロ転がり出てくるっていうのなら、創作活動なんてのは工場での生産活動とどう違うっていうんだ?
そうなったら当然、俺たちみたいに金のかかるプロフェッショナルは、もう完全にお役御免だ。
強欲極まる出版社上層部もウハウハだろう。
俺は、ふらりと作業机から離れ、部屋の脇に寄せて設けたベッドの上に、どさっとその身を投げ出した。
黒縁眼鏡を無造作に外し、枕元に置いた目覚まし時計の横にそれを並べる。
頭の後ろで両手を組みながら間抜け面をさらし、そのままぼけっと天井を見上げた。
そこには、純白の修道服に身を包んだ金髪美少女が、天真爛漫な微笑みを、それこそ満面に浮かべていてくれた。
この俺が心から愛する「俺の嫁」
小説「青いひとみのフレデリカ」のヒロイン、「フレデリカ=ファム=ファタール」の艶姿だ。
そいつは、俺自身が文字どおり俺だけのために書き下ろした等身大のポスターだった。
毎日飽きもせず眺めているが、それでもなお惚れ惚れするほど会心の出来栄えに思えてしまう。
入魂の一作とは、まさにこのことを言うのだろうと自画自賛する。
顔面が弛緩するのを止められない。
親の欲目とはよく言うけど、作者の場合も同じ表現をするんだろうか。
いや待て。
厳密に言えば「フレデリカ」の作者は俺じゃなく、原作小説の作者さんか。
畜生、頭の中が混乱する。
思えば、見晴峠から帰ってきてまだ一睡もしていない。
睡眠不足が精神状態に悪影響を及ぼしていたのかもしれないな、と、いまになって気が付いた。
やれやれ、少し眠るか。
そう思い立った俺は、澄みきった「フレデリカ」の瞳に見下ろされつつ、意識して頭の中を真っ白にしていった。
「物語のバックボーンとは、作者の考えたワールドが、そのストーリーの中で生かされているかどうかで定まります」
その不愉快な説教が耳の奥で蘇ってきたのは、寄りにも寄って、ちょうど意識が遠のく寸前のタイミングでだった。
昨日はその内容に強烈な不快感だけを覚えた俺だったけど、ひと晩置いたいまの時点では不思議と冷静に奴の言葉を咀嚼することができた。
俺は改めてゆっくりと目をつぶり、暇つぶしとばかりにそれを脳内で反芻してみせた。
◆◆◆
俺の名は「
職業「漫画家」
二次元世界をこよなく愛する、十九歳のナイス・ガイだ。
一応、高校までは卒業している。
ただし、そのうちの半分は、ただ出席日数を稼ぎに行っていただけのようなものだ。
学力のほうは、まあ推して知ってくれってところか。
俺がまずイラストレーターとしてデビューしたのは、いまから数えて二年前。
十七歳になったばかりの時分だ。
たまたまネットに投稿していたイラストに目を付けたとある同人ゲームのスタッフから、原画家としてぜひにと声をかけられたのがきっかけだった。
純粋な商業作家としての初仕事は、その半年後のこと。
某社が出版を予定していたライトノベル、「青いひとみのフレデリカ」の挿絵を描いたってのがそれにあたる。
その後、「青いひとみのフレデリカ」、略称「青フレ」は出版社の予想を大きく上回る売れ行きを見せ、それに引きずられて俺の評価もうなぎ登りに上がっていった。
次々と仕事が舞い込み、それなりの食い扶持を稼げるようになったのが、この時期だ。
そんな俺がなんでまた「おおきなおともだち」向け美少女漫画を描くことになったのか。
その理由は、まったく単純なものだった。
依頼主から手渡された「青フレ」の原稿。
そいつを一心不乱に読み尽くした当時の俺は、どうしても「オリジナルストーリー」って奴を描きたくて描きたくて仕方なくなってしまったんだ。
言ってしまえば、そいつはレベルの低い対抗意識みたいなものだった。
「絵師」としてではなく「漫画家」として、一から自分で「ストーリー」を「クリエイト」する。
それこそが、本来の俺が望んだ「プロダクト」にほかならなかったからだ。
たぶんだけど、当時の編集にそうした意向を伝えたら、それは容易く叶えられたんじゃないかと思う。
でもその場合は、売れ筋の展開を向こうから押し付けられる可能性が高かった。
例えば「ハーレム系の学園モノ」とか、だ。
いかにそいつが仕事とはいえ、俺は、創作家としてのデビュー作に他人からチャチャを入れられるのだけは、まっぴらごめんの心境だった。
だからこそ俺は、あえて自分の戦場を「美少女漫画」という、いわばマイナージャンルの巣窟に定めた。
ぶっちゃけここなら、
俺は、その手の漫画掲載紙を手がけているいくつかの出版社にコンタクトを取り、積極的に自分自身を売り込んでいった。
自分で言うのもなんだけど、そいつは、何人もの若い映像作家が自分自身の感性をまずポルノ映画で爆発させたっていう経歴と、ほとんど同じ方向を向いていた。
結果として目論見のほうはうまくいき、いまの俺は割と好き勝手に描くことを編集部から許されている身だ。
まあ確かに「青フレ」というメジャー作品の表紙を描いたこの俺は、マイナー系の出版社にとって、相当商品価値のある人材なんだろう。
しかも、俺の作品はいまのところ社に十分な利益をもたらしている。
海千山千の編集者だって、口出しする理由なんてどこにもなかったに違いあるない。
そんな現状のもと、岡部のオヤジは、そんな俺に初めて意見をくれた人物となった。
「物語のバックボーンは、作者によって与えられたワールドが、その中で実際に生かされていればいるほどに強く、そして太くなるのです」
この時、岡部のオヤジは、とある有名な作品を一例としてあげ、そいつをベースに持論を説いた。
奴が叩き台としたのは、俺が生まれるはるか以前に発表された、スポ根もの野球漫画だった。
その努力と根性とを食あたりするほどに詰め込んだ物語は、いまじゃあ敬遠されることも多いだろうけど、まず名作と評価されていいだろう。
作中、主人公の野球少年は、血の滲むような修練で「魔球」という「必殺技」を編み出し、宿命のライバルたちとの対決に臨む。
岡部のオヤジは、このとても現実的とは言えない「魔球」の存在こそが、創作世界におけるリアリティーをわかりやすく表しているんだと俺に語った。
「確かに、彼が投げる『魔球』と称される変化球は、物理的な裏付けのない荒唐無稽な代物です。私もそれ自体を否定するものではありません」
しかし、と奴は続ける。
「大事なことは、この作品内に登場するすべての人物が、その『魔球』が実際に存在するものとして考え、行動し、導かれた結果を受け入れているということです。
「魔球」を投げるために、限界を超えた練習に耐え、
「魔球」を破るために、さまざまな策を全力で練り上げ、
「魔球」を投げ続けたために、悲劇的な結末を迎え入れる。
『魔球』という実際にはありえない存在に関して、その周囲がことごとく現実的な行動を取ることで、その存在に重厚なリアリティーというものを与える。創作におけるバックボーンとは、いわば作中において、決して揺らいではいけない主柱のようなものなのですよ」
そんなことはわかってらい!
もしもこの時そう言い返せたなら、いまこんな思いでいらついてなんていなかっただろう。
でもこの時、俺は奴の言葉に反論しなかった。
まったく反論できなかった。
奴が何を言いたいのかを敏感に察した俺は、思わず身体を強張らせた。
このオヤジは遠回しに指摘してきたんだ。
俺の作品が、いわゆる「ご都合主義」に頼りきっているんだってことを。
しかも、その「ご都合主義」って奴が、設定的にはなんの裏打ちもされていないんだってことを。
何よりも、描いている俺自身が、そいつを半ばバカバカしいと嘲笑いながら使っているんだってことを。
このベテラン編集員の穏やかな眼には、そいつが鮮やかな事実となって映り込んでいたに違いない。
クリエイターとしては二流以下。
マジでそう断言されたような気がした俺は、適当な理由を付けてディスプレイの前から逃げ出した。
幸か不幸か、その時提出した原稿を突き返されるようなことはなかった。
そいつはつまり、作品自体が赤点を取ったわけじゃないってことだ。
だとしたら、岡部のオヤジが垂れた説教は、奴なりのアドバイスだったんだと受け止めるべきなんだろう。
良薬は口に苦し。
むかしのひとはよく言ったものだ、と心の底から思い知る。
「くそっ!」
眠ろうとしても眠れない自分を感じて、俺は無理矢理寝床から飛び起きた。
駄目だ、駄目だ。
仕事もできない、休むこともできないんじゃ、ここにいる必然性なんてこれっぽっちもない。
少し外の空気を吸いに出かけよう、と唐突に思い立つ。
一度頭の中をリフレッシュしないと、どうにもこうにも先へ進めそうになかった。
とりあえず愛車の「パルサー」をかっ飛ばして、でもって目的地は──と、そこまで思考を巡らせた俺の脳裏に、忘れかけていた、いや思い出したくもなかった光景が鮮烈に浮かびあがってきた。
それは、見晴峠でコースアウトした俺を嘲笑しながら眺めていた、あの白い「インテグラ・タイプR」の姿だ。
カチッ、と俺の中で歯車が噛み合った。
高速で回転を始めたそいつが、肉体と精神とをエネルギッシュに突き動かす。
いそいそと愛用のノートパソコンをベッドの脇から引っ張り上げ、インターネットに接続した。
アクセスしたのは検索用画面だ。
叩き付けるように、とある文字列を入力する。
それは、あのムカッ腹の立つインテグラ野郎が愛車のサイドに描いていた、ド派手なアルファベットの綴りだった。
検索の結果はすぐに出た。
県内にあるモータースポーツ系ショップの名前だった。
俺は、その概略位置を頭の中に叩き込み、素早く外出の準備を整えた。
次いで、発射された鉄砲玉みたいに部屋の中から飛び出すと、どたどたと勢い良く階段を駆け下る。
なんとしても奴の面を拝んでやる。
そう、この時の俺は思った。
理由はひとつ。
リベンジを申し込むためだ。
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