Let's Go To Gymkhana ~勝利の対価は童貞卒業!~

石田 昌行

ゲートオープン

プロローグ

 はっきり言って、この日の俺はとんでもないほど荒れていた。

 朝飯を食っていた頃の気分を雲ひとつない晴天に例えるなら、いまの俺を支配している感情は、さながら上陸した巨大台風みたいなものだった。

 胸中で渦巻くモヤモヤが、出口を求めて荒れ狂う。

 そいつを一向に押さえられない。

 総量不明のいらつきを力任せに発散すべく、俺は一気にアクセルを踏み締めた。

 愛車の速度が跳ね上がる。

 メーター読みで百キロオーバー。

 だが、ここみたいな峠道じゃあ、そんな速度は維持できない。

 短い直線の終わりには、決まって急なカーブが待ってるからだ。

 案の定、目の前に現れた右のヘアピンに向かって、今度はブレーキをかけながら突入する。

 限界に到達したフロントタイヤが、きぃーっと鋭く悲鳴をあげた。

 それにかまわずハンドルをこじる。

 強烈なアンダーステアが発生した。

 コーナリングラインが、外側めがけて大きく膨らむ。

 畜生め。

 下手糞ここに極まれりって奴だ。

 それでもなお、俺の相棒「パルサーGTI-R」は、かろうじてコーナー出口に鼻先を向けた。

 履いたばかりの新品タイヤが、きちんと仕事をしてくれたようだ。

 十分な余裕をもって立ち上がり、ふたたび加速を開始する。

 どすんと鈍い衝撃が、鳩尾のあたりを撃ち抜いた。

 気持ちのいいスピード感に、ついつい口元が緩んでしまう。

 最新型のローラーコースターだって、この快感には及ぶまい。

 そのことを、奥歯を噛み締め確信する。

 ああいうのはしょせん、誰かから提供された借り物の恐怖感だ。

 危なっかしさをコントロールしているのが他人の意志である以上、いま俺が感じているようなギリギリの危険を楽しむまでには至らない。

 そう考えると、まさにこの「峠攻め」っていう奴は、脳内をアドレナリンで満たすには最適レベルの娯楽だった。

 なんてったってこの場所夜の峠には、ひとつのミスが事故に直結しちまうような状況が、それこそざらに転がっている。

 そう。

 演出としての「デンジャラス」じゃない本当の意味での「デンジャラス」を、ここではマジに味わうことができるんだ。

 これを快感と言わずになんと言おう。

 タイトロープのリアリティーってのはこういうものか、と、心の底から実感する。

 そんな俺の脳裏に昼間聞いたあの台詞が蘇ってきたのは、きっと直前に思い付いた「リアリティー」って言葉が呼び水になったからだろう。

 「チッ」と短く舌打ちして、俺はその内容をむかつきながら反芻した。


 ◆◆◆


「リアリティーがないんですよ、はっきり言いますと」

 今月から新しく俺の担当となったそのオヤジ──岡部周作とか名乗った初老の男は、ディスプレイの向こう側で一刀両断に言い切った。

 非難めいた色彩は感じられない。

 どちらかといえば淡々とした言い口だ。

 だけど、その抑揚のない口調が、かえって俺には苦痛だった。

 正直な話、「つまらない」と面罵されたほうが、まだいくらかマシだとさえ思えてくる。

「リアリティー……っすか」

 喉元まで迫り上がってきた不快感を無理矢理ゴクリと飲み込んで、俺は、できるだけ柔和な態度で抗議した。

「でも、ファンタジー世界が舞台の作品にリアリティー持ち込めって言われても──」

 そいつは、俺がテレビ電話で編集部と打ち合わせをしていた時のやり取りだった。

 自慢じゃないが、これでも俺は「漫画家」だ。

 きちんと定期連載だって持ってるし、副業込みの年収も、軽く四百を超えている。

 これでメシを喰っているんだと言い切ったって問題ないと思ってる。

 俺がこの掲載紙「コミック・ピポパ」で連載中の作品「双刃のガロー」は、いわゆる「剣と魔法」の物語だ。

 と書けば、ありふれた異世界ものの冒険活劇に見えるのだけれど、実のところその内容は、セックスシーンありの低俗な美少女漫画に過ぎなかった。

 魔族の血を引く最強の美剣士ガローが旅の途中で魔獣を退治し、そのついでにさまざまな女性と行為に及ぶ。

 言ってしまえば、そんなのを延々と繰り返しているだけの物語だ。

 見所は濃厚な濡れ場。

 注目は萌え系の美少女。

 正直、他人様に胸を張って見せられる作品じゃないと思ってる。

 だけど、俺はこれまでその展開で読者の支持を受けてきたし、前の担当──重度のオタク要素が入った若い男だった──も、「いまの世に求められるのは多種多様な『萌えキャラ』ですよ。ストーリーや世界設定の練り込みなんて古い古い!」と言って、俺の尻を叩き続けてきた。

 事実、「双刃のガロー」は、毎月読者からそれなりのファンレターが送られてくるほどの人気ぶりだ。

 雑誌のアンケートでも高評価だと聞いている。

 支持してくれるファンを唸らせ、出版社に利益をもたらす。

 ひとつの作品としては、もう十分過ぎるほどの功績だろう。

 これ以上、ほかにいったい何の要素を付け加えろってんだ?

 口にこそ出さなかったけど、俺はあからさまな不満顔を浮かべることで自分の意志をあらわにした。

「先生は、ご自身の作品にバックボーンを入れようとしておられないようですね」

 そんな内心を知ってか知らずか、岡部のオヤジはそう言った。

「クリエイトとは、作品にバックボーンを入れる作業にほかならないんですよ」


 ◆◆◆


 その発言は、むかし心底嫌悪していた学校の教諭が進路指導の場で宣ってみせた思い出したくもない説教を、俺の心中に蘇らせた。

 人気のないワインディングをかっ飛ばしながら、そいつの台詞を繰り返し繰り返し否定する。

 溢れる敵意を吹き飛ばすがごとく、右足が叩き付けるようにアクセルを踏んだ。

 俺のような走り屋にとって、それこそがストレス解消の特効薬であったからだ。

 見晴みはらし峠。

 午前二時。

 ちょうど県境に位置するこの峠は、近隣に棲む走り屋にとって、いわゆるメッカといってもいい場所だ。

 平日の夜という時間帯なのに、この曲がりくねった旧道を爆走しているクルマが、ついさっきまで何台も存在していた。

 率直に言うと、連中の何人かは頭のネジが飛んでるんじゃないかと思ってる。

 このご時世に「峠攻め」なんて、誰が見たって莫迦げた行為に違いないからだ。

 常識的な一般市民なら、そういった無駄な、いや危険と言い切っても仕方ない行為に熱中するなんて、まず考えられない話だろう。

 そういう俺も、もちろん「頭のネジが飛んでいる」人間のひとりだった。

 そいつは自分自身、嫌っていうほど理解している。

 だけど、もう普通の人生設計から遠く逸脱してしまっている俺にとっては、周りと同じレールの上をただ黙々と歩き続ける生き方のほうがよっぽどど耐えられない苦痛だった。

 一応言っておくが、俺はクルマ自体がそれほど好きってわけじゃなかった。

 ゲーセンにたむろってるなんちゃって走り屋予備軍たちのほうが、よっぽど熱意をもってクルマへの愛を語れるに疑いあるまい。

 とはいえ、ひとたび危険なスピードに身を任す快感を知ってしまったいまとなっては、バケットシートからおさらばする未来なんて、まったく考えられもしなかった。

 要するに俺って奴は、クルマ趣味が高じて速度に目覚めた「走り屋ロードレーサー」っていう人種じゃなく、単に暴走するのが好きなだけのスピードジャンキーなんだろう。

 哀しいかな、そいつを疑う余地なんて、どこにもありはしなかった。

 バックミラーに後続車のヘッドライトが映ったのは、下りの行程半ばに差しかかった、ちょうどその時のことだった。

 暗いから車種こそよくわからないが、さほど大きなクルマじゃないようだ。

 そのヘッドライトが、ぱぱっと数回点滅した。

 パッシング。

 つまり後続車は、「遅いからどけ!」と、この俺に意思表明をしたわけだ。

 言うまでもなくそいつは、走り屋にとって挑戦状を叩き付けるのと同じ意味を持っていた。

 面白い!

 いいかげん、独りで峠を攻めるのにも飽きてきたところだ。

 受けて立ってやるぜ!

 俺の中で戦闘開始のゴングが鳴った。

 俺は、こういった問答無用のバトルって奴がたまらなく好きだ。

 日常じゃ味わうことのできない緊張感に非日常を実感させられ、眠っていた闘争心があっというまに沸騰する。

 自慢じゃないけど、俺は見晴峠じゃ敵なしだった。

 無論、俺より運転の上手い奴がこの峠にいないってわけじゃない。

 むしろ、上手い奴のほうが全然多いはずだった。

 にもかかわらず、俺はここでのバトルに負けたことが一度もない。

 理由は簡単。

 持っている「ガッツ」のレベルが違うからだ。

 むかしはどうだったか知らないが、いま見晴峠にいる走り屋は、絶対に自分の限界を超えようとしない。

 それもあたりまえの発想だろう。

 しょせんは遊びの峠攻めで、わざわざ危ない橋を渡ろうとする奴のほうが、むしろおかしいと言えるのだから。

 誰だって事故りたくはないし、怖い思いだってしたくない。

 安全第一、平和が一番。

 でもそれこそが、この俺が連中に付け入ることのできるたったひとつの強みだった。

 俺は、ほかの奴らと比べると一歩も二歩も危険区域に踏み込めた。

 人間自体が端から破滅型にできているんだろうと思ってる。

 もっとも、そいつを変だと自覚した試しはこれまでに一度もなかった。

 言っちまえば、根っからの怖いモノ知らずってわけだ。

 降りかかるリスクを恐れないから、ほかの連中よりも大胆にアクセルを踏めるし、ブレーキも奥の奥まで我慢できる。

 要するにだ。

 これまで俺が重ねてきた勝利の数々ってのも、そんな命知らずのアタックに相手がびびって付いて来なかったってだけの話なわけだ。

 今回も同様、俺はアクセルペダルを目一杯奥まで踏み込んだ。

 こんな狭い山道じゃ、よほど肝が座っていない限り必ず理性が押さえに回る。

 そんな莫迦げた行為だった。

 エンジンの回転数が大きく上昇し、「パルサーGTI-R」は猛然と加速を開始した。

 メーターはあっというまに百キロを突破して、さらにその先めがけて突き進んでいく。

 随分時代遅れのクルマになった俺の愛車だけど、カタログ馬力自体は二百三十という立派な物だ。

 この強心臓にフルタイム4WDがくっついてるんだから、よっぽど腰の据わったマシンでもない限り、こいつに追いすがることなんてできやしない!

 どうだ、付いて来られねーだろ!

 自信満々にそう呟き、バックミラーへ目を向けた。

 ミラーに映るヘッドライトが見る見るうちに小さくなっていく。

 馬力の差は歴然だった。

 予想どおりの展開だ。

 にやりとほくそ笑み、続く左コーナーへ視線を移す。

 つづら折れ手前にあるV字型コーナー。

 見晴峠随一と言っていいテクニカルな区間だ。

 そんな場所にアクセル全開で飛び込んだ俺は、親の敵みたいな急ブレーキで難なくそこをクリアする。

 連続するヘアピンカーブ。

 右、左、右。

 小柄な「パルサー」のボディが路上に踊り、スキール音が深夜の山中に木霊する。

 つづら折れ区間を抜けると同時にフルアクセル。

 ターボで加給された「パルサー」のエンジンが、獣みたいに吠え声を上げた。

 アクセルペダルを踏み込みながら、もう一度バックミラーに目を向ける。

 自分の勝ちを確かめるためだった。

 結果なんて、疑ってみもしなかった。

 でも、現実はそんな甘い幻想を完膚なきまで裏切った。

 後続車のヘッドライトが時を経ず、コーナーの影からぬっとその姿を現したからだ。

 嘘だろ?

 俺は目を丸くした。

 そして、何が起こったのかを瞬時に悟る。

 それは、後続してくる対戦相手が、パワー差からくる劣勢をたった二、三のコーナーをクリアしただけで一気に取り戻したっていう現実だった。

 冗談じゃない!

 パワーで劣るクルマにコーナリングで詰められるなんて、走り屋にとっちゃ最大級の屈辱だ!

 全身を流れる負けず嫌いの血が、間欠泉みたいに吹き上がった。

 どっと脳内に流れ込む高温のそれが、たちまちのうちに制御できない濁流となる。

「くそったれ!」

 呪詛の言葉がほとばしった。

 感情が理性のくびきを引きちぎる。

 危険な兆候を自覚したけど、もう勢いを止めることなんてできなかった。

 緩やかな右カーブ。

 車速が乗る。

 俺は新品タイヤのグリップ性能を盲信して、ほぼノーブレーキのままそのコーナーに突入した。

 完全な暴挙だった。

 その事実に俺は気付いたが、もうあとの祭りだった。

 フロントタイヤが路面にかじりつけず、「パルサー」はその鼻先を内側へ向けようとしてくれなかった。

 ドアンダー。

 アンダーステアの最悪表現。

 その発生は、俺が糞ドライバーである何よりの証拠だった。

 曲がるためじゃなく、クルマを停止させる、まさにそのためだけにブレーキを踏んだ。

 コーナリングラインを大きく外れた「パルサー」が、たちまちのうちに路肩を越える。

 そこに広がっていたのは、幸いにして未舗装の空き地だった。

 巻き上がった土砂が飛び散り、その一部がフロントガラスに降り注いだ。

 やっちまった、と俺は歯噛みした。

 直前のフルブレーキが功を奏し、コースアウトした距離は思いの外短かった。

 もしもっと減速が緩ければ、この先にある土塊に思い切り車体を乗り上げていただろう。

 そうなっていたら、まず大損害は免れないところだった。

 空き地の真ん中でうずくまるように停止した愛車の運転席で、俺は対戦相手の姿をすがるように追い求めた。

 奴はすでに走り去っているに違いないと予測しながら、なぜだかそうしなくちゃいけないような気がしてたまらなくなったからだ。

 驚いたことに、奴は視線の先にいてくれた。

 コースアウトした俺の様子を心配してくれてるんだろうか?

 ハザードランプを点滅させながらその身を路肩に停めている。

 白色のホンダDC-2「インテグラ・タイプR」だった。

 こちらから見える車体側面には、赤・青・黄色の三色を派手に使った大きなロゴが、まるで競技車両よろしく描かれてある。

 Treasureトレジャー Racingレーシング Serviceサービス

 パーツメーカーとしては聞かない名だ。

 たぶん、どこかのショップの名前なんだろう。

 俺は慌ててクラッチペダルを踏み、エンジンキーを捻った。

 ひと呼吸置いてストールしていたエンジンに火が入る。

 アクセルペダルを二度三度と踏み込むと、「パルサー」の心臓は雄叫びをあげることで健在を主張した。

 相棒は無事だ。

 まだ戦える。

 俺の闘争心も失せ消えちゃいない!

 あの「インテグラ」に乗る奴がどんな考えでその場に停まっていてくれたのかはわからないし、その心情をあえて知ろうとも思わない。

 ただはっきりしているのは、いまからならまだ十分にバトルを再開できるという事実、それだけだった。

 そうだ、俺はまだ負け犬になっちまったわけじゃない!

 負けっぱなしで終われるほど、俺は落ちぶれちゃいないんだ!

 熱いものが全身にみなぎる。

 だけど、そんな俺の熱意を、あの「インテグラ」のドライバーは完全にスルーした。

 「パルサー」が動き出すのとほぼ同時に、前触れなく「インテグラ」が急発進する。

 紅いテールランプがはるか彼方に消え去るまで、たいして時間はかからなかった。

 俺はその時、「インテグラ」のドライバーがどんな表情でこっちを見ていたのかを直感的に察することができた。

 嘲笑、だ。

 もちろん、具体的な証拠なんてどこにもないから、それは言いがかり以外の何物でもない。

 でも、俺は奴が明らかに俺のことを嘲笑ったんだと心の底で確信した。

 確信してしまった。

 到底許せることじゃなかった。

「ふざけるな!」

 歯軋りしながら俺は叫んだ。

 そして、このままで終わらせるものかと自分自身に深く誓った。

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