第三章

01:一緒に就寝

 「これからは、私を『真子』って呼んで」

 5月も半ばの、非常にむし暑かったある日の午後。

 夕食のテーブルで、真子……さんはカタンと箸を置き、唐突にそう言った。

 「えっと……?」

 「真子」?

 つまり、呼び捨てってこと?

 俺も箸を置き、正面から真子……さんを見つめる。

 彼女が、わりに真剣な雰囲気だったからだ。文字通り、油断したら切り殺されそうな気迫が発せられていた。ウソじゃないぞ!

 「私たちもう付き合っているんだから。名前で呼び合いたいの」

 「え……。あぁ、いいけど。でも……そういえば、さ」 

 俺は、かつての――といっても一ヶ月半ほど前の、記憶を呼び起こした。

 「もともとさ。最初に会った時、俺のこと呼び捨てで呼んでくれてたよね。『夏樹』ってさ。なのに、なんか途中から『夏樹くん』になってなかった? 別にいいけどさ……ただ、ちょっと気になって。なんで、呼び方が行ったり来たりするん?」

 「……ええと」

 信じられないことに、真子さんが言いよどんだ。

 もっと信じられないことに、頬に手を当てて上品に羞恥を表現していた。

 「実は……」

 「実は!?」

 「私、基本、人のことは呼び捨てで呼ぶんだけど――」

 「あぁ、そういえばそうか。クラスのやつもほとんど呼び捨てで呼んでたし。たしか、男子に対してもそうだったよな? まぁそのほうが、いかにもワイルドかつイケメン風だもんな」

 向うずねを、スリッパで蹴られた。

 「いっ!? ……たぁ~~っ!」

 「こんど話の腰を折ったら、腰を折るから」

 「はい……」

 こえぇよ。

 腰なんか折られたら、もう生きて帰れないよ……。

 俺たちは、先日海で告白してから、いちおうつき合っている。

 たんに家族としてではなくって、一般的な男女のカップルだ。

 もう、真子さんの前では装甲をまとっていない。

 その分、親しくなれたってことなんだけど。逆に言えば、今の俺は、真子さんと喧嘩になっても万に一つも勝ち目はないってことだ。

 「途中から……その。君のことを、い……意識しちゃって、呼び捨てにするのが、恥ずかしくなって」

 真子さんは目を伏せ、意味もなくふきんをにぎにぎしながら言った。

 「……え、マジ? そっそういう深い意味があった……の?」

 「ええ……」

 な、なんだ?

 このいじましさは。

 この人、正直男の生まれ変わりかと思っていたこともあったんだけど。今でも半分くらいはそうなんだけど。

 わりと、可愛いところもあるんだな。マジで。ちょっと胸がキュンってしてしまったじゃないか。

 「――けど、もうつきあってるんだから。やっぱり、呼び捨てが良いと思う。いいでしょう、夏樹」

 「あ、あぁ……もちろん、いいよ。じゃあ」

 ごくり、と喉を鳴らす音が、やけに生々しく響いた。

 真子さんが、俺の口元を凝視している。これ、絶対期待してるやつだな。

 絶対噛むなよ俺。絶対だぞ!?

 「じゃあ……ま」

 プルルルルルッ プルルルルルッ

 という着信音が、俺の言葉をジャストタイミングでさえぎった。

 「あーもうっ、今いいとこだったのに!」

 家電の液晶画面の表示を見ると、発信者は親父の旧家である。まったく、ぜんぜん顔さえ見せないと思ったら、肝心なところで邪魔をしやがる。

 「はい、もしもしっ!? おい親父、お前マジでいい加減に――」

 『あっ、もしもし、夏樹くーん? こんにちは~っ』

 ……親父ではなく、優子さんだった。少々、拍子抜けだ。

 「あの、いつごろ帰って来るんですか」

 『あれ? こんにちはって聞こえなかったよ? 挨拶はちゃんとしなきゃだめよっ、夏樹くん?』

 「いつごろ帰って来るんですかっ!」

 『もう、そんなに焦らなくったっていいのに。心配しなくても、こっちは仲良くやってるわ』

 あのさぁ……。

 親の再婚事情なんて、子どもは興味ないんだよ! それよりこっちは死活問題があるんだ!

 『それに、聞いたわよ美佳ちゃんから。二人とも、春彦をしっかり面倒見てくれてるみたいね。いや~、助かるわ~』

 「こっちは、それがいちばん大変なんすよ! いいですか!? 学校に赤ちゃん背負ってってんですよ、俺らは!? そんな、何十年前に絶滅したような光景を、なんで俺らが再現しなきゃいけないんすか!」

 『あ、そっかぁ、学校まで連れて行ってるのね。二人ともえらーい。なんだか、もう夫婦みたいね』

 「ふっ――!?」 

 その一言で、俺は口撃の意思をそがれる。

 『それに、美佳ちゃんも言っていたけど……二人は、もうつきあってるんですってね。やだ~、血は争えないのね。面白いわ~』

 「ぐっ……!」

 面白がられている。が、本当に好きでつきあっているので、面白がられても仕方なかった。

 『じゃあ、もうしばらく、二人で楽しく生活してね。どうせ、ずっと二人っきりなんだから……何をしてても構わないからね』

 「何ってなんだよ……。てか、あとどんくらいそっちにいるつもりっすか」

 『うぅん……ちょっと分からないわ。あぁ、ただ、もしかしたら、来年あたりは赤ちゃんがもう一人増えるかもしれないから』

 「!?」

 『あっ、隆英さんが呼んでいるから、また今度電話するわね。バイバイっ、真子ちゃんによろしくね』

 ツー、ツー、ツー……と、電話の切れた音が空しく響いた。

 「母、なんて言ってた?」

 「家族が増えるよ! だって……」

 「え?」

 真子さんは怪訝な顔をした。悪いが、そんな顔をしたいのはこっちのほうなんだ。

 「なんか、よく分からん。話が要領を得なかったし……ていうかもう、分かりたくないね。まぁけど、そのうち帰って来るだろ。多分」

 「だといいんだけど」

 はぁっ、と俺たちは疲れたため息をついた。

 「ところで、何か忘れてるんじゃない」

 「は?」

 親父と優子さんの首根っこをつかんででも、連れて来い――とか言うのだろうか?

 と、思ったら、ちがった。

 「名前。呼んで。……早く」

 「あ、そっか、忘れてた。えと、じゃあ――」

 

 夜になった。

 「なぁ、真子」

 「なぁに? 夏樹」

 風呂上りに、真子はタオルで髪を拭きながら出てきた。パジャマ――などという可愛らしさアピール用アイテムは着用せず、むしろラフなジャージ姿だ。運動部の合宿、と言われても違和感がない。

 「ええっと……」

 「用事? はやくして。ちょっと……今、お手洗いに行きたいの」

 よく見れば、真子は膝を内向きにして股を擦り合わせている。

 「えっと、今晩俺と一緒に寝ないか」

 「――え?」

 真子の手から、パサッ……とタオルが滑り落ちた。

 「今、なんて」

 「いや、だから……俺と一緒に寝よう!」

 「……っ!」

 瞬間、真子は声にならない声を発した。

 声の代わりに、床に水が垂れる音がする。

 「ん?」

 真子のジャージの内股の部分に染みが出来て、そこからぽつ、ぽつ、と液体が垂れていた。と言ってるうちに、染みはどんどん下へ広がり、足首のあたりまで到達している。

 ちょろろろろろっ。

 という、毎日慣れ親しんだ水音が。

 これって……、まさか!?

 「ちょっ、真子! お前、おしっこ漏らしてない?!」

 「……えっ」

 真子は自分のズボンを見下ろした。

 そしてしゃがみこむ。両手で頭を抱え、絶叫した。

 「いやああぁぁぁっ!?」

 真子は、もう一度風呂に入って着替える羽目になった。

 

 「つまり……」

 暗闇の寝室で、俺は結論づける。

 「『一緒に寝よう』って言われたのが嬉し過ぎて、つい尿道がゆるんじゃった、と――」

 いやな結論だった。

 正直、笑えるけど。

 「もう、言わないでっ!」

 真子は、両手で顔を覆っていた。表情は見えないが、きっとひどい顔をしてるに違いない。

 「いやぁ、嬉し過ぎて漏らしちゃう人ってよくいるよ。たとえば……そうだな……こ、子犬とか?」

 これは慰めになっているんだろうか? ――と、自分で疑いながら、真子の肩をぽんぽん叩いた。

 ……子犬って、人じゃねーじゃん。

 「やだぁっ、言わないで! 恥ずかしい、恥ずかしい……! ほんとに恥ずかしいんだからぁ……!」

 真子は顔を覆いながら、イヤイヤするように首を振った。恥ずかしさの極限という感じだ。

 真子がここまで弱弱しいことなんて、天然記念物なみに珍しい。

 やべぇ……なんだか、ニヤニヤしちゃっている。ダメだ……笑うな! 慰めないと……慰めないと!

 「そもそもっ!」

 「はいっ!?」

 真子は真っ赤な顔を鼻先まで押し付けてきた。噛み付かれそうな勢いだ。

 「君が変な言い方をするからでしょう! だから、こんなことにっ」

 「変な言い方って?」

 「だから……『一緒に寝よう』なんて……!」 

 「実際、一緒に寝てるじゃん」 

 俺と真子は、布団を二枚となりに敷いて横になっていた。

 ここは、春彦の赤ちゃん用ベッドがある部屋である。

 いつもは春彦のために、交代でこっちの部屋に寝ていたりしたのだが、今日は共同でやってみようということだ。

 「だいたい、二人で春彦を見守るなんて、非効率。一人で充分。二人いたら、二人とも鳴き声で寝れなくなるだけ」

 「でも、別の場所で一緒に寝るわけにもいかないじゃん。春彦のお世話的に考えて」

 「なんで一緒に寝るのが決定事項なの!?」

 とわめきちらす。しかし、だからといって逆らうでもなく、しっかり俺の側に体を寄せてきている真子。

 く~っ! かわいぃっ!

 正直、もう死んでもいい!

 俺は、必死に冷静を装った。

 「おいおい、そんなに大声出したら春彦が起きちゃうぜ」

 「あっ……」

 俺は真子の肩を抱いて、自分のほうに引き寄せた。

 「つきあってて、しかも一緒の家に住んでんのに……いつも別々の部屋で寝てるってのもなんかアレかなって」

 「……」

 真子は、無言で俺に抱きつき返した。


 要するに、「オッケー」ということだろうか?

 「……今日だけよ」

 「分かった」

 「今日と……それから、たまにだけ」

 「はいはい」

 もぞっ、と真子の下半身が動く音がした。

 一緒の布団で寝るだなんて、思い切る勇気はとてもなかった。なので、いちおう、別々の布団を敷いている。が、今だけは互いに近づき過ぎて、二枚敷いた意味があまりなくなっていた。

 「おやすみ」

 真子はそう言って、目を閉じた。

 俺は彼女のくちびるに、軽くキスする。

 「夏樹……」

 真子は、おやすみモードに入りかけのようで、囁き声で言った。俺の胸の辺りに、ぐりぐりとおでこを押し付けてくる。本当に子犬っぽい。 

 「ん?」

 「君って、ほんとにやらしい」

 「真子だからだよ」

 「……っ!? ばか!」

 我ながら、今のは切り返しが上手かったと思う。

 真子はやり返されたことに腹を立ててか、俺の頬をガッシリ固定した。無理やりくちびるを奪われてしまう。

 「……ちゅっ」

 暗いので、細かくは見えない。

 ……が、真子は「好きで好きでたまらない」という風に、こちらをトロンと垂れきった目で、じっと見つめている。俺が見ていることに気づくと、微笑んでくれた。

 あ、ありがてぇ……。

 と、いうのが、嘘偽らざる俺の感想だった。

 ついこの間まで、深刻な「女子日照り」に見舞われていた俺にとっては、それは心に染み渡るような恵みの視線だった。

 な、なんかさっきからずっと恥ずかしい状況ばかりだな……。ここらでちょっと、照れ隠ししとこっと。

 「……ま、真子だってやらしいじゃん!」

 「永遠に眠りたいの? 夏樹」

 「……」

 おやすみと言うのも許されず、俺は目を閉じた。

 言葉の乱暴さに反して、真子は俺にしがみついている。意識が途切れるまで、その温かみも感触も、ずっと肌に感じられた。

 その晩は、空気を読んだのか、春彦は奇跡的に夜中に目を覚ますことはなかった。

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