第5話

 猿はすぐに見つかった。桃太郎は犬の入ったダンボールを抱え、船の上でロープの手入れをしている若い漁師に、この辺で猿を知らないか、と尋ねてみた。漁師は、桃太郎と犬の顔を交互に見た後、怪訝そうな表情を浮かべながらも猿の居場所を教えてくれた。猿はだいたいこの時間はいつも、波止場の一番端の方で釣りのようなことをしているということだった。どうもその猿は、この界隈では有名な(悪い方で有名な)猿みたいだった。

「あんた、どんな事情であいつを探しているのか知らないが、やめておいたほうがいいと思うけどね」若い漁師は見るからに頑丈そうな太いロープを手繰りながら言った。「あいつは、ちょっと変わっている。まともじゃないんだ。とにかく俺たちはあまりあいつには近寄らないし、あいつも俺たちに近寄ってこない。まぁ会ってみれば分かるよ」

「ありがとう」桃太郎は礼を言って、漁師から教わった場所へ行ってみた。波止場には、よく使い込まれた船がずらりと並んでおり、まるでスーパーの前で待たされる犬みたいにロープで係船柱に繋がれていた。岸壁に打ち寄せる波が船を揺らし、時折隣の船とぶつかってゴツンという重苦しい音を立てた。そんな波止場の一番端に、猿男はいた。


 猿男は波止場の係船柱に片足を乗せ、釣り糸を海に垂らし、まるで憎い相手でも見るみたいに水面をじっと睨んでいた。

「こんにちは」なんだかよく分からないままに、桃太郎は話しかけた。彼は横を向いて桃太郎の方をチラリと見た後、すぐに正面に向き直り、静かに揺れる海面を睨みながら、小さな声でブツブツと何かを呟いた。

 彼は小柄な男性で、茶色の全身タイツを着て、足には茶色いブーツ、手には茶色い革手袋を着けていた。尻の部分には後から縫い付けたような丸い尻尾があり、タイツに包まれた頭部の上から猿の耳に見立てた茶色い耳あてを着けている。彼がなぜそんな格好で釣りをしているのか分からないが、とにかくそれは彼によく似合っていた。

「ここでは、何が釣れるんですか?」桃太郎は尋ねた。

「釣れないよ、何も」猿男は面倒臭そうに答えた。

「だけど、何かを釣るために釣りをしているんでしょう」

「釣りをしているんだ。釣れるか釣れないかは問題じゃない」

「でも、狙っている魚はいるでしょう?」

 猿男は拗ねたように黙りこんだ。どうやらその質問は彼にとって不適切な問いかけであるらしかった。桃太郎は会話を続けようと次の質問の内容を考えたが、何を尋ねれば良いのかわからなかったので結局黙っていた。猿男は足元の茶色いナップザックからタバコを取り出して口に咥え、マッチで火をつけて不味そうに吸った。

「何も釣れなくていいんだよ」猿男はそう言って、係船柱にどしりと腰を下ろした。「釣れる必要が無いんだ。だから釣り竿には餌を付けていない。もちろん針も。ただ糸を海に垂らしているだけだ」

「どうして?」桃太郎は驚いて尋ねた。餌を付けていない?

「どうして、だって?」猿男は再び不機嫌そうな顔をした。猿男の着ているタイツはよく見ると傷だらけで、破れた部分を不器用に縫い合わせて補修した跡が何箇所もあった。革手袋は長い間洗われていないようで、油や泥で黒ずんで染みだらけだった。「可哀想だからさ。餌にされるミミズも、釣られる魚も。おいらは釣りは好きだけど殺生は好きじゃない。だから餌を付けないんだ」

 二人は黙りこんだ。桃太郎はダンボールをコンクリートの波止場に置き、その隣に腰を下ろした。犬はじっと猿男を見ていた。

「鬼ヶ島に行きたいんだ」桃太郎は言った。

「ふうん」猿男は横を向いたまま、興味が無さそうに答えた。

「でも行き方が分からないんだ」

「おいらも知らないねえ」

「この海の先にあるみたいなんだけど」

「知らないよ、鬼ヶ島なんて。見たこともない」

 猿男はそう言ったが、それが嘘であるということは明らかだった。反応が薄すぎるし、こちらを見ようともしない。彼は無関心を意識しすぎているようだった。

 桃太郎は猿男を無視して、ダンボールの中の犬を撫でることにした。犬は一瞬驚いたようにピクリと動いたが、すぐに体を丸め、気持ちよさそうに桃太郎に背中を預けた。桃太郎が黙って犬を撫で続けていると、猿男は少しそわそわした感じで尻を動かして何度も係船柱に座り直し、桃太郎と犬の方をチラチラと見た。猿男はどうやら扱い易い性格であるようだった。やがて、彼は桃太郎の方にゆっくりと体を向けた。

「その犬は君のペットか?」猿男は尋ねた。

「友達だよ。昨日会ったばかりだけど」桃太郎は犬から目を離さず、ぶっきらぼうに答えた。

「名前は?」

「名前なんてないよ。犬は犬だ。僕は犬さんと呼んでいるけど」

 猿男はまたしばらくそわそわとしていたが、やがて釣り竿を地面に置いて、犬の側に寄ってきた。桃太郎と猿男は、犬の入ったダンボールを挟んで向かい合うような形になった。

「触ってみてもいいかい?」猿男は小さな声で言った。「おいら、犬を触ったことがないんだ」

「それは僕が決めることじゃないよ。犬さんに直接訊いてみなよ」桃太郎は答えた。

「犬さん、背中を少しだけ触ってもいいかい?」猿男はダンボールを覗きこむようにして言った。犬は、怪訝そうな顔をして猿男を見ていたが、やがて諦めたように、<ああ>と言った。

 猿男は革手袋の人差し指の部分を引っ張って右手から手袋を引き抜いた。彼の素手は浅黒くずんぐりとしていたが、不思議と不潔な感じはしなかった。彼はまるで海岸に打ち上げられた軟体生物でも触るみたいに恐る恐る犬の背中に指をつけた。犬はおとなしくじっとしていた。猿男はしばらくビクビクしていたが、慣れてくると桃太郎がやったのと同じように犬の背中を優しく撫でた。彼はとても満足そうな顔をしていた。

「温かいね」猿男は言った。「君と犬は友達なんだね?」

「そう、友達だよ。昨日は一緒に寝たし、ご飯も食べたからね」

「うん」

「そういえば、今日は朝から何も食べていないね。犬さん、ご飯を食べる?」

 犬はゆっくりと首を上げ、<たべる>と言った。桃太郎は鞄から皿を2枚取り出し、そのうちひとつにペットボトルの水を入れた。

「ドッグフードでいいかな?それとも、何か買ってこようか?」

 犬は首を左右に振り、<きびたんご>と言った。

 桃太郎は腰につけた巾着袋からきびだんごを二つ取り出し、皿に入れてダンボールの端に置いた。犬は少し匂いを嗅いだ後、一つずつゆっくりと旨そうに食べた。犬があまりに旨そうに食べるので、桃太郎も腰の巾着袋からきびだんごをひとつ取り出して食べた。作ってから一日経っているので少し固くなっていたが、まだ食べられないという程ではなかった。猿男は、犬と桃太郎がきびだんごを頬張り、ゆっくりと噛みしめる様子をじっと見つめていた。

 桃太郎は水筒のお茶と、腰につけたきびだんごの袋を黙って猿男に差し出した。猿男はとても驚いたようだった。

「いいのかい?」

「もう古くなるから、食べてよ。僕と犬さんじゃ食べきれないから」桃太郎は言った。

「ありがとう」猿男はきびだんごを頬張り、モニュモニュと噛み締めながら言った。「とても美味しい」

 結局、猿男はきびだんごを五つも食べてしまった。まるで誰かに取られるのを恐れるみたいに勢い良く頬張り、喉に詰まらせて咳き込むので、桃太郎はその度に水筒でお茶を飲ませてやった。猿男が咳き込む度に犬は眉間に皺を寄せて二人の方を見た。こうして慌ただしく食事を終えた二人と一匹は、大きなゲップをしてから波止場にゴロンと寝転んだ。太陽の光を吸ったコンクリートの地面はとても温かく、まるで質量の無い布団に包まったみたいで、このまま眠ってしまってもいいくらいだった。

「鬼退治に行くんだろう?」猿男はコンクリートに仰向けに寝転び、晴天の空を見上げながら言った。

「うん」桃太郎は答えた。

「行き方を知っているよ」猿男は照れくさそうに言った。「さっきは嘘を言って悪かったよ」

「いいさ」

「ここから海を渡るんだ」猿男は頭をポリポリと掻いた。タイツの隙間から髪の毛が何本か抜け、コンクリートの上に落ちた。「でも、このあたりの潮目はとても複雑で、普通に船を漕いでもまず辿りつけない。行くには特別な方法が必要になる」

「一緒に行ってくれるの?」

「いいよ」猿男は照れくさそうに言った。「一緒に寝たし、ご飯も食べたからね」

「犬さんにも聞かないと」桃太郎は言った。

「犬さん、おいらも一緒に行ってもいいかい?」

 ワン、という犬の声が昼時の静かな波止場に響きわたった。


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