第6話

 波止場で一寝入りした後、彼らはひとまず猿男の自宅へ行くことにした。そこで鬼退治の作戦と準備を整えよう、と猿男が提案したからだ。彼は釣り竿を肩に乗せ、港から遠ざかる方向へ足早に歩いた。桃太郎は犬の入ったダンボールを抱え、彼の後に続いた。

 港から少し離れると、建物は殆ど見られなくなった。彼らは、車2台がなんとかすれ違うことができる程度の粗末な道路を、ただまっすぐに歩いた。道路の左側は海岸で、錆びついたガードレールの向こう側は切り立った崖になっていた。そして道路の右手にはすぐそこまで林が迫り、彼らが歩いている場所は、海と林の境界線に出来た僅かな段差の上といったところだった。

「鬼ヶ島に行くには、海を渡る必要がある」五分ほど歩いたところで、猿男が言った。彼は桃太郎の方を振り返ることも歩を緩めることもなく、まるでバリ島のスコールみたいに唐突に口を開いた。「ここからは見えないけれど、距離的にはそんなに遠くないという話だよ。地平線の向こうっていうと遥か遠くのようだけれど、実際はそんなに遠くまで見えている訳じゃないんだ」

「死と同じように」

「そう。遠いようで、意外と近くにある」猿男は繰り返した。彼が歩くと、足の動きに合わせて尻に縫い付けられた丸い尻尾が規則的に左右に揺れた。

「鬼ヶ島はここからそんなに遠くない場所にあるんだね?」桃太郎は尋ねた。

「うん。でも、普通に船を漕いでも絶対に辿り着けない。おいらは頭が良くないから詳しいことは分からないけれど、どうもこのあたりの海底の地形はかなり特殊で、海流がとても複雑みたいなんだ。そして、潮の満ち引きと共に流れが常に変化する。考えもなしに船を出すと、海流に飲まれて転覆するか、どこか遠くへ流されてしまう。とにかく目的地には辿りつけない」

 そこまで話すと、彼らは再び黙って歩き続けた。先に進むにつれて路幅はどんどん狭くなり、森が少しずつ勢力を拡大して海に近づいていった。桃太郎は猿男の話を頭の中で整理してみた。遠いように見えて意外と近く、しかし普通の方法では決して辿りつけない場所。そんな場所が鬼ヶ島以外にもあるような気がしたが、それが何なのか桃太郎には思い出せなかった。その時、桃太郎は前方の何かにぶつかり、危うく犬を地面に落としそうになった。猿男が立ち止まったことに気付かず、その背中に勢い良くぶつかったのだ。

「ここが、おいらの家だよ」猿男は森の方を指差して言った。それは、家と呼ぶにはあまりにもお粗末な代物だった。藁で編みあげられたドーム状の塊が、木と木の間に隠れるようにして佇んでいる。高さは1メートル、直径は二メートルといったところで、家だと言われなければ大きな鳥の巣のように見える。ドームには小さな入口のようなものがあり、入口付近には使い古されたヤカンや鍋が転がっている。そのすぐ隣の木の枝には、襟の伸びた肌着とタオル、そしてトランクスが干されていた。

 猿男に続いて、桃太郎はその家に入った。犬を先に中に入れ、桃太郎が最後に入った。入口が狭いので、入る時にかなり小さく身を屈めなければならなかった。しかし、外見とは裏腹に室内は意外と快適だった。藁はかなり頑丈に編み込まれているようで、天井からは殆ど光を通さず、入口を閉じてしまえば何も見えないくらいに真っ暗になりそうだった。

「お茶がほしいな」猿男は乱暴にブーツを脱ぎ、手袋を外しながら言った。桃太郎はリュックから水筒を取り出し、彼に手渡した。彼は黙って水筒を受け取り、ぐいっと一口飲んだ後、悪いね、と言って桃太郎に返した。

「さて、おいらはどこまで話したかな?」猿男は体を横にし、頬杖を付きながら言った。

「海路では鬼ヶ島に辿りつけない」桃太郎は言った。

「そうだ」

「じゃあ、空路で行くことになるの?」

「確かに、空を飛んでいけば、海流は関係ないからたどり着くことは可能かもしれない。でも、それにはヘリコプターとか、プライベートジェットとか、もしくは気球とか、そういう設備が必要だね。おいら達にそんな金はないし、今から飛行機を作るわけにもいかない。ライト兄弟じゃあるまいしね。つまり、おいら達に羽でも生えないかぎり、飛んで行くのは不可能だ」

 森の中は様々な音で満ちていた。木の葉が風に吹かれ、波打ち際にいるような音を奏でた。すぐ近くで小鳥のさえずりが聞こえたが、すぐに飛び去っていってしまった。桃太郎は目を閉じ、そんな森の様子を想像しながら、小さくため息をついた。

「じゃあ、僕達が鬼ヶ島には行く方法は無いということ?」

「実は、地下道があるんだ」猿男は得意気に言った。

「地下道?」桃太郎は驚いて繰り返した。「だって、鬼ヶ島は海の向こうにあるんだろう?」

「そうだ」彼は尻をポリポリと掻いた。「これは多分おいらしか知らないと思う。さっきも言ったように、このあたりの海底の地形はかなり複雑だから、岩盤の隙間が狭い通路になっていて、それが鬼ヶ島まで通じているみたいなんだ。実はおいらも途中までは行ったことがあるから間違いない」

「なんだか信じ難いね」桃太郎は言った。猿男は桃太郎の言葉を無視して続けた。

「これはおいらの推測だけどね、昔は、鬼はその道を通って人間の世界にやってきて、悪さをしていたんだと思う。実際にこの街では、鬼が時々やってきては、人攫いだとか盗みだとか、さんざんそういう悪さをして帰っていったっていう記録があるんだよ。まぁ、それは何百年も前の話だけどね。でも、こちらから海を渡って鬼ヶ島に行けない以上、鬼ヶ島からこちらに来るにも何かしら特別な方法があったはずだろう?」

「でも、どうして鬼はやってこなくなったんだろう?」

「わからない」猿男は言った。「たぶん、鬼側の事情でこの通路の使用を禁止しているのか、あるいはこの通路の存在を知っている鬼が全員死んじゃったとか、そういう事じゃないかな」

 桃太郎は、鬼ヶ島から秘密の通路を通って何十人もの鬼が侵略してくる様子を想像した。どこからともなく現れる大量の鬼に、逃げ惑う人間達。なんだかスター・ウォーズのクローン戦争みたいだ。

「どうして君はそんなことを知っているの?」桃太郎は尋ねた。

「おいらが、この街で一番友達が少ないからだよ」猿男は言った。

「友達が少ないと、街に詳しくなるの?」

「そりゃそうさ」猿男はおもむろに手の爪の匂いを嗅ぎ、何かを確認するみたいに小さく頷いた。「一緒に遊ぶ友だちがいないから、おいらはいつも一人で散歩しているんだよ。他の人達がグループデートをしたり、ファミリーレストランでプロ野球リーグの話をしている間にね。だから、おいらはこの街の構造については誰よりも詳しいと思うよ。学校の休み時間や運動会の時に、居場所がなくて校舎をずっと歩き回っているような奴がいるだろう?それと同じだ。その場所に一番馴染めていない人間が、その場所に一番詳しくなるんだ」

「なるほど」桃太郎は言った。

 小便をしてくる、と言って猿男は外へ出て行った。枯れ葉を踏む音が少し続いた後、ジョロジョロと小便が植物に当たる音が辺りに響いた。桃太郎は犬を撫でながら、彼が帰って来るのを待った。犬は大きなあくびをした後、ダンボールの中で器用に背中と前足を伸ばしてストレッチをした。やはり足はまだ動かないみたいだった。しばらくして、猿男が満足したような顔で戻ってきた。きっと手を洗っていないんだろうな、と桃太郎は思ったが、指摘しないことにした。ここは彼の家なのだ。

「君は以前、その洞窟に入ったことがあるって言ったね?」桃太郎は犬から手を離して言った。

「ああ」

「実際に鬼ヶ島に辿り着いたの?」

「いや」猿男は言った。「かなり先までは行けたんだよ。多分、鬼ヶ島の直前くらいまで。その洞窟はほとんど一本道で、途中で迷いもしないし大きな障害も無かったから。でも、最後の最後で道が二股に分かれていたんだ。おいらも、せっかくそこまで行ったわけだから、何か手がかりがないかと思ってその辺りを探索していたんだけど、そこでふと、洞窟の底に溜まっている海水の水位が少しずつ上昇していることに気付いたんだよ。よく考えたら、そこは海底だからね。たぶん、その洞窟は干潮の時にしか現れないんだ。おいらはそれからすぐに走って戻ったよ。そのままそこにいたら水没して死んじまうからね。そして何とか生還したっていうわけさ」

「おいらはそれから、何回か洞窟に入ってみて、その道が現れる時間なんかを観察してみたんだ。そして、洞窟は干潮の間の3時間くらいしか通ることが出来ないということが分かった。だけど、最後の二股の道のどちらが鬼ヶ島に続いているのか、そこだけがどうしても分からなかった。両方の道を調べるには、どうしても三時間じゃ足りなかったんだ。一か八か、どちらかに絞って進んでみてもいいけど、もし行き止まりだったらそこでアウト。溺死だ」

「つまり、生きて鬼ヶ島に辿り着く確率はフィフティ・フィフティということだね」桃太郎は言った。

「そう。普通に行けばね。でもおいらは思いついた。確実に鬼ヶ島に行く方法を。教えてほしい?」

「ぜひ教えてほしい」桃太郎は僅かな苛立ちを感じたが、それを出来るだけ表情に出さないように努めた。

「キジを使うんだよ」猿男は得意気にニヤリと笑った。

「キジ?」桃太郎は訳が分からず繰り返した。「キジって、鳥の雉のこと?」

「そう」猿男は言った。彼は、説明がしたくてたまらないという様子だった。「鬼ヶ島は海路では行けないけど、空路なら案外簡単に行けるんだ。だから、鳥を飼い鳴らして何度も鬼ヶ島まで行かせて、その位置を覚えさせる。鳥には帰巣本能があるから、外が見えなくても方位磁石みたいに巣の方向がわかる。つまり、鬼ヶ島の方向を覚えさせたキジをその分かれ道まで持って行けば、進むべき方向を教えてくれるっていう訳だよ」

 桃太郎はひどく混乱した。なんだかとても無茶な話に聞こえるのだが、しかし今は猿男しか頼れる人間がいないのも事実だった。彼は確かに妙な格好をしていて大変な変わり者だが、決して悪い奴ではない。信じるしか無いのだ。

「君の言いたいことは分かるよ」桃太郎は言った。「確かにそれならうまくいくかもしれない。正直、突然のことでとても混乱しているけど、君を信じたいと思う。でも、ひとつだけ疑問がある。どうして雉なの?なんとなく、そういう事には鳩やカモメみたいな鳥の方が適しているような気がするけど?」

「鳥ならなんでもいいんだよ。おいらがたまたまキジを飼っているから、キジを使うっていうだけのことだ」

「雉を飼っているの?」

「うん、外にいるよ。ちょっと訳ありだけどね。でも飛べるのは飛べるし、おいらに懐いている。可愛い奴だよ」


 雉は、猿男が言うように、確かに訳ありだった。猿男に案内されて藁のドームの裏手に行くと、紐で木に繋がれている雉が、地面を掘り返してミミズを取って食べていた。そして、雉の首には矢が刺さっていた。矢はちょうど雉の首の付け根あたりを貫通しており、矢尻には乾いた血の跡が付いていた。

「海岸で弱っているところを見つけてね、おいらが看病したんだ」猿男は雉の頭を撫でながら言った。雉は煩わしそうに頭を動かし、小さくケーンと鳴いた。「こんなんだけど、元気は元気なんだよ。餌もよく食べるし、空も飛べる。鬼ヶ島の方向も分かる」

「本当に?」桃太郎が尋ねると、猿男は少しムッとしたようだった。

「分かるさ、試してみるかい?おい、キジ。鬼ヶ島!」

 猿男がそう言うと、雉は面倒臭そうに首を上げ、頭を九十度ほど左に回した。首と連動して矢も動き、嘴と矢尻が丁度直角になるような格好になった。

「これは…」桃太郎は頭を掻きながら言った。「これは、嘴の方向を見ればいいのかな?それとも矢の方向?」

「矢の方向に決まっているだろう。矢印だよ。これは」猿男は得意気に言い、雉の頭を撫でた。雉は木の付け根の方へ走って逃げた。

「やれやれ」桃太郎はガクリと肩を落とした。

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